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Title <研究ノート>宋代の流刑と配役
Author(s) 辻, 正博
Citation 史林 = THE SHIRIN or the JOURNAL OF HISTORY (1995),78(5): 789-806
Issue Date 1995-09-01
URL https://doi.org/10.14989/shirin_78_789
Right
Type Journal Article
Textversion publisher
Kyoto University
宋代の流刑と配役
辻
正
博
宋代の流刑と配役(辻)
一 問魎の所在
唐律の刑罰体系、すなわち、答・杖・徒・流・死のいわゆる五
刑は、七世紀前半にその枠組みが定まり、その骨格はのちの開清
律にまで継承された。その意味において、前近代中国の刑制は、
唐律において一応の完成を見たと言ってよい。しかしこのことは、
後代の刑罰が唐律の規定そのままに執行されていたことを意味す
るわけではない。むしろ五刑の実態は、隣代や社会の推移ととも
に変化してきた。否、唐律が行用されていた時代においてさえ、
律の刑制と現実の刑罰執行とのあいだには、焉過し難い飛離があ
ったと思われるのである。
唐戸をはじめとする唐朝の諸制度は、南北朝から唐初にかけて
の社会を前提として形成された。しかし、社会の現状は、律がそ
の形を整えた時点においてすでに変わりつつあった。そして、唐
後半期から宋代にかけての時期、律の刑制は、三代に完成したそ
の他の政治勧度と同様に、激変する社会への対応を余儀なくされ
①
たのである。
なかでも著しい変貌を遂げたのは、徒刑(有期の強制労働)と
流刑(有期の労役を伴う強制移住)とであった。これらの刑罰が
②
律の刑罰体系の主要部分を構成したことを考えれば、それはむし
ろ当然とも算える。流刑に関して言えば、唐代においてすでに、
現実に執行される刑罰と律の規定とのあいだには相当の懸隔があ
り、本来の追放刑的な性格はこの時から変化しつつあったと言っ
③
てよい。
新たな統一王朝たらんとして登場した宋朝が建国直後の建隆四
年(九六三)七月に制定した刑法典、いわゆる『宋刑統』(以下、
『刑統』と略称)は、周知の如く、唐律の枠組みをほぼそのまま
継承したものであったが、そこに規定された刑罰の執行形態は、
ユ29 (789)
唐画とは大きく異なっていた。なぜなら、隅じく建隆四年三月に
制定された「折杖法」が『刑統』に採用されていたからである。
折杖法の規定によれば、律の五刑のうち、答刑・杖刑は骨離(轡
打ちの刑)に、徒刑は警部(背中を打つ刑)にそれぞれ換算して
行なわれ、流刑は脊杖と一年聞の配役つまり強制労働(加役流の
④
場合は三年)に読み替えて執行される(本稿で「配役」という場
合、すべてこれを指す)。これによって、徒刑は労役刑としての
本質を完全に失い、流刑もその性質を大きく変えることとなった
わけである。
折杖法は、北斗末に二度にわたる改正を経たものの、その変更
は答刑・杖飛・徒刑に限られ、しかも玉杖から小杖に変更された
⑤
答刑を除き、杖打数の減少に止まったから、法の大枠は宋代を通
して維持されたと言ってよかろう。したがって、宋初に定められ
た『刑統』が南宋滅亡に至るまで現行法として行用されたと考え
てよいならば、宋代における主な刑罰として、死刑の他に、智杖・
脊杖(南宋以後は小風も加わる)および配役を考えるのはごく自
然の発想であろう。
もちろん、古代には、皇帝の下した救を取捨選択して編まれた
「編敷」や「敷令格式」という、『刑統』とは別系統の法典が存在
した。律と敷とは基本法と特別法の関係にあり、敷に規定がない
ときに、律が補充的に効力をもつ。しかしながら、川村算筆が指
摘されるように、敷の定める刑罰の多くは律つまり『刑統』の五
刑に即したものであり、それらの刑罰を執行する際には折杖法が
適用される。男爵法は洲雲において「律敷双方の法定刑に関する
⑥
読み替え規定」として行用されたのである。したがって、聖代の
執行刑としてまず念頭に置くべきは、やはり轡杖・脊杖(および
小玉)と有期労役刑たる配役、そして折冬空の南外にあった死刑
ということになろう。
ところが、従来、宋代における最も普通の刑罰として挙げられ
てきたのは、必ずしもこの通りではなかった。たとえば滋賀秀三
氏は、聖代の刑罰について、次のように述べておられる。
宋朝の支配が確立して平和が恢復すると、死刑に該当する無
闇に多数の犯人のうち、大部分について死一等を減ずるため
の手段として、既述の五刑の上に新たな刑種が発生した。配
軍(注記は省略)、編管、導管なる刑名がこれであり、総称
して編配という。(中略)宋代において、轡杖・脊杖とこの
編配とが最も普通の刑罰であった。確かに、唐代以来の細作
という方式の強制労働が、流刑の読替えとして建前の上では
残っていた。その執行方法を定めた宋学独自の条文も見出さ
れる。それは概ね島蔭の規定を踏襲してはいるが、婦人には
130 (790)
宋代の流刑と配役(辻)
居作を課さないこととしている点などは唐令と異る。しかし
混晶に、宋の敷一それは部分的にしか伝存していないが
一を見ると、しかじかの罪が律に照らして流に当るならば、
これを畑道に処する旨を定めている箇条が少なくない。そし
て、盗犯が編章に処される場合には居作を免除するという一
箇条がある。かような敷の規定によって、流の折憲法による
読替えがそのまま適用されることは殆んどなくなっていたの
⑦
ではないかと考えられる。
③
滋賀民によれば、配軍は繭…軍(雑役部隊)への編入、煙管は「遠
隔地に押送して、その地で自主的に生計を立てさせながら、その
地の地方官庁の監察下におく」刑罰である。編管の者は毎月出頭
して点呼を受ける義務を負うだけで日常生活は一般市民と異なら
ない。愚管は、編管に似てそれより監察の程度の緩やかなものを
⑨
言うと思われる。編配はいずれも無期刑であり、家族の随行が許
される。滋賀氏は、編網をこう解説された上で、轡杖・鹿杖と並
ぶ、宋代の「最も普通の刑罰」とされたのである。一方、折杖法
における流刑の代替刑を一部を構成していた配役については、極
めて消極的な評価しか与えられなかった。氏の説によれば、流犯
は折杖法に基づき脊杖を執行されたのち編配に処され、居作は免
除されるのが一般的であったと理解される。
滋賀氏が「最も普通の珊罰しとされた刑罰のうち、磐杖と脊杖
は折杖法に基づいて執行される刑罰である。それらを「普通の刑
罰」に挙げておきながら、同じく昏昏法において流刑を読み替え
て執行される配役を除外されたのはなぜであろうか。氏は、脊杖
の後の「配役」が現実に行なわれた事例がないことや、宋人の言
葉に配役を「昔のこと」とする口吻が見られることなどを、その
⑯
理由とされる。滋賀氏は、配役を折画法の規定には見えるものの、
実際に執行されることのほとんどなかった刑罰と位置づけられた
のである。
かかる滋賀氏の見解は、近年の研究においても踏襲され、もは
⑪
や定説となった感さえある。しかし、わたくしにはいくつか脈に
落ちぬ点がある。たとえば氏は、配役が「無配との関係上必ずし
も実行されていたとは考えら.れない」と雷われるが、宋初におけ
る配軍の位置づけやその成立過程を考えると、にわかには同意し
がたい。なぜなら、面杖法が施行されはじめた時期と孤軍が死刑
に次ぐ重刑として宋朝の刑罰体系の申に組み込まれてゆく時期と
⑫
の間には、若干の時間のずれが存するからである。また、川村氏
の言われるように、二代においても筈・杖・徒・流・死の唐紅的
な五刑が法定刑の根幹であり、折杖法は五刑を現実的な執行刑に
読み替える機能を果たしていた。換言すれば、五刑的な刑名が確
131 (791)
定したのち実際に刑罰を執行する段になってはじめて、折州法に
よる刑罰の読み替えが行なわれたのである。折漁法は、明代にお
いて「律敷双方の法定刑に関する読み替え規定」であったと言え
⑬
よう。とすれば、流刑に関しても折乗法をそのまま適用して「弓
杖+配役しに読み替えて執行されたと考えたほうが、むしろ自然
なのではなかろうか。次童では、滋賀説の依拠する資料を再検討
することから始めて、宋代、折杖法のもとで流刑がどのように執
行されていたのかについて、規定上は脊杖の後に課されるはずの
配役を中心に見てゆきたいと思う。
① 滋賀秀一二「刑罰の歴史-東洋一」(荘子邦雄・大塚均・平松義郎編
『飛罰の理論と現実』岩波書店、一九七二年、所収。以下、滋賀「刑
罰の歴史」と略称)一〇一頁。
②たとえば、仁井田陞「中之における刑罰体系の変遷1一とくに『自
由刑』の発達-」(『中国法制史研究刑法』東京大学出版会、一九
五九年。以下、仁井田「刑罰体系」と略称)五一頁、滋賀「刑罰の歴
史」九四頁など。
③ 拙稿「唐代流刑考」(梅原郁編『中国透世の魚鱗と社会』京都大学人
文科学研究所、一九九三年、所収。以下、辻「流刑考」と略称)。
④ 翔村康「瓶代黒崎法初考」(『早稲田法学』六五-縢、一九九〇年。
以下、川村「折杖法」と略称)八一~八四頁。
⑤川村康「政和八年折杖法考」(杉山晴康編『裁判と法の歴史的展開』
敬文堂、一九九二年、所収)を参照。
⑲ 翔村「折尾法臨一℃O頂。
⑦滋賀「刑罰の歴史」一〇三頁。
③ 拙稿「重言の配流と配軍」(『東洋史研究』五ニー三、一九九三年。
以下、辻「配軍」と略称)を参照。
⑨滋賀「刑罰の歴史」一〇三頁。
⑩ 滋賀「刑罰の歴史」一〇三頁。
⑧ たとえば川村「折画法」も、滋賀説に依拠しつつ「流刑に代替され
るべき配役は、実は編配との関係上必ずしも実行されていたとは考え
られない」と述べられ(八三頁)、ざらに、『続資治通鑑長編』(以下、
『長編』と略称)や『宋会要送稿』(以下、『宋会要隔と略称)などの
史料において、「脊二十配役」が科せられるべき場合にもおおむね杖
の執行後には編配が科されており、現実に配役が行なわれた事例は未
だ見出せないとされる(九〇頁)。 竃。囲三σq簿”切夷貯春闘§¢§糺
Oミミ§い§蝿Gミ§.09旨葺ごσqo⇔蝕く。話一な勺憎。ω。・℃O曽§σ嵩£ρ
おり・。.もこれと同じ立場に立つ。また王雲海主翼『宋代司法制度瞼(河
南大学出版社、㎝九九二年)も、折重事について言及しながら配役の
実際については全く触れるところがない。
⑫詳細は、辻「配車」二~一二頁を参照。
⑬用村「弓杖法」九二~一〇〇頁。
二宋代の流刑
滋賀氏によれば、折写照による流刑の読み替えがそのまま適用
されることはほとんどなく、配役(三一)は編配との関係上必ず
しも実行されなかったという。かかる見解のよりどころとなった
①は、β療代の漱には傭の疏剤を編鷹に読み潜沈黙ことを定訪烹
132 (792)
栄代の流刑と配役(辻)
簿条が少なくなじことい口流狙が続配に処される掛合には暦伶を
免除すると規定した条文が存在すること、⇔三代人士の言に居作
のことを昔のことと言いなす口吻が晃られること、の三点である。
しかし、これらは果たして本当に滋賀説の支えとなるのであろう
か。
編組(配軍・編管・覇管)は、対象となる罪人を何らかのかた
ちで国家が管理・監督することから、「配隷」という範瞳で一括
①
して言及されることがある。「配隷」と題された『二会要』刑法門
四に、本来は別個の刑罰である配軍や編管などに関係する資料が
まとめて魏されているのも、その一例である。資料はおおむね年
代順に配列されているが、その北頭には、次のような総論めいた
文童・が配されている。
国朝、凡そ罪を犯さば、流罪は決し詑れば配役すること旧条
の如し。杖以上の情重き者は、刺面と不刺藏と有り、本州の
牢城に配し、傍お各おの地里の近遠を分かち、五酉里、千里
②
以上、及び広南・福建・荊湖の別あり。(下略)
この飛法門四は、『永楽大典』巻皿五一六八、配からの抄録で
ある。もとの釣魚が宋代に編まれたいずれに該蜜するのかは未詳
であるが、最も早く成立した「新修国朝会要」一五〇巻が進上さ
③
れたのが仁宗の慶暦四年(一〇四四)であるから、ここに記され
ているのは、少なくとも建国からしばらく客間を経た時期の状況
ということになろう。とすれば、注租さるべきは書き出しの部分
である。これによれば、流罪を犯した者は、「二条」の通り、杖
刑(おそらくは脊杖)を執行されたのち労役に服することになつ
④
ていた。騒条とは、『刑統』にも取り入れられた建隆四年の折杖
法を指すと考えられる。このように、折墓園に基づいて流量を「脊
杖+配役」と読み替えて執行することは、少なくとも宋代のある
時期までは、刑罰執行上の根本原則のひとつとなっていたような
のである。孫爽『律音義』の記述は、これを傍証するものであろ
う。この書は、仁宗の天聖七年(一〇二九)に刊行された『刑統』
⑤
の注解書とでも言うべきものであるが、その名爵・流の条に
さだ
皇朝建隆四年、制む。徒を犯す者は杖を加えて役を免じ、流
を犯す老は杖を茄えて留住せしめ、三流は倶に役すること一
⑥
年、加役流は役すること三年なり。
とあるのは、当時、流罪人を留住、つまり現住地に留めて労役に
服させる決まりとなっていたことを示すものである。霊智法の本
文規定にはない、このような施行規則に糧当するようなことが仁
宗朝に編まれた律の公式注解書に記されているということは、折
杖法の読み替え規定が流刑についても耳擦そのまま行なわれてい
たことを示駿するものである。
133 (793)
『宋会要』は次に、いわゆる配軍刑が科される場合について述
べている。すなわち、律(『雄蜂』)或いは敷(下調など)によっ
て量刑すれば杖以上に該当するけれども、情状を勘案すれば『刑
統』に基づく刑を科するのでは軽きに失すると判断される場合、
⑦
牢城営なる雑役部隊に送り込むというのである。どの地方の宮城
営に編入されるかは、その時代と罪状とによって異なるが、大雑
把に言えば、最初は「本州しつまり現住の州の部隊に編入するこ
とになっていたのが、のちには距離の遠近によって刑罰の軽重を
⑧
示すようになっていった。配軍人には刺面(顔面への入れ墨)を
行なうのが原則であった。
要するに『宋会要』の記事に拠れば、粛軍刑が適用されるのは、
軽罪以上の「情重き者」つまり法により導き出された刑罰がその
罪状に比して不当に軽すぎる者に対してであって、それ以外の者
には、流罪であれば穎果法により「脊杖+配役」を科すというの
が、当時の原劉であったように思われるのである。年代の敷が、
干犯を編配に処するよう個別に定めるのは、むしろ編配を例外的
なものとして扱っていたために他ならない。
さて滋賀氏は、思置が編配に処される場合には愚作を免除する
と規定した条文の存在が、流刑の折杖法による読み替えがほとん
ど適用されなかっ沈ことの損拠の一つとされる。澗題の条文は次
の通りである。
寝て流を犯し応に配すべき、及び婦人の流を犯す者は、並び
⑨
に脊杖二十に決し、厚作を免かる。除は本法に依る。
すなわち、律あるいは敷によれば流罪に相当する罪であっても、
⑩
何らかの理由で配意刑が科される場合、および女子が流罪を犯し
た場合には、折護法による刑の読み替えのうち脊杖二十のみが執
行され、居作つまり配役は免除される。
配軍刑とは本来「減死 等の刑」、 つまり皇帝の実質的判断に
よって特に死一等を減じて科された刑罰のひとつであった。それ
が配軍が宋代の刑罰体系に法定刑として組み込まれたのは、太宗
⑪
の時代からである。のち、個々の犯罪について配軍に処する場合
が敷によって定められ、真宗朝から仁宗朝を境に、律の五刑を柱
⑫
として形を整えるに至った。配管刑を適用する揚合には、『慶元
条法事類』(以下、『条法事類』と略称)所収の条文にしばしばあ
⑬
るように、五刑を配軍に読み替える旨そのつど明記される。配役
を免除して編配に処するのが通例となっていたのならば、このよ
うに逐一規定する必要などないのではないか。配軍される場合に
居作が免除されるのは、敷によって五刑以外の刑罰を科するよう
特に定められた場合に限られるように思われるのである。一方、
女子に対する儲役免像は、汰宗.埣化四年(九九三〉の詔に基づ
134 (794)
宋代の流刑と配役(辻)
⑭
くものであり、以前は男子と同じく労役に服していた。要するに、
流刑の読み替えに伴う労役の免除規定の存在をもって、配役が実
際には執行されなかったことの証しとはできないのである。
次に、宋代人士の言に居作を昔のことと雷いなす口吻が見られ
るとされる点についてであるが、滋賀氏が拠られる史料は二つあ
る。ひとつは、神智の煕寧三年(一〇七〇)に中書門下が「刑名
未安者しとして列挙した問題点のうち「徒流面杖之法」について
述べた部分である。
一、徒流雛杖の法、管網密を加え、良民偶たま抵冒するもの
マむちう
有らば、便ち脊を杖たるるを致し、衆の醜棄する所となり、
終身の辱めと為る。愚頑の民、この刑に坐すると錐も、その
ぎず
創製旬を過ぎずして平らげば、則ちその痛楚を忘れ、又た椀
恥の心無し。惚れを以てその悪を懲らすに足らざるなり。若
し徒流罪の情理愚妻に非ざる者をして、洗えの鞍作の法を復
せしめ、如し赦降に遇わぱ、止だ月日を第減すべくんば、良
民をして則ち肌虜を殿傷するを免れしめ、但だこれを苦使し
て、歳満つれば則ち全人と為るを得、以て回心して自新すべ
し。頑民は則ちこれを両蓋に囚え、年歳を経歴せしむれば、
善良を侵摂すること能わず。かくの如くんぱ則ち俗に品格の
⑮
期有り、官に給使の利有らん。
「徒流賦質之法」とは雷うものの、述べられているのは、折杖法
施行により徒刑が労役刑でなくなったことが惹起した社会問題に
ついてであり、論者は徒刑を本来の労役刑の姿に戻すよう提言し
ているのである。「昔のこと」として言われているのは、律の徒
刑(労役刑)に他ならず、折杖法の居作部分に限らない。
いま一つ滋賀氏が依拠されるのは、南画・淳煕十一年中一一八
四)の刑部・大理寺の上奏文中の次のくだりである。
我が藝祖に逮び、五代の苛を一洗し、猶お階制をもって重し
と為す。是に於いて悉く易うるに決を以て流徒杖答の法と為
し、名は存するも実は改めらる。加役流より流二千里に至る
までその刑四あり、並びに脊杖に決し配役すること差有り。
謂うところの配役とは今の所謂配に非らず、古えの所謂徒役
これなり。徒三年より徒一年に盃るまでその刑五あり、並び
に脊杖に決すること差有り。面して尽くその無役の年を免か
⑯
る。(下略)
滋賀氏は、折明法の配役を「今の所謂配に非らず、古えの所謂徒
役これなり」と説明した部分に、叢雲が配役(居作)を昔のこと
と言いなす口吻を読み取られる。しかしここは、折杖法が流刑を
読み替えて課する配役が配下ではなく、律にいう徒役(居作)、つ
まり有期の労役刑であったことを説烈しているに過ぎない。した
135 (795)
がってこの資料を、玉杖法による流事の読み替えがそのままは適
用されなかったことの根拠とすることはできないのである。
以上に述べたことから、滋賀氏の拠られる資料が「流の早早法
による読み替えがそのまま適用されることは殆どなくなってい
た」という推測の根拠とはなり得ないことは明らかであろう。折
杖法の適用において、ひとり流刑のみを例外視せねばならぬ必然
性はなくなったわけである。
とすれば、配役に関する宋代独自の条文が『条法事類』に収め
られているのも、むしろごく当然のことと言える。まず服役の場
所について定めた断獄令の条文には
諸て流罪を犯して住家の所に帰り製作せんと願う者は、決し
、詑らば部署す、若し応に編管すべき者は、編管の所において
⑰
役す(羅善人、此に准ず)。
とあり、居作人つまり配役人は、通常、その現住地において労役
に服することになっていた。これは先に引いた『律音義』の注釈
とも符合する。
配役の実際については、同じく断獄令に次のように規定されて
いる。
諸て流囚決し詑らば、髪を黒し酌帯を宏り、口食を給し、二
十日外居回し、量りて三級或いは将校を以て直轄せしむ。假
日に所居の院を出つるを得ず。病を以て俣に在る者は免じて
⑱
陪署せしむ。役満ち或いは恩あれば則ち放つ。
すなわち、流罪が決まった罪人は、折杖法の規定に従って、まず
所定の数だけ玉杖を受けた後、頭髪を剃り、巾帯(衣冠)を取り
表って、本人分の食糧を支給されて服役する。食糧の支給額は、
⑲
給賜格によれば、一日一入嘉り「米二升」であった。配役人監視
のために、兵土もしくは将校が適宜つけられた。休日にも服役す
る場所から外に出てはならなかった。病気のため休暇を取った者
は、その分だけあとで服役した。服役すべき日数を満たした場合
もしくは恩赦があった場合、罪人は釈放された。
配役人と編配人とを区別して扱うよう定めた条文も存する。た
とえば、逃亡を試みて捕えられた場合、配役人と配軍人では受け
⑳
る刑罰が全く異なる。また偽って他人に罰を受けさせた場合の罰
⑫
則規定でも、編配と配役(居作)とははっきり区別されている。
更に、折杖法によって流刑が「脊杖+配役」に読み替えられた
事例もいくつか見いだせる。まず、南宋の事例ではあるが、刑部.
大理寺の下した判決原案で折解法による流刑の読み替えがなされ
ている例を挙げる。
紹興十一年(=四一)十二月、岳飛に連坐した僧沢一は、飛
部・大理寿によって「流三千里私罪」に断ぜられ、「まさに脊杖二
136 (796>
宋代の流刑と配役(辻)
十に決し、本構にて魁伶せしむること 年たるべし。役溝つるの
日に放ち、傍おまさに本葺に下して、『僧私曲流を犯さば還俗せ
㊧
しむ』の条に照らして施行すべし。情重ければ奏識す」との判決
を受けた。この判決原案は、聖旨、つまり顕宗の最終的判断によ
り「決脊杖二十、刺面、配二千里外州藤里城小分質倉」と変更さ
れたのであるが、これに原案に「情重奏裁」の文言があったため
に他ならない。通常の場合は、流罪の判決を受けた者に対する執
行刑が「決脊杖+配役」であったことが、この史料から逆に知ら
れるのである。
次に挙げるものも、流刑の代替刑として「脊杖+配役」が行な
われたことを示す事例であろう。太平興圏七年(九八二)八月、
四川地方の通貨政策(鉄銭の置銭への切り替え)にまつわる汚職
が摘発され、剣南東皇継運輸宋葦・同副使舞詠・同転運判官萢祥
らが御史台の獄に下り、粟・詠は「杖脊、配役将作監」なる判決
⑭
を受けた。宋箪らは、任地で月俸の銅銭と交換した際、法定レー
トよりも割高な交換比率を用いたため、罪に問われることとなっ
たのであるが、これは『解像統』巻一 、職制律にいう「監臨官
受所監臨財物」の餌取(もしくは強乞取)繊に相当すると思われ
る。
諸て監臨の官、監嘉する所の財物を善くる者は、一尺ならは
答四十、一匹ごとに一等を撫え、八匹ならば徒一年、八匹ご
とに}等を加え、五十匹ならば流二千里。(中略)乞取する
者は一等を加う。強捏取する考は、護法に准じて論ず。
嫁取に対する最高刑は流二千五百里、強乞取は流三千里である。
詠らの犯した罪は受註座屈臓の乞取(もしくは強乞取)に相当す
ると考えられ、融額もかなり大きかったはずであり、御史台はお
そらく彼らを流罪にあてたものと思われる。そして刑の執行に際
して、折杖法により流刑は「脊杖+将作監での配役」に読み替え
⑳
られたものと考えられる。
至道二年(九九六)八月、許州舞陽県尉劉蒙が県の役夫を決殺
して「杖脊、配役少府監三年」に処せられたのも、折三法による
⑳
流刑読み替えの例であろう。宋代の県尉は専ら爆撃の任に当って
いたことから、劉蒙の罪は、『車幅統』巻三〇、断獄律、監観官
挫忍人致死に
むちう
諸て監臨の官、公事に因りて自ら杖を以て人を錘ち死を致し、
及び人を恐迫して死を致す老は、各おの過失殺人法に従う。
(中略)漁れ監臨主司と難も、法に於いてまさに行罰すべか
らず、及び前人まさに擁拷すべからざるに錘慣する者は、翻
殺饒を以て論ず。死に至る者は加役流。
とあるうちの「前人不合錘拷而錘拷素、以翻殺傷論、至死者加役
137 (797)
流」に該当すると思われる。折杖法では、加役流は「脊杖二十+
配役三年」として執行される。
恩赦(赦・降・三音)においても、「徒役人」や「配役人」に対
する言及が、次のようにしばしばなされている。
徳音。荊南潭・朗州の死罪囚を減す。流以下はこれを釈す。
⑱
配役人は放還す。(太祖・古徳元年(九六三)四月)
天下に赦す。死罪を降して流に従う。流以下はこれを釈す。
⑳
配役者は単作を免ず。(乾徳三年(九六五)五月)
徳音。死罪囚を降し、流以下はこれを釈す。男子・婦人の配
⑳
役者は自便を聴す。(開宝九年(九七六)正月)
配流・徒役人等は、並びに元の罪犯を具して以聞し、別に進
⑫
止を聴け。(太宗・太平興国八年間九八三)八月)
配流・徒役人及び配黙せられし奴碑等は、並びに免じて庶人
⑳
と為す。(至道二年(九九六)正月)
両京・諸路の繋囚は、十悪の罪死に至る・事典の柾法賦を犯
す・劫殺・謀殺・故殺・已殺人は降さざるを除くの外、死罪
は降して流に従い、流罪は降して徒に従い、徒罪は(杖に)
従い、杖已下は並びにこれを釈す。徒役人は並びに放ちて便
に従わしむ。内、鯨面人は所望を具して奏裁す。(真宗・威
⑭
平二年(九九九)閏三月)
応て流罪を犯して配役さるる人は、並びに放ちて逐便せしめ
よ。応て刺面・不刺面の配軍・詩話人等は、謀叛以上の縁坐・
入強盗・已殺人を除くの外、並びに特に三年を減ずるを与え、
理えて検放の年限と為せ。(下略)(宣和七年(一一二五)十
一月)
応て流罪を犯して配役さるる入は、並びに放ちて逐便せしめ
⑯
よ。(下略)(建炎二年(一一二八)十一月)
このうち、着初の例に限って言えば、赦文中の「配役人」「徒役
人」の中に、折過法による配役人以外の者が含まれていた可能性
がある。なぜなら、当時、強盗・蹴盗や専売法違反などの罪を犯
した者を「脊杖+配役」に処するよう定めた法律があったからで
⑰
ある。しかし、こうした犯罪に対する処罰もおおむね北宋前半の
⑳
うちに改められたから、これ以降の「配役人」は、専ら折杖法に
より流刑を読み替えて服役している者と君訂してよい。
恩赦により配役人が放免されることが多いのは、塾代において
律の規定にもかかわらず、流人が恩赦によって帰還を許されてい
罐ことを承けるものであろ先案法事類』に引姦纂には恵
⑳
赦があれば配役人を放免すると規定されている。
少階監言えらく。本監の配役人、前太常丞就下ら九人、赦に
会うを以て上請す、と。特に冒してその居作を免ずるも終身
138 (798)
朱代の流刑と配役(辻)
⑳
歯せず。冤ら皆な職吏なるを以てなり。
と、恩赦によって旧作を免除されている例も存する。この場合、
上請の手続きを踏んでいるのは、郭冤らが収賄罪を犯して特に厳
罰に処せられた官吏であったからに他ならず、通常の場合は、も
っと簡単に放免されたはずである。
以上に挙げたことがらから、宋代の流刑は、鼻繋法により「脊
杖+配役」と読み替えて執行されていたことは明らかである。そ
こで次に問題となるのが、その配役が具体的にどのような形態を
とって行われていたかである。次章では、宋代における配役の実
態とその変容の過程を見てゆくこととする。
① 配隷とは、もともと「隷属」を意味する言葉であった。それが唐律
では「州照に属さずに、国家の諸機関・部局に隷属する人や戸」の意
で用いられた。更にのちには、対象となる罪人を国家が何らかの方法
で管理・監督する形式をとる刑罰、すなわち配役・配流・出軍・編管・
覇管などを広く指して使われるようになった。詳細は、拙稿「北宋『配
隷晦会議」(『滋賀医科大学基礎学研究』五、一九九四年)を参照のこ
と。
② 『宋会要』刑法四-一。国勢、凡犯罪、流罪決詑配役如旧条。杖以
無情立者、有刺面・不湖面、配本州牢城。伍各分地里近遠、五四里・
千里以上及広南・福建・荊湖之別。
③宋朝の会要編纂については、湯中『宋会要研究』(商務印書館、一
九三二年)などを参照。
④この場合の「決」が杖刑の執行を意味することは、律令研究会編『訳
注日本律令五 唐歌疏議訳注篇一』(東京堂出版、 一九七九年)一四
四頁注2などを参照。
⑤ 『玉海隔巻六六、詔令、天聖律文音義。七年四月、判国子駝孫爽言、
准筆工定律文流罪、翌翌与刑統不同、本町依律生文、刑統参用後救、
錐尽引疏義、頗有増損、(中略)又旧道多用俗字、改従正体、作律文
音義 巻、文義不同、即加訓解。
⑥皇朝建隆囎年、制、犯徒者加杖免役、犯流者加二幅佐、三流倶役一
年、加役流者三年。
⑦いかなる罪を犯したならば配軍に処す、と救に規定している場合も
ある。
⑧辻「配食」一一~一=頁。
⑨ 『条法事類』巻七五、刑獄、編配流役、名例敷。諸犯流応戒心婦人
犯流者、並決脊杖獣拾、免居作、除依本法。
⑩『条法菰類』巻七五、刑獄門、編配流役、名例敷に「諸称配者、刺
面、不指定型名者、早舟城」とあり、この場合の「配」が配軍の意味
で用いられていることは明らかである。
⑪ 辻「配軍」 一一~一二頁を参照。
⑫川村「折杖法」九四頁。
⑬ たととえば『条法事類』巻二九、催禁門、銅銭金銀出界、衛禁敷。
諸以銅銭出中岡界者、徒董年、伍掌文、流載肝里、五雲文加壷等、徒
罪配三千盟、従者配武肝里、流罪配広南、従者配三千里、三貫配遠悪
州、従者配広南、撮記絞、従者配凶悪州。(下略)
⑭『宋会要』飛法臨1三、淳化四年七月聖日。詔、凡婦人有罪至流者、
免配役。
⑮ 滋賀氏は仁井田「刑罰体系」の 引く『宋中置巻二〇一に拠られるが、
文章に省略があるためここでは『長編』巻二一四、煕寧三年八月を引
いておく。中書上刑名朱安曇五条。(中略)一、徒流折杖之法、禦網
ユ39 (799)
脈密b良民偶有抵冨、優致銚脊、衆所醜棄、為終身之辱、愚鞍懸罵レ
、聾坐骨窮、其創不過累旬葡平、則忘其痛楚、又無幌恥之心、是不足以
懲其悪、若令徒流罪情理非巨慧者、復古居作之法、如遇赦降、止可第
減月日、使良民則免殿軍肌虜、但苦使之、歳満則為全人、可以回心自
新、頑民則囚之権官、不能半夏善良。如此興俗野薄絡之期、官有給使
之利。(中略)野付編難所、詳議立法。
⑯ 『文献通考騙巻{六八、珊考、徒流。涼煕十~年、校二郎羅黙言、
(中略)既而刑都大理寺奏雷、(中略)逮欝血祖、 一洗五代之苛、猫
以陶制為重、於是悉易以決為流徒杖答之法、自存実改、自加役流釜流
二千里、其刑四、運搬脊杖配役有差、所謂配役非今之所謂配、古所謂
徒役是也、自徒三年単磁一年、其刑五、並決脊杖窯出、而尽免配役之
年。(下略)
⑰『条法纂類』巻七五、刑獄門、編配流役、断獄令。諸犯流罪、願帰
住家之所居作者、決詑部送。響応編管者、役於編管配所(綴斜里、准
此)。
⑱諸流吸決闘、髭髪去巾帯、給躍食、試拾日外居作、量以兵召出将校
防轄。假目、不得出所居翼壁。継紙在娠老、免陪日。役満或恩則放。
⑲『条法瑛類』巻七五、飛獄門・編配流役、給賜格。流囚居作者、決
詑、日給毎蒔米瓢升。
⑳ 『条法韻脚』巻……、職制門、給假に引く假書評によれば、流囚の
休暇は毎旬一日、元臼・寒食・冬至は三日であった。
⑳逃亡した配役人が捕獲ざれた場面の刑が杖一曲(智杖二十)である
のに対し、配軍人は元の配軍先に応じて珊罰が細かく規定されている
(概ね配役人の立合よりも重い)。『条法寡類』巻七五、刑獄、部送罪
人、勢照法、黒蟻救を参照。
@ 『灸法事類』巻七三、刑獄、出入罪、詐偽敷。諸藩里人霜露杖及代
虚者、各杖壼伯、(中略)令人代編配・移郷・三豊(幽居作而権令代
頃者・弗)互代懸路、各伽比溢流法・へ中略い駄上衆決・令流縮笹(化
溌朱刺面、編管・移郷不潔画人未葵土製処、居作細入役、与未決俺)。
(下略)
@ 『建炎以来朝野雑記』乙集巻一二、雑事、岳少保謳証断案。其僧沢
一、合流三千里私罪断、合決霊鑑工十、出処銀作一年、役満既放、働
合下本処、照僧犯私罪流還俗条、施行、情重奏裁。『建炎以来繋年要
録臨巻一四三、紹興十一年十二月癸巳条鋏注もほぼ岡文。なお、川村
「折居法」九八~九九頁も本資料を引く。
⑳ 『長編』巻二三、太平興國七年八月己即。
㊧請監臨逃馬監臨財物者、 尺答四十、一匹加一等、八匹徒一年、八
匹加{等、五十匹流二千里、(中略)乞取者加}等、強霜取者、准柱
法論。
⑯実は、この事件は背後で「権臣」が糸を引いていたらしく(前脳⑳
所引『長編』注)、御史台の判決も決して公正とは言い難いものである
と当時から思われていた。『長編』巻五七、威平三年(一〇〇〇)五
月己亥。詔、御史粗描流・死罪、令給諌以上録問、訴額府死罪、選朝
官録問。初、宋輩・轟詠等坐私以銅銭易鉄銭、下御史墾、並決杖配役。
巳鞍馬宗知其冤、御間輩。輩泣称、塑司不学辮説、必令笠当訊招罪。
太宗欄之、乃詔自今御史蔓毎奏獄具、差官立墾録問。其後廃不挙、至
是復行焉。ここでは宋箪らに対する執行刑は「決杖配役」と記されて
いる。規剣の上では在京の配役人は将作監で服役することとなってい
たが、後述の如く現実には必ずしもその通り行われていたわけではな
かった。
@ 『太宗皇帝実録』(四部叢刊所収。以下、『太宗実録』と略称)巻七
八、至道二年八月辛丑。許州舞陽県尉劉蒙、杖脊、配役少府監一二年、
坐決殺本県役夫厳密。
⑱)諸騰臨之官、函公事自以杖擁人致死、及恐迫人皇究者、墨客過失殺
140 (800)・
宋代の流刑と配役(辻)
人法。(中略)難是登臨主管、触法不着工罰、及前人不合撞拷而錘拷
者、以蠕殺傷論、至死者加役流。
⑳ 『長編』巻四、乾徳元年四月甲申。徳音、減仙南潭.朗藤下罪囚、
流以下釈之、配役人放還。
⑳ 『長編』巻六、乾徳三年五月戊子。赦天下、死罪降徒(当作従)流、
流以下釈之、配役者免居作。
⑳ 『長編』巻一七、開宝九年正月壬申。降死罪囚、流以下釈之、男子.
婦入配役者、聴自便。
⑫ 『太宗実録臨巻二六、太平興国八年八月壬辰、徳音。配流徒役人等、
並具元罪犯以聞、瀦聴進止。
⑳ 『太宗実録』巻七六、至道二年正月辛亥、大赦。配流徒役人及配充
奴髭等、並免為庶人。
⑭ 『宋大詔令集』巻一五 、政事、旦夕、以皐減降両可罰路繋囚制(威
平二年閏三月丁丑)。両京・諸路繋囚、除十悪罪至死・宮典犯柱法臓・
笑殺・謀殺・故殺・已殺人不降外、死罪降従流、流罪降従徒、徒罪従
(杖)、杖巳下並釈之、徒役人指猿従便、内覆面人具所犯奏裁。『全宋
文』巻二一四の校勘記は、丁丑を丁亥の誤りとする。
⑳ 『宋会要』刑法四一幽○、宣和七年十 月十九陰。南郊、側、応犯
流罪配役人、並放逐便、応表面配軍・編管人等、除謀叛以上縁坐.入
強盗・已殺人外、並与減三年、理為熟放年限。(下略)
⑯ 『二会要』刑法四-四一、建炎二年十一月二十二日。赦、応当流罪
配役人並放逐便。(下略)
⑳ 『宋刑統』巻一九、賊盗律、強盗篇盗など。なお、用村「折杖法」
八四~八五頁及び九三頁を参照のこと。
⑳川村「折杖法」九二~九五頁、辻「配軍」~三~二一頁などを参照。
⑲ 辻「流刑考」九一~九六頁。
⑩前注⑱に引く断獄令を参照。また『宋会要』刑法四-四五、紹興元
年(一一三一)九月十五日、明堂赦に「勘会流配役入、依条会恩則放、
訪聞州軍不遵条例、遇赦期尚行拘留、情窪可跨、仰慕赦留目、須管日
下放逐便、傍仰提刑臭覚察、如違奏劾」。
⑪ 『宋会要』職官七六-三、端撲元年(九八八)三月二十九日。少府
監言、煙霞配役人前太常丞郭墨等九人、以会二上請。特詔免其居作、
而終身不歯。以冤等皆繊吏也。
三 配役の実態とその変容
滋賀氏は「唐から宋にかけての間に、居丈という方式の強制労
働が廃れたのは、時勢の然らしめるところであった」とし、労役
刑後退の原因として、自給自足経済から貨幣経済への進展に言及
①
されている。確かにこの時期は、政治制度・社会・経済の様々な
方面において大きな変動が進行していたときであり、労役刑のみ
を例外として扱うのはいかにも不自然である。しかし前章で検討
したように、宋代の基本法たる『刑期』に定められた折杖法は、
流刑においてもその規定の通りに執行され、配役は実際に行われ
ていた。ではそれは、どのような点で唐制と異なったのであろう
か。
唐の獄官令によれば、徒罪を犯して労役に服さねばならなくな
った罪人は、在京の男子であれば将作監、女子の場合は少府監に
配属されることになっていた。地方の場合は、現住所を管轄する
141 (801)
か か
州に送られ、そこでかせを著けて官役に服するよう定められてい
②た。宋初に制定された折杖法によって、流刑は追放刑たる本質を
失い、脊杖と有期の配役として執行されることとなった。配役人
は自らの現住地にて服役する決まりになっていたことから、配役
は唐の徒刑とほとんど同じと見るのが普通であろう。『刑統』の
引く獄官令では、在京の男子は半作監に配属されて服役すること
③
になっていた。
ところが着初の将作言は、唐言とは大きく異なっていたのであ
る。唐の黒作監は、管下に左校署・右校署・再校署・頭官署等の
部局を擁し、長官たる監がこれらを統轄して、酒作監は少府監と
並んで「土木工匠之政」つまり官営工業の中心的存在であった。
ところが宋代になると、こうした土木事業・工作は将作監の手を
雅れて、三司修造案が管轄することとなった。その結果、増作監
は、判監事が「但だ祠祀・供省の牲牌・鎮石・焼香・男手・焚版
④
幣の事を掌るのみ」という全くの閑職となってしまい、本来の長
官である将作監以下のポストは、一切実職を伴わない寄浅官と化
してしまったのである。
配役人の受け皿となる幡多監にかかる変化が生じていた以上、
弓杖法に伴う配役をかりに唐馬の通りに行なおうとしても、それ
がきわめて困難であったであろうことは、想像に難くない。制度
と現実とがうまく噛み合ワていなかったことは、早くも長徳五年
(九六七)二月になされた御史台の上言に指摘されている。
御史二上言すらく。伏して見たるに、大理寺の徒に断じたる
罪人、官費・順銅に雰らざるの外、将作言に送りて役する者
あり。それ面作監は兼ねて昔作使に充てられ、又た左校・右
校・中校署有り、比来の工役は、並びにこの司に在れば、今
その名有りと難も、復た役使すること無し。或いは祠祭に遇
いて水火を供すれば、剣ち本司の官に供する有り。欲し望む
らくは、大理寺をして格式に依り徒罪人を断遣するの後、並
⑤
びに作坊に送付して役に応ぜしめよ、と。これに従う。
譲受法では徒刑は脊杖に読み替えて執行され労役を伴わないため、
ここで雷う「徒」とは、流刑の代替著たる配役を指すと理解され
る。宋朝の建国間もない時点においてすでに、配役人を将作監に
送ってもそこで服すべき労役はなかった。そのため服役場駈を作
坊(兵器製造工房)に変更せざるを得なかったのである。
配役人が服役するに際して実際に配属される部署はなにも雷撃
のみに限らなかった。『長編』巻七三、大中祥符三年(一〇一〇)
十二月甲辰に下された詔には次のようにある。
詔すらく。聞くならく、両京・野路の忠靖に関する徒役人、
刺配せらるる者は即ち衣糧を給し、刺配されざる者は止だ囚
142 (802>
宋代の流刑と配役(辻)
人の日食を給するのみ。各おの家属有れば、或いは贋乏に至
⑥
らん。宜しく今より例に依りてこれに給せしむべし、と。
⑦
忠靖指揮とは、開封府にいくつか設躍された廟軍の一部隊である。
同じ労役部隊の中に顔面に入れ墨された者(湯煙者)とそうでな
い者(不刺配者)とが混在しており、両者の間に待遇の違いがあ
ったことは注目される。前置は廟軍兵土、後者は配役人である。
同じ内容の労働をしているにもかかわらず、置型に属する兵士に
⑧
は給与として食糧と衣服が給与せられ、配役人には前掲の給賜格
に定められたような食糧しか与えられなかったわけである。両者
が同じ労役部隊に配属され雑役に従事していたことは、次の記事
からも窺われる。
詔すらく。忠靖・六軍の要員・十将は、今後舐りに本指揮兵
士及び諸色配役人等の銭轡を取受すること有るを得ず。その
執役の処には並びに仰せて簿を置き、次第して均句に差遣せ
しめ、傍お各おの用心して早早し、常に斉整を願い、別に過
犯を押すを致すこと無かれ。如し違わば、人の陳告するを許
し、勘記して野里ならざれば、当に決配を行なうべし。銭物
を取受されたる人は罪を免ず。野卑の人、若し忠靖・六軍に
係らば、常に優を与えて軽処にて執役せしめよ。如しこれ銭
物を取受せられたる人、並びに陳講せず、別に墜落有るを致
ざば、亦た当に重器すべし。彷お各おの板榜を概きて抄録し、
本営にて宣籍して張掛せよ。(これより先、忠靖・乱軍の軍校、
やす
凡そその貨賂を響くる者は則ち優してこれを畏ましめ、印す
るところ無き者は則ちこれに重役を委ね、頗る均済に非らざ
⑨
るを以ての故にこれを条約す。)
六軍指揮も忠靖指揮と同じく、国都開封府に置かれた贈軍の一部
⑩
隊である。これらの部隊では、空軍兵士と配役人とが一緒になっ
て雑役に従事していたのであるが、均等に労働を負担させるとの
建て前とは裏腹に、上役に袖の下を使えば軽作業に、さもなくぼ
重労働につかされるのが現実であった。
仁宗の天聖元年( ○二三)頃には、事情は更に複雑になり、
本来便宜的に忠靖指揮に配属されているはずの配役人が、更に必
要に応じて別の部隊に赴いて労役に服するという場合も現われる。
侍衛歩軍司(言えらく)。開封府の無断したる不善面にて忠
靖に配したる徒役人、本司は只だ是れ本指揮をして収管し、
βごとに貰食を記し、節級を差して監して八作司に赴きて徒
役せしめ、夜に至らば帰営せしむるのみ。欲し乞うらくは、
今後、直ちに八作司に送り、下司分に湿して収塗せしめんこ
⑪
とを、と。これに従う。
垂雪指揮は廟軍の歩兵部隊であるから、前衛歩軍司の摩下に属す
143 (803)
⑫る。食糧や宿舎のことについて、侍衛司が管轄しているのはその
ためである。ところが、日常の仕事、すなわち雑役に従事する段
になると、彼らは監督者に引率されて八作司の作業現場に赴いて
作業に従っていたのである。八作司は、京城内外の修繕を掌る官
⑬
庁で、労働力として雑役広備四指揮・工匠三指揮を領していた。
ただ、これ以外にも八作司が雑役のために隔軍兵士を用いていた
ことは、同じく天聖元年正月の勾当八作司田承説の上書に「本司
⑭
所轄の広野兵士及び八作藻琴行内、云々」とあることからも知ら
れる。先に挙げた忠靖指揮の兵士も八作司での作業がむしろ常態
のごとき様相を呈していたようであるから、この中に含まれると
見なしてよかろう。
このように累代の配役の実態は、唐制とは大きく異なり、極め
て便宜的にいろいろな官署・雑役部隊において行なわれていた。
先に引いた『宋会要』刑法四一一の続きに
京城、霧務・忠靖六迎撃に配する有り、亦た南より河北の電
⑮
田に配する者有り。
とあるのは、かかるヴァリエーションのごく 端を記したに過ぎ
ないのである。ただ注意せねばならないのは、かかる配役人と哺
軍兵士との間には決して越えられない一線が画されていたことで
ある。『宋磁要』刑法四…一四に載せる汀州の上言に「兵帳見管の
⑯
雑誌配軍三百五十九人、云々」とあるように、一般兵士は言うま
でもなく配軍入も軍籍に歩けられた。もちろん配軍人に対しては、
一般兵士にはない厳しい管理が行なわれたが、彼らとて歴とした
繋累の兵士であり、任務として雑役に従事していたにすぎない。
したがって、配軍人の労役は恩赦等に伴う放免の措置が取られな
い限り継続され、明確な刑期がない。配役はこの点で決定的に異
なるのである。配役はあくまでも有期の労役刑であり、恩赦がな
くとも所定の年限さえ服役すればそれで釈放される。たとえ同じ
場所で労役に服していても、両者の立場はまったく違っていたの
である。
①滋賀「刑罰の歴史」一〇四頁。
② 仁井田陞『唐令拾遺』後半獄官令第一七条。諸犯歯応配居作者、在
京送野作監、婦人送少二藍自作、在外州者、供当処宮役、当処無官作
者、修理城陸倉庫、及公癖雑役、犯流応居作春亦准此、婦人亦留当州、
縫作及配春。同じく一八条。諸流徒罪居作者、砦著鉗、若無自評底盤
伽、病及有保者脳脱、不自著巾帯、毎旬給假一二、謄寒食各二目、不
得出所役之院、患假者陪臼、役満逓送本属。
③ 『網…統』巻一二、名例律、犯流徒罪。内容は二二を参照。
④ 『宋史』巻一六五、職官志、将作鷹。旧制、判監事}人、黒蜜官以
上畳。凡土木工匠之政・京都繕導管三矯修造案、本譜但掌飼祝・供省
牲牌・鎮石・焼香・盟手・焚版幣之購。
⑤ 燭長編』巻八、二塁五年二月癸齋。御史壁上言、伏見大理工断徒罪
入、非官当・贈品言外、送将作監役者、其将作曲兼充書作使、強雨左
144 (804)
宋代の流刑と配役(辻)
校・登校・三校署、比来工役、並在此司、今難有其名、無上役使、或
遇祠祭供水火、則有本司供官、欲盟令大理寺依格式断遣徒罪人後、並
送付作坊応役。従之。
⑥ 詔、聞両京.諸路隷忠靖徒役人、刺頚髄即実衣糧、群舞愚者止給囚
人日食、各有家属、或盃置乏、宜令自今依製罐之。
⑦ 『宋史』巻一八九、貴志、廟兵、建隆以来之制、歩軍の条。
⑧兵士の給与については、王曾喩『宋朝兵漏初探』(中華難局、一九
八ゴ 年)二}五~二三五頁を参照。
⑨『宋会要』刑法七-七、大中祥符八年六月。詔、忠端(靖の誤り)
六軍人員十将、今後不得帆有取受本指揮兵士及諸色配役人等銭物、其
瓦役処並仰置簿、次第均勾差遣、傍各用心都轄、常須斉整、無口瀦作
過犯、如違許人陳告沸勘藤野虚犯、当行決配、墨取受却銭物人免罪、
陳告人若島忠靖六軍、常与優軽処執役、如是被取受注長物人、並不陳
告、致別有彰露、亦当重断、伽令各置板榜抄録、宣念於本営張掛(先
是、以忠烈六軍所(術字か)軍校、凡受其貨賂三瀬優假之、無二野者
則委之重役、頗非曝露、故条約之)。
⑩ 『宋史』巻一八九、兵志、三兵、建隆以来之制、歩軍の条。
⑪ 『宋会要』刑法四i一〇、天壁元年七月。侍衛歩軍司(言)、開封
府勘断不刺面罵忠靖徒役人、本司ロハ是令名指揮三管、日支口食、膝節
級監赴八作司徒役、至夜帰営、欲乞今後直送八作司、轄下司分収管。
従之。
⑫ 『宋史陶巻一八九、兵志、痛兵。廟三者、諸州之鎮兵也、内総子侍
衛司。
⑬ 『宋史』巻一六五、職官志、将作監。東西八作司、掌京城内外修繕
之事。
⑭『宋紀要隔職官三〇1九、天聖元年正月。勾当入作司田承説言、本
司所轄広備兵士及八作司長行内、膚善工藝匠人、多本司軍官占充当藏
(下略)。「長行」とはビラの兵士をいう(王曾喩『宋朝兵制初探隔二
四七頁)。
⑮ 『宋会要駈刑法四一一(=二九頁注②の続き)。京城有配窩務・忠
靖田鰻軍櫨守、亦有自中岡配河北屯田雨着。
⑯ 『宋会要騒刑法四一一四、天聖五年(一〇二七)九月八碍。汀州言、
調帳見管雑試製軍三百五十九人、並豊富跡賊盗三舞、人数稽多、望権
住配。空軍。
四結びにかえて
宋代の配役は、浜町の居作の流れを汲むかに見えて、たとえば
都では将作監が官営工房としての機能を喪失していたために、実
際の労役は作坊などそれ以外の工房で行なわれたばかりか、のち
には配役人でありながら雑役部隊たる陸軍に送り込まれて労役に
服するという、極めて便宜的に現実に対癒した形をとって執行さ
れてきた。彼らとともに雑役に当っていた廟軍兵士もまた、その
多くが犯罪によって軍兵に身を落とした者であったけれども、両
者は異なる待遇を受け、それが問題として取り上げられることも
あった。しかしその最大の相違点は、前述の刑期のことを除けば、
刺面の有無であろう。朧軍兵士の顔面に入れ墨が施されたのは、
配軍という刑罰の成立事情に由来する。州において論刑された罪
人のうち、奏裁のため赴閥、つまり都に護送される者は顔面に入
れ墨をされた。本来かかる死刑囚には、皇帝の判断により死一等
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を減じて配流刑が科されていたのだが、赴闘の途上で逃亡・落命
する者が多く、なによりも奏裁件数が膨大な数にのぼったために、
廟軍への編入つまり賊軍が新たな「減死一等の刑」として刑罰体
①
系の中に組み込まれることとなったのである。刺面は赴闘の際の
逃亡防止のために行なわれた。言い換えれば、刺面と配軍刑とは
元来別個のものなのである。ただ、のちには一種の恩恵的措置と
②
して配軍人への刺面を免除する場合も現われ、そのせいか、逆に
刺面も配軍刑の構成要素の一部と思われるようになった。
労役刑の系統に属する宋代の執行刑には、折滅法による流刑の
代替刑たる配役と配軍刑とが並存していた。律(刑統)による流
罪人には隠元ののち配役が課され、奏裁の対象となるような重罪
③
人は脊杖・三面の上、配軍されるのが通例であった。編配の事例
のほうに目がゆきがちなのは、それが重大事案として特筆された
がゆえに現存の史料中に頻見するためであり、それに較べれば軽
微な流刑の執行刑たる配役の実例があまり見轟らないのは、当然
かも知れない。通説が執行刑としての配役の存在を等閑視してき
た原因も実はこのあたりにあるのではないか。加えて、配軍は北
宋中頃から南宋にかけてかなり複雑な変化を遂げる。はじめ、罪
人の現住地の廟軍に編入される懸罰であった配軍刑は、死刑囚の
削減という大前提のもと、配流刑の抱える問題解決と相倹って、
④
強制移動の要素を含むようになっていったのである。北畑半ぱ以
降は、敷による刑罰が本刑を華壇的五刑によって規定し、特別な
⑤
場合について編配を科すという体裁をとるようになる。ただ、そ
の場合でも根幹となっているのは律の五刑であり、孝思法なので
ある。惣髪刑は、律の五刑とは系統を異にし、宋代になって死刑
と流刑の中間に新たに設けられた刑罰であることを確認して、稿
を終えたいと思う。
③辻「配軍」一一~一二頁。
② たとえば、神宗の煕寧年間に、官人(命官)への刺面が免除された。
『宋史』巻三四〇、蘇碩伝。
③ これ以外に、配流や編管などに処されることも珍しくない。
④辻「配軍」一六~ニニ頁。
⑤ 川村「玉杖法」九二~一〇〇頁。=二九頁注⑬に掲げた資料はその
一例にすぎない。
〔附…記〕 宏・稿は、憎即成六年山皮文部省科学帽耕究費補助A皿(帰笑励研究㈲)
による研究成果の一部である。
(滋賀医科大学助教授 草
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