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Title 旧南洋群島日本人移民の生活と移動 -沖縄県出身移民 の事例を中心に- Author(s) 石川, 友紀 Citation 移民研究 = Immigration Studies(7): 123-142 Issue Date 2011-03 URL http://hdl.handle.net/20.500.12000/22611 Rights

Issue Date 2011-03ir.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12000/22611/1/No7...みよう(47頁)0 昭和五年以降鰹漁業勃興し沖縄醇人の渡島著しく十年四月現在では次の通り

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  • Title 旧南洋群島日本人移民の生活と移動 -沖縄県出身移民の事例を中心に-

    Author(s) 石川, 友紀

    Citation 移民研究 = Immigration Studies(7): 123-142

    Issue Date 2011-03

    URL http://hdl.handle.net/20.500.12000/22611

    Rights

  • 旧南洋群島日本人移民の生活と活動

    一沖縄県出身移民の事例を中心に- (石川友紀)

    旧南洋群島日本人移民の生活と活動

    一沖縄県出身移民の事例を中心に-

    Ⅰ.はじめに

    Ⅱ.月刊誌 『南洋群島』を通してみた南洋群島の日本人移民

    Ⅲ.拓務省 『拓務時報』を通 してみた南洋群島の日本人移民

    Ⅳ.大宜味朝徳氏の著作を通してみた南洋群島の日本人移民

    V.おわりに

    石 川 友 紀

    キーワー ド:南洋群島,日本人移民,沖縄県出身移民,『南洋群島』,大宜味朝徳

    Ⅰ.は じめに

    第二次世界大戦前日本の委任統治領であった旧南洋群島 (以下,南洋群島と表記)は,

    現在の北マリアナ連邦,パラオ共和国,ミクロネシア連邦,マーシャル諸島共和国を領域

    とする太平洋諸島の島々である。南洋群島はかつてスペイン領からドイツ領となっていた

    諸島を,1914年 (大正 3)第一次世界大戦により日本が占領 し,1922年 (大正 11)行政

    庁である民政の南洋庁が設置されて以来,1945年 (昭和 20)太平洋戦争の終結まで,氏

    政で23年間,占領後の軍政を入れると31年間にわたって日本の統治下にあった。

    戦前南洋群島は 「内南洋」「裏南洋」 とも称され, ドイツ領であったマリアナ,カロリ

    ン,マーシャルの 3群島を統括 し,日本帝国南洋庁の管轄下に入ってのちは,6つの行政

    区に分けられていた。すなわち,サイパン,ヤップ,パラオ, トラック,ボナペ,ヤルー

    トの各島に6支庁所が置かれ,パラオ諸島コロール島所在の南洋庁 (本庁)がこれを統括

    した。ちなみに,南洋群島の各支庁に属する島数 ・面積 ・管轄区域 ・主要島は表 1の通 り

    であった。これをみると,南洋群島は太平洋の広大な海域に広がり,島数が623と多い割

    には総面積が2,149km2と陸地面積は沖縄県 (2,250km2) よりも小さかった。

    その後,南洋庁は 1929年 (昭和 4)6月に拓務省に,太平洋戦争勃発後 1942年 (昭和

    17)11月に大東亜省に移管された。1943年 (昭和 18)には行政簡素化を理由に,北部 ・

    西部 ・東部の3支庁区に再編成され,各支庁区には支庁が置かれ,支庁長が配置されてい

    た 1)0

    本稿では 「旧南洋群島日本人移民の生活と活動」と題 して,第二次世界大戦前の南洋群

    島における沖縄県出身移民 (以下,沖縄移民と表記)の事例を中心に取 り上げる。その目

    的は社会地理学的観点より,戦前の南洋群島の日本人移民の実態を把握したいがため,昭

    ー123-

  • 「移民研究」第 7号 2011.3

    表 1 南洋群島支庁別島数 ・面積 ・管轄区域 ・主要島

    支 庁 名 島数 面積km2 管 轄 区 域 主 要 島

    サイパン支庁 14 639 マ リアナ群島一円 サイパン島 .テニアン島 .ロタ島

    ヤ ップ支庁 85 226 東経 137度以西の西カロ リン群島一円 ヤ ップ島

    パ ラオ支庁 109 478 東経 137度以東の西カロリン群島一円 バベル ダオブ島 (パラオ本島)コロール島 .アンガウル島

    トラック支庁 245 132 東経 154度以西の東カロリン群島一円 春島 .夏鳥 .水曜島

    ボナペ支庁 138 504 東経154度以東の東カロリン群島-円及び164度以西のマーシャル群島の一部 ボナペ島 .クサイ島

    ヤルー ト支庁 32 170 東経164度以東のマーシャル群島の一部 ヤルー ト島

    出典 :①ダイヤモン ド社 (1942)『南洋地理大系』第 2巻 海南島 ・フイリッピン ・内南洋,

    ダイヤモン ド社,352頁.②南洋庁 (1932)『南洋庁施政十年史』,3頁.

    注 1:ヤルー ト支庁の 32島はさらに860余の岩礁よりなる.

    2:サイパン支庁内のグアム島はアメリカ合衆国領土であったが,太平洋戦争開始後の 1941

    年 12月 10日に日本軍に占領された.

    和 10年代に発刊 された南洋協会南洋群島支部 ・南洋群島文化協会の月刊誌 『南洋群島』,

    昭和初期か ら発刊 された拓務省の 『拓務時報』,沖縄県出身の大宜味朝徳の 『南洋群島案

    内』などの著作か ら関連資料を拾いだ し,今後の研究に役立てたいと考えたからである。

    Ⅱ.月刊誌 『南洋群島』を通してみた南洋群島の日本人移民

    『南洋群島』第 1巻第 1号 (1935年 2月発刊)「友のお とづれ」の中に,サイパンT生

    によるロタ島に関する次の記事があ り,日本人移民の無賃乗船が指摘 されている(96頁)0

    前略,蓄膿十八 日午後六時頃,那覇より北水丸が入港,乗船移民七百五十線人 とか,

    この内乗船切符なき者二百五十名の多きに及び,解決策に支廃長初め大骨折 りに見受

    けられ候。船長の話に依れば,無切符のものは知 らぬ間に秘かに乗船 したらしく困っ

    たことに御座候。此頃ロタ島も大分発展な しもう苗圃は出来上 り,本年五月三 日迄に

    は植付開始の見込みに御座候。普島製糖所は昨年十二月二十四 日より製糖開始致 し候。

    『南洋群島』第 1巻第 5号 (1935年 6月)編輯局の 「豆新聞」 のなかに,「移民大洪水」

    の見出しで,当時沖縄県から南洋群島-数多く渡航 しているとの報道がみ られる(98頁)0

    南洋の新天地を目指 して突進する移民の群は毎航海 とも移 しい数に上 り先づ便船

    毎に百名以上は渡航 してゐる盛況ぶ り,これ ら移民はまづ大部分南洋興費骨社に働 く

    べく,それを昔込んで渡航する移民で大部分は沖縄移民である。南興合社では本年に

    -124-

  • 旧南洋群島日本人移民の生活と活動

    一沖縄県出身移民の事例を中心に- (石川友紀)

    至 り正式に同社で直接募集 した関係移民は約一千名で,このうち既に四百名は現地-

    行き残る六百名は徐々に本年中に送る。

    注目すべきは合社が従来主として取扱った移民は沖縄移民が大部分であったが,最

    近では殆 ど合社直接に沖縄移民は取扱はず,今年募集の分も全部内地各府醇から募集

    の移民ばか りで,沖縄移民は正式には一人も採用してゐない。従来南洋に働 く移民は

    沖細入が最も耐熱性に富んでゐたものといはれてゐたが,幾多の経験から北海道東北

    移民でも決 して活動する上において支障をきたさぬと裏書されたのによるものとい

    はれてゐる。いづれにしても南洋を目ざす移民は宛 ら洪水の如くである。

    『南洋群島』第 1巻第 8号 (1935年 9月)編輯局の 「豆新聞」 のなかに,「沖縄県民の

    文化向上運動 彩帆で教化座談会」 の見出しで,サイパン島における沖縄移民の短所が指

    摘されている (74頁)0

    八月四日午後二時からサイパン南海榛に於て,龍滞同窓合主催の下に田中支廉長を

    初め谷川,野元雨校長君旅,坂根,圃場の三警部補その他沖縄解出身の有志等参集,

    沖縄県系民の文化向上のため座談合を開催,猶は毎月一 日この種の懇談合を開いてその

    具髄策を練ることゝなった。

    群島に於ける同鯖人は在留邦人の過半数を占め,雄々しくもその第一線に立って,

    南洋開鞍のために貴い汗血を注いでゐるのであるが,遺憾ながらその文化程度は一般

    内地人に比 して著しく低下 して居 り,鳥に而白からぬ幾多の問題を惹起しっ あゝる有

    様なので,この際彼等の教化に努むべく支廉長等有志の奮起 したことは意義深いこと

    だと頗る各方面から期待されてゐる。

    『南洋群島』第 1巻第 10号 (1935年 11月)おかしま生の 「トラック邦人戸口の推移」

    のなかに,つぎのように トラック諸島における 1935年 (昭和 10)4月現在の全邦人 (日

    本人移民全体)と沖縄県人 (沖縄移民)の男女別移民数が記述されているので取 り上げて

    みよう (47頁)0

    昭和五年以降鰹漁業勃興 し沖縄醇人の渡島著しく十年四月現在では次の通 り

    男 女 計

    全邦人 1,461人 608人 2,069人

    沖縄県系人 790人 317人 1,107人

    全在留邦人の半数は沖縄解人が占めて居る。

    ー125-

  • 「移民研究」第 7号 2011.3

    これをみると,1935年時点で南洋群島の トラック諸島において,沖縄県人は全邦人の男

    性で54.1%,女性で52.1%,合計で53.5%をも占めていることが判明した。

    『南洋群島』第 1巻第 11号 (1935年 12月)たかひら生の 「サイパン印象記」のなかに,

    「待ち遠 しい船の入港」 の見出しで,サイパン島での日本人移民の出迎え風景が,イラス

    ト (略)とともに,よく描写されている (51頁)0

    サイパンなどは他のどの島にも比して内地との交通は頻繁なのだが,それでも船の

    入港は耐らなく待ち遠 しい。船の煙が微かに水平線上に漂ふ頃から桟橋附近は入港を

    まだかまだかと待つ人で非常な雑沓を呈する。本船行のライターは出迎-人で溢れん

    許 り,汗みどろになって身動きの出来ぬ虞は全く都合のラツシアワーの電車内と同じ

    である。上から直射 日光がガンガン照り付けるのでモツ ト念入 りである。

    また,同上記事には 「派手な送迎」の見出しでサイパン島における日本人移民の出迎え

    や見送りの情景がつづられている (52頁)0

    送 り迎-は兎に角ナカナカ盛である。本船は時に出迎-の名士で締羅星の如く桟橋

    は時に見送りの名流婦人で百花僚らんの賑ひを呈する。静々たるお歴々は言はずも哉,

    合社の名もなき平社員に至るまで休暇で内地-締るとなると船室は見送りと人とパ

    パイヤ演で身動きが出来なくなって了ふ。出帆してからの土産物の整理が一仕事であ

    る。土産の中には誰から贈 られたか皆目見昔の付き兼ねるものも出て来る始末だ。虞

    が一朝やめて内地-引揚げるといふことになると俄然形勢は一撃 してパパイヤ演も

    少なく,見送人も激減 し挨拶も何となく他所他所 しい。これは浮世の習はしとは言ひ

    乍らチ トハツキリし過ぎてゐる。

    『南洋群島』第 2巻第 3号 (1936年 3月)八木千太郎の 「サイパン支庁の繁忙」の記事

    に,1935年 (昭和 10)時点で,以下のようにサイパン島など南洋群島-の日本人移民の

    急増がうかがえる (36-37頁)0

    私に言はしむれば,多忙なるは濁 りサイパンのみならず,最近は群島全髄が多忙な

    のであります。内南洋に封する世人の認識が深まり,旅行者の往来,各種産業の勃興,

    人口の増加等,こ 一ゝ,二年間に急速に頻繁となりましたので,各昔局が多忙を極め

    るのは昔然のことで,群島発展の薦め渦に喜ばしいこと 存ゝじます。

    昔サイパンは御承知の通 り,他の諸島より比較的面積が廉く,産業の発達も早かつ

    -126-

  • 旧南洋群島日本人移民の生活と活動

    一沖縄県出身移民の事例を中心に- (石川友紀)

    たので,いろいろの鮎に於て他の支廃よりも徐計に多忙のよう存ぜられます。

    今試みにその人口より見まするに,五年前の島勢調査に依 りますと邦人一〇、三二

    四人,島民二、九一五人であったものが,昨年十月一日の調査では邦人二〇、七七七

    人,島民三、四八五人,更に管下のテニアン,ロタ両島を合すれば三九、七四六人と

    言ふ驚く数字を示すに至りました。

    斯の如く人口の増加は勢ひ絶ての施設の必要を来し,行政上繁雑を極めて乗るのは

    勿論であり,ことに内地と異 り植民地気分濃厚なるだけ,種々雑多な問題が起って乗

    るのであります。例-ば,これを交通の上より見ますれば,昨年度四十八回であった

    ものが本年度は六十回となり,その往復航でサイパンに寄港する度数百二十回,賓に

    三日に一回の割合であります。而かも各船毎に満員で百五十名乃至三百名の来島かあ

    り,猶はこの他産糖高の関係 と在留民の物資供給の鳥,移出入共貨物が激増して居 り

    ます。来島者の中には商工業の調査や学術研究等の用務で特に案内又は説明を必要と

    する者が数名あり,また夏期には内地より数十名の観光圏が来島するのであります。

    また,同号の 「豆新聞」のなかに,「群島の漁業に沖縄県乗 り出す一四月早々技師を派

    逮-」の見出しで,南洋群島における沖縄漁業移民の活躍の実態がみられる (70頁)。

    近年素晴らしい躍進振 りを見せてゐる南洋群島の漁業は,拓殖十ヶ年計蓋の確立と

    共に益々活気を呈し豊かなその将来を約束されるに至ったが,特にその現業員の大半

    を占める沖縄県系では,この際一層この方面に力を用ひ,南洋廃の方針と相侯ってこれ

    が指導故に助成に努める必要ありとし,四月早々解水産奨励主任幸田技師をサイパン,

    パラオ,トラック等群島漁業の中心地に派遣し,その賓情を調査せ しめることに決定

    した.尚ほ同解では解出身の南洋漁業者に鰹漁業奨励金を交付すること なゝり,既に

    仲本興正氏他七名に金一千囲宛交付の決定を見てゐる。

    『南洋群島』第 2巻第 9号 (1936年 9月)貴族院議員男爵伊江朝助の 「沖縄県人を救- 」

    の論説は,海外在住の沖縄移民の特性をあげ,南洋群島における他府県人-の理解を求め

    ている (ll-12頁)0

    南拓骨社が出来る事はわが国の南方囲策の上から云っても,南洋群島在住者の金融

    その他の企業の鮎から云っても,誠に結構な事と思ふ。よろしく所期の目的を達する

    棟その壁展を願ふのであるが,南拓骨社としてもその事業遂行上,考-なければなら

    ぬ事の一つとして,沖縄解人間題があると思ふ。私は自分が沖縄解人だから,特に解

    人を保護せよ等といふケチな考-は持ってはゐない。むしろ,解人をよく熟知してゐ

    ー127・

  • 「移民研究」第 7号 2011.3

    る鮎から悪口こそ云ふ権利があるかも知れないが,現在南洋群島在住の日本人の約七

    割からが沖縄解人である事を思-ば,最もフェアな立場からして,同解人を度外視 し

    て企業その他考- られないと信ずるものである。

    元来沖縄鯖は小さな島でありながら,六十帝人からの人口があるので,彼等はすべ

    て移民によって生活を立て 行ゝかねばならない。賓際南米,北米,ハワイ等-出稼ぎ

    に行ってゐる者からの送金が年に三,四百商圏もあり,この外金を握って締って乗る

    ものを合すると優に四,五百商圏の金が県系に入ってゐる。これ等の金によってどれ程

    疲弊 した解が救はれてゐるか知れないと思ふ。故に移民奨励は同解の生命であり,私

    も機合ある毎に解知事や有識者にその保護善導を説いて来たのであった。南洋群島に

    封 しても,解知事あたりが一度は賓情を視察 して然る可きものだとさ-思ってゐるの

    である。しかし,一方に於てこれ丈多数の移民があるのであるから,中にはこの移民

    を喰ひものにする醇人や,顔よごLも随分少くはない。この悪いものによって,どれ

    丈鯖人が迷惑 してゐるかは想像以上であって,沖縄解人排斥の馨がちらほら聞えるの

    も,みんなか うした連中のやる事が,ひいては醇人全鱒の品位を傷けた結果に外なら

    ない。私はこの窯占を非常に遺憾 としてゐる。即ち,か ゝる悪漢はよろしく退島命令で

    も下 して,断然悪貨を駆逐するの策を講 じ,良貨を保護 しなくてはならないと思ふ。

    この鮎は群島をリー ドする人々-特にお願ひ したいところなのである。 さうすれば,

    群島に於ける重要な役 目を演 じてゐる沖縄鯖人の幸ひであるのみならず,群島を中心

    に企業をする人々にとっても,利益を増進する事疑ひないのである。資際の上から見

    ても,現にサイパンに於ける製糖事業の如き,繰入でなくては殆 ど賓際上の仕事は出

    来ないと云っても過言でなく,大規模でない近海漁業には解人以外には一寸手が染め

    られないのである。又,例の片岡弓八氏の金塊事業等にも,深海捜査に従事したのは

    全部県系人であった。か ゝる美鮎を啓登 し,利用 して行 く事は資本家にとっても枢要欠

    く可らざる所 と云はねばならない。私が沖縄賄人の存在を忘れてはならない,と言っ

    たのはこの票占である.

    『南洋群島』第 4巻第 2号 (1938年 2月)東京市本郷尋常小学校長小倉育之介の 「南洋

    を視察 して」のなかで,「勤勉な沖縄県人」の見出しで,1937年 (昭和 12)8月南洋群島

    を視察した時点で,沖縄移民の特色がよく捉えられている (20頁)0

    それからこの方面で労働に従事する人々は,沖縄醇人が非常に多く,約内地人の七

    割を占めて居るさうであります。是はどの島でもさうであります。殊に鰹漁などに就

    ては沖縄の人でなければ出来ないといふ特殊の技能を持って居るさうでありまして,

    此の方面の開壁に付ては沖縄鯖人の功労は絢に大きいや うであります。而も沖縄解人

    ー128-

  • 旧南洋群島日本人移民の生活と活動

    一沖縄県出身移民の事例を中心に- (石川友紀)

    は能く働き,そしてその働いて得た金を自分の生国に送るのださうでありますが,例

    -ば五園の金が儲かればそれを送るに付て七十五銭も掛るのにも拘らず,候令五園で

    も送るといふ風でありまして,斯くして一年間には,賓に数十寓園の金を送るといふ

    ことであります。そこで-沖縄醇人の述懐することには斯 う云ったや うな事からして

    沖縄県系人は資本家にはなれない。沖縄鯖人は金はどんどん取るけれ ども,その取った

    お金は皆自分の故郷の方に送ってしまふ。だから,資本家 として大をなすことが出来

    ないと。

    『南洋群島』第 5巻第 1号 (1939年 1月)在コロール南方高石の 「近頃パラオ日誌」の

    なかで,「鶴の家」 の見出しで,つぎのような沖縄県出身の芸者による琉球舞踊などの演

    芸がパラオの料亭でみられたとい う (78頁)0

    昭和十三年九月十八日午後六時三十分,商大教授猪谷氏来島を機合に,「鶴の家」

    で同窓合を開いた。数 日乗の晴天績きで,相首にあつい晩であったが,自分は半ズボ

    ンのいでたちで出掛け,あとは裸鱒 となったので東京のあっさ程に感 じなかった。

    出席者は南拓の前田,島野,南洋異珠の相本,林の諸君,それにお客さんと小生の

    六人,下田先輩は他に衆議院視察圏の御客があったため軟席,又,南拓の諸畑氏伊東

    氏は病気でこられなかった。 鶴の家の畳,土の壁なっかしく感 じる。

    宴席の料理も赤道に近い此の地では十二分の御馳走だが,殊に鳩の料理は珍らしく

    たべた。垂酌十名程,いづれも額に汗を流 してゐる。いろんな踊 りもでたが,むしろ

    暑くるしく感 じる。中にひとり,〆子といふ年増の聾者は,三味も相皆にひける。

    やがて琉球の塾者の一国がきた。不二家の妓ときいた。例の琴 と蛇皮線と三人の合

    奏で二人の若い妓が琉球節の音頭につれて踊る。一人一人,階下の座敷で衣装をとと

    の-,上がってくる。かす りのきものをきて鉢巻をして舞ふ。或は神官の様な衣装を

    つけ緋笠をかぶって大きな扇を二つもって舞ふのもある。自分は一々克明に踊を見た

    が,大分醇がまわったので,かすかに眼底に残ってゐる許 りだ。長刀の舞は,れい子

    といって,本島-だとのことだ。踊 り子の二人は顔立もそろってゐる。

    『南洋群島』第 5巻第 6号 (1939年 6月)南洋群島国民精神総動員実行委員会の 「南洋

    群島銃後至誠蒐録 (-)」のなかに,「小さな愛国者小学生照屋君の美挙」の見出しで,つ

    ぎのような沖縄県移民の子と思われる照屋昇成君が模範生として称賛されている記事が

    ある (97頁)0

    -129-

  • 「移民研究」第 7号 2011.3

    これはパラオ支廉管下マラカル島在住のパラオ尋常高等小学校尋常科第五畢年生

    照屋昇成君の美拳である。

    照屋君は,学校では級長をつとめ,級友の信頼を一身に集めてゐる模範生であるが,

    君-の信頼は軍に級友だけでなく,マラカルからの全通畢生の間にも,大轡あっかっ

    た。即ち,マラカルからパラオ小学校-通って来る生徒達は,その渡船賃として,一ケ月

    なにほどかの金を渡船組合に納入 してゐるのであるが,照屋君は,この金を毎月集金 し

    て纏めて組合に納入 してゐた。

    渡船組合では照屋君のこの篤志を大撃喜んでゐた。何時か照屋君に封する謝意を表

    したいと考-てゐたのであるが,去年五月のことである。金七囲也を,御頑として,照屋

    君-贈呈した。

    照屋君は,この金をもらった翌 日,畢校で受持の先生に,この間の事情を話 した。そ

    して皇軍慰問金の一部に献金 したいと申入れた。

    昭和十三年五月二十七 日の南洋新報紙上は,この小さな愛国者の美容が,大々的に報

    ぜ られ,それから一年にも垂れんとする現在,なほ,パラオ在住者の間の語 り草となり,

    パラオ小公畢校全生徒の模範とされてゐる。

    『南洋群島』第 6巻第 9号 (1940年 9月)前南洋庁水産試験場長河村兵三の 「南洋群島

    の水産」の論説は実証的研究として高く評価できるが,そのなかに 「鰹漁業」の見出しで,

    以下のような記述があり,鰹節製造業とともに,沖縄移民の南洋群島におけるカツオ漁業

    に占める比重の大きさが指摘 されている (4-5頁)0

    群島の鰹漁業は沖縄県系人に依って啓かれましたものでありまして,鰹釣には生き餌

    を必要 と致 しまして南洋ではこの餌 となる小魚は多く珊瑚礁の巌窟内に隠れて居ま

    すので,之を逐ひ出して捕-る事は同県系人の特技でありますので,現在でも従業員は

    殆んど全部沖縄解人によって占められて居 ります。

    鰹船の数は百四十五隻ありまして大体

    サイパン支廟 二四

    パラオ支廉 四五

    トラック支廉 四七

    ボナペ支廃 一七

    ヤップ支廉 二隻

    であります。

    漁船は何れ も二十噸以下の小型船で機関馬力は概ね三十馬力乃至四十馬力であり

    -130-

  • 旧南洋群島日本人移民の生活と活動

    一沖縄県出身移民の事例を中心に- (石川友紀)

    ます。乗組員は二十名内外でございます。

    同号の各島通信の田島生 「パラオだより」 のなかに,「上水道愈々給水」の見出しで,

    1940年 (昭和 15)にパラオ諸島のコロール島に上水道が一部完成 したとの記事がみられ

    る (28-29頁)0

    在住民が多年待望の上水道が,いよいよ給水を開始 した。コロール町全部とはまだ

    行かないや うであるが,南洋廉官舎の大部分,民間でも申込みの順で引込線を施設 し,

    豊富な浄水が,不自由なく供給されるや うになった。去年はもちろん,今年の-,_

    月頃まで乾燥期 となれば殆んど毎年,水飢健で在住民ひとしく青息吐息であったパラ

    オも,これからは,あんなっらい目に連はなくてもすむ辞だ。官舎ともなれば,従来

    のタンクは何処の家にでも厳然と存在 してゐる訳だし,洗濯物や風呂の水にはこれで

    十分ことた りよう。水道は墓所の飲み水,洗ひ水だけとすれば,大概の渇水時にも,

    大髄,封抗出来ようといふもの。

    『南洋群島』第 8巻第 4号 (1942年 4月)南洋庁水産試験場長岡島清の 「各支庁管内の

    水産業」の論説には,南洋群島における沖縄移民の水産業での活躍の実態が多く記されて

    いるが,以下にパラオ支庁管内の鰹漁業の沿革の創始時代の一事例を取 り上げてみよう

    (18頁)2)0

    本管内に於ては奮濁領時代より,島民による高瀬貝及海鼠の採捕が行はれ,離島方

    面ではカノーによる曳縄が行はれてゐたが,軍政となって沖縄醇人の渡来 し雑漁業に

    従事する前大正七年頃より黒蝶貝による最珠養殖が開始され,大正末葉 となって鰹漁

    業が接頭 した位で,企業的漁業は一般に行はれて居なかった。左に各種漁業に就て略

    記する。

    本管内に於ける鰹漁業は夙に南方離島ソンソル島に於て島民のカノーにより,曳縄

    を以って鰹鮪を釣獲たものを,大正十二年伊香哲四郎氏が許可を得,弟敏夫及熊谷輿

    八氏の両名をソンソル島に渡 らしめ,島民より漁獲物を買取 り荒節を製 し,千五百貫

    (畢債十貫一五〇圃)を移出し好成積を奉げた。

    コロール町では大正十四年沖縄解人上原亀三,上原満吉,金城次郎の諸氏等サイパ

    ンより渡来到舟にてマラカル水道附近沖合を漁場として鰹群の洞遊 し来るを待ち,竿

    釣を以て貧弱な漁業を鳥 してゐた.

    -131-

  • 「移民研究」第 7号 2011.3

    Ⅲ.拓務省 『拓務時報』を通 してみた南洋群島の日本人移民『拓務時報』第 15号 (1932年 6月)拓務省拓務局の 「裏南洋の水産事情」の論説は,

    1932年 (昭和 7)時点の南洋群島の水産業について,沖縄県人を含めた日本人移民の実態

    がよくまとめられている。そのなかの 「鰹と餌」の見出しの事例を取り上げてみる (96-

    97頁)。なお,拓務省拓務局の月刊誌 『拓務時報』は第 1号 (昭和 6年 4月)から第 85

    号 (昭和 13年 5月)まで,索引もあわせて全 14巻で,2001-2002年に日本図書センター

    より復刻されている。

    いま鰹節に就いて見るに昭和六年には僅かに四十三高園の製造高であったが,本

    年度の橡想は五十六七寓園に増額の見込であり,鰹漁業に要する鰹船如きも,(昭和

    六年)パラオ八隻, トラック九隻,サイパン二隻の合計十九隻に過ぎざりしものが,

    六年末より七年に至り急激の増加を見,

    サイパン 八隻 (六隻増加)

    パラオ 二四隻 (一六隻増加)

    トラック ー一隻 (三隻増加)

    ボナペ 五隻 (新造)

    ヤルー ト 二隻 (新造)

    かくて南洋に於ける鰹漁業は一九隻より一躍五十隻の鰹船の激増を見,鰹漁業の

    前途愈々有望なるものあるを認め得るに至ったのである。しかもこれ等の鰹船が漁場

    とするところの地は何れもその根接地の近くであって,普通一二時間以内で陸地より

    漁場-達し得るのである。この事賓は南洋に於ける鰹の魚群が南洋一帯の海に普遍的

    に存在する一つの事賓を示すものに外ならない.

    鰹漁業に於いて最も注意を要するところのものは餌の不足である。南洋の海は深

    海であり遠浅でない。しかも海水の透明なること世界一の評がある。これ等の事賓は

    餌を得るに額る不便である。餌を得るために網を用ひんとするも,透明なる海水はこ

    れに不適昔である。而して餌の多くは深海に求めず リーフ内にこれを求めてゐる。リ

    ーフ内に於いて餌を得るには潜水に巧みなる沖縄解人を絶封に必要とする。沖縄解人

    以外この潜水作業によって餌を獲るもの皆無の事賓を無視 し,従来失敗せる幾多の例

    を見る。南洋に於ける鰹漁業に関して餌は戎されたる重大問題の一つである。然しな

    がら将来リーフ以外に餌を求め得るに至ればこの問題は白から解決するが,少くとも

    それまではこの餌と沖縄解人の関係を無視することは危険である。

    南洋群島文化協会 ・南洋協会南洋群島支部 (1938)『南洋群島寓最帖』の水産業関連の

    写真をみると,昭和初期の鰹漁業や鰹節製造の実態が知られる。写真 1は 「豊漁 ・鰹の運

    -132-

  • 旧南洋押出日本人移民の生活と活動

    一押紙県LtJJ身移民の事例を中心に- (石川友紀)

    写真 1 豊漁 ・鰹の運搬 写真 2 南興水産会社の鰹の虚哩

    写真 3 鰹節の製造 写真 4 両興水産会社の鰹節工場

    写真 1-4は南洋群島文化協会 ・南洋協会南洋群島支部編 (L938)『南洋群島寓異帖』(160-163頁)より転載。

    搬」,写真 2は 「南興水産会社の鰹の庭理」,写真 3は 「鰹節の製造」,写真 4は 「南興水

    産会社の鰹節工場」という説明がなされている。いずれの写真にも沖縄県出身の漁業移民

    が写っているとみてよい。

    Ⅳ.大宜味朝徳氏の著作 を通 してみた南洋群島の 日本人移民

    大宜味朝徳 (1939)『南洋群島案内』海外研究所の 「第 8章群島素描」のなかに,「南洋

    群島と沖縄県人」の節があり,以下南洋群島における沖縄移民の活躍の実態を抜粋 してみ

    よう (137-138頁)0

    神経県系は墓麿 と鹿児島問に碁布鮎在する六十有線の島から成 り,土地の割合に人口

    は非常に多い。面積は我が南洋群島と略同 じ百四十方里であるが人口は南洋群島の十

    商人に封 し沖縄鯖は六十寓人の人口を擁 してゐる。斯 くの如く限られた小地域に人口

    は年々殖-て行 く.人口増加の割合に事業が伴って来ない。従って沖縄螺人の海外壁

    展は必然の勢とされてゐる。 (中略)

    従って今 日日本の移植民間題の封策の上から沖純鯖は極めて重要な存在である。就

    一133-

  • 「移民研究」第 7号 2011.3

    中我が南洋群島に於ける沖縄解人の植民的地位は賓に偉大なもので陸の仕事に於い

    ても,海の仕事に於いて沖縄解人無くして経督不可能な資状である。群島在住邦人の

    六割乃至七割は沖縄鯨人を以って占めてゐるの有様である。(中略)

    私は先年南洋 トラック島を訪問した折,森小解翁から,明治三十年頃沖縄解糸満出

    身の玉城某が帆船糸満丸で トラック,ボナペ島よりギルバー ト島方面まで漁場調査に

    来たことがあると云ふ痛快な史賓を聞いたことがあるが,今 日沖縄嚇人が南洋の水産

    界に雄飛するのも決して故なきにあらずと痛感 したのであった。

    更に沖縄移民が今日の如く世界の各植民地に壁展する理由の一つは布畦にしろ,中

    南米にしろ,南洋群島にしろ,外南洋の各地共,各植民地の気候風土がよく沖縄に似

    てゐる。之が同解人をして一番働きよくせ しめてゐる大きな理由の一つである。それ

    に関連 して沖縄願人は熱帯産業に充分な訓練を経てゐると云ふことで,之が植民人と

    して同解人が歓迎せらる 理ゝ由でもあり,又沖縄解人でなければならぬ評もそこにあ

    るのである.更に植民人として難難辛苦に堪-得る鮎も特性の一つである.又水産業

    の如きも珊瑚礁の多い中を潜って餌を採る重曹の如き,沖縄漁夫の濁舞茎である。南

    洋群島を始めセレべス,ボルネオ,シンガポール等沖縄漁業家の躍進もこの特技の然

    からしむるものである。

    私は何故に沖純解人が植民的に飛躍単展するか,其特性を為政者は勿論,多くの拓

    殖人が其本質を認識し,我国南進国策の上に充分に其特性を登輝せしめられんことを

    心から祈るものである。

    また,同書で沖縄県の地酒である 「泡盛酒」 が南洋群島で愛用されていると,つぎのよ

    うな記述がみられる (78頁)0

    泡盛酒は南洋群島到る所に販膏せられてゐる。サイパン,テニアン,ロタ,ヤップ,

    パラオ,トラック,ボナペの各島に泡盛醸造家あり,島内消費として相等生産せられ

    てゐる。

    泡盛は琉球泡盛と称せられ沖縄解が本場である。琉球王朝時代には泡盛職と称し,

    王家の御用酒を製造したものである。首里城下,赤田,崎山,鳥堀は其中心地であっ

    た。

    南洋群島には沖縄解移住者の増加に伴ひ,沖縄より泡盛醸造業者の渡航を見,今日

    の如く普及せられたもので,今 日では南洋群島の特産として重要の地位を占むるに到

    った。(中略)

    泡盛は生のま 用ゝひるを普通とするが,サイダー,シロップを加-て用ふると最と

    も妙味がある。更に泡盛を原酒として梅酒,バナナ酒,ブ ドウ酒,キンカン酒等を造

    一134-

  • 旧南洋群島日本人移民の生活と活動

    一沖縄県出身移民の事例を中心に- (石川友紀)

    れば風味佳良の珍酒が出来る。

    同書では南洋群島で生産されるカツオ節製造に従事しているのは,その大多数が沖縄移

    民であると,「南洋節」の項目でつぎのように記述している (97-98頁)0

    南洋節の濫腸は大正八年に玉城松柴氏が沖縄醇から渡航 して鰹漁業に従事したの

    に始まる,それ以前島民の手によって鰹が製品にされてはゐたが,今 日節と呼ぶもの

    とは凡そ縁遠い粗雑なものであった。玉城氏も最初のうちは試験的に行ってゐたもの

    で,南洋節としてデビューしたのは数年後,昭和元年からであった。業者は沖縄醇人

    が大多数を占め漁業と節製造を兼脅してゐたが,昭和五年に現南興水産株式合社の前

    身たる南洋水産企業組合が庵原市蔵氏によって設立されてからは,沖縄県系出漁者と特

    約 して,漁獲物を買取り,自己曾社の漁獲と一緒に製造されるや うになった.普時製

    品は内地に送られ内地節に儀装されたが,折から内地節は品不足を告げてゐたので,

    十貫八十圃位の好値で取引されたものである,尤もこの好値は最初だけで,其後は一

    般景気の下向と,南洋節の飛躍的な生産増加とが相互に作用して,相等安値を示すや

    うになった。然しこの安値は,内地節に比し割安につくと云ふので却って需要は増大

    され,次表 (略)で示すや うに生産高は年々級数的に増大して,最近 (昭和十一年)

    の数字は約六十五黄貫となり,十年前の二千貫に比較すれば正に三百倍に相等すると

    云ふ異常な躍進振 りである。昭和十一年度に於ける全国 (内地,墓碑,南洋)の鰹節

    製造高は三百四十高貴 (最近十年間の最高)であるから,南洋節は賓に全圃鰹節生産

    高の約五分の-を占めると云ふ盛況である。最初南洋節は熱帯地方での製造だけに技

    術的に相等困難を極めたが,最近は内地の製法に南洋独得の製法を加味する適昔な方

    法が壁見されたので,量的にも質的にも今後益々上昂するものと見られてゐる。(中

    略)

    南洋群島は鰹鮪の常棲地帯として知られ,魚群は附近一帯の島喚を繰って鹿汎な範

    囲に洞沸 し,根接地より日締 り程度の範囲内 (距岸二,三十浬沖以内)にて周年間断

    なく出漁し得るのであって,内地沿岸に於ける鰹漁業の如く休漁期間は無いから,釣

    漁業も製造も頗る能率的に操業出来る評である。

    大宜味朝徳 (1941)『南方年鑑』昭和 16年版,海外研究所の 『南洋群島移住案内』の 「旅

    行心得」 の見出しで,つぎのような記述がみられる (179頁)0

    凡そ外囲-旅行するには日本政府の壁行する旅行免状 (旅券)が必要であるが,我

    が南洋群島に渡航するには旅券を要しない。日本内地の旅行と少しも撃らない。貨幣

    -135・

  • 「移民研究」 第 7号 2011.3

    も日本の囲貨だし極めて気軽に行ける。渡航は自由で何等の手績きも要 しないが,上

    陸後十 日以内に居住屑を所轄支廉に届け出ることになってゐる。

    常夏の島だから服装及身の廻 りの所持品の如き,夏の仕度と思ってゐれば間違ひは

    ない。寝具の如きも毛布一、二枚も用意せば充分である。日用品は南洋でいつでも買

    -るから鯨分に持って行く必要はない。

    旅館はサイパン,テニアン,ロタ,パラオ, トラック,ボナペ,ヤルー トの各島何

    れも整備 した邦人旅館があって宿泊には不自由しない。一 日三園,四囲,五園と分れ

    てゐるが普通三園位である。

    また,同書では南洋群島-の移住案内として 「南洋移民」の見出しで,移民の仕方を教

    えている (179-180頁)0

    南洋群島も他の植民地と同じく,自由移民と契約移民がある。自由移民は希望者が

    自由に渡航 して,自由に職を求めて働く。之等の自由移民は最初は多く人夫として働

    き,若干の貯蓄を残 して,それから濁立して行くと云ふのが今 日迄の多くの人々の経

    路である。

    中には最初から若干の資本を持ち,又は技術を持ってゐるものは,渡航後直ちに目

    的の仕事に着手 して行くのである。若干の資本を持ち又は特殊の技術を有する人から

    見れば,南洋群島は未だ魔女開拓を薦す可き有望な仕事は多い。

    契約移民は南洋拓殖株式合社の農場及アンガウル錬業所同社傍系合社及南洋興蟹

    合社の砂糖耕地の人夫小作人,同社の採錬所,タピオカ澱粉製造所等の人夫が主で,

    何れも最初合社 と一定の契約のもとに渡航 し合社の仕事に従事するのである。之等の

    契約移民は多く合社の出張員が,募集県系の事務取扱所で取扱ってゐる。旅費と仕度金

    は合社で前貸 しするので簡単に渡航出来る。

    契約移民は勿論,自由に渡航 して南洋で一旗あげや うと決心 して移住する人々も,

    絶海の異郷で常夏の風土に於いて仕事を焦すのであるから,所期の目的を達するには,

    心身共に強健で幾多の労苦に堪ゆる覚悟がなければならぬ。苛も,一機千金を夢見る

    が如きことは絶封に禁物である。今 日何れの園,何れの植民地と錐も,専心其業務に,

    従事するにあらざれば成功は到底困難である。南洋群島も亦植民人として其覚悟は勿

    論必要である。

    大宜味朝徳編著 (1940)『躍進パラオ案内』海外研究所のなかに,「旅行上の注意」 の見

    出しで,南洋群島-移民するための服装や渡航者の留意事項が,つぎのように記されてい

    る (134-135頁)0

    -136-

  • 旧南洋群島日本人移民の生活と活動

    一沖縄県出身移民の事例を中心に- (石川友紀)

    船の中では先づ船の規律を守ることが大切でありまして,係員の手を煩はさない様

    にし,特に荷物類はキチンと整頓 して置かなければなりません。

    服装は男子は和服でも洋服でも何時もキチンと着て,決 して垢のついたものを着た

    り,だらしない格好をしない榛に注意することが必要です。

    尚ズボンを穿いてシャツを用ひる方が大-ん簡単で便利であります。女子はどんな

    時でも猿又を穿いて帯をキチンとして,女の身噂なみを忘れてはなりません。

    男女共に他の船客に不快の念を抱かせたり,迷惑をかけたりすることのない棟に注

    意する事が肝要であります。

    船が目的地に着くと渡航者は上陸する前に官憲の検疫を受けねばなりません。

    其の場合には良く係員の云ふことを聞き,静粛に検疫を受けて質問された場合には

    ハキハキと答-ることです。

    先方に知人なり友達が居る時は上陸地につく三,四日前に船から電報を打って,出

    過-て貰ふ様にした方が大-ん都合がよろしい。

    同書ではまた 「どんな仕度をして行くか」 との見出しで,南洋群島での気候に合った服

    装晶や夜具類 ・世帯道具 ・台所用品 ・日用品 ・薬品 ・農具類などの携帯品について,以下

    のような記述がみられる (133-134頁)3)0

    移住地の気候は丁度内地の夏から秋にかけての頃と思-ば間違ひなく,至って簡畢

    な服装で間に合ふから出来るだけ質素で簡単な仕度で良いのです。

    男子の洋服の様に羅紗ものは殆んど必要なくカーキ色の丈夫な服で充分でありま

    す。

    婦人服も絹ものなどは全く必要なく洗濯に強い木綿物で充分であります。

    和服は賓揮なものを樺山持って行っても殆んど着る時がないので無駄であります。

    荷物は日常の手廻品のほかは莫産包や行李詰等にして,その容積は大人の船客一人

    に付いて二十貫迄は無料で乗せ られます。それ以上は超過量について夫 規ゞ定の料金

    を支梯はねばなりません。

    荷作 りの場合は船の中で使用する品と到着後使用するものとを区別 して,船内使用

    品は手廻品だけを-まとめにする事が肝要であります。多数の船客がある場合は船内

    で大荷物を開く事は困難であります し,他の船客の迷惑にもなりますから最初から斯

    ふゆう事を考-て荷作りする事が肝要であります。

    服装晶 ・・・男子用一作業衣,替ズボン,替シャツ,猿又,ゲー トル,地下足袋,軍

    手,浴衣等。

    一137-

  • 「移民研究」第 7号 2011.3

    女子用一簡軍衣,猿又,浴衣,肌衣類,地下足袋,寝巻類,子供用晶,

    軍手等。(和服は男女共に浴衣の外は繰 り着ませんが,畢衣,袷,綿入,

    羽織等の有合せの物を持って行けば,向ふで仕事服に仕立替られます。)

    夜具類 ・・・蚊帳,毛布,薄布圏,敷布,枕,枕掛等。

    世帯道具 ・・洗面器,剃刀,バ リカン,裁縫道具,鉄,鏡,小刀,傘類。

    墓所用品 ・・鍋,釜,皿,湯沸,バケツ,庖丁等。

    日用品 ・・・石鹸,手拭,柿,ブラシ,歯磨粉,塵紙,髪油,手帖,ペン,ペン軸,

    封筒等の文房具。

    薬品 ・・- メンソレータム,クレオソー ト,ヨー ドチンキ,繍背,ガーゼ,脱脂綿,

    胃腸薬,アスピリン,婦人病薬とか自分で常用してゐる薬類等。

    農具類 ・・・鍬,鎌,鋸,斧,砥石,欽とか簡単な大工道具。

    以上は現在お持ちのもので移住地で役立つものを書いたのでありますが,移住地の

    近くにある町の商店には何でも膏って居 りますから,現在手元にないとか,繰 り荷に

    なる物は持って行く必要はありません。

    Ⅴ.おわりに第二次世界大戦前 31年間にもわたり日本の統治下にあった南洋群島の日本人移民の存

    在は,戦後 65年を経過 した現在忘れ去られようとしている。それでも,南洋群島の日本

    人移民の約 70%をも占めた沖縄県にあっては,現在でもサイパン島・テニアン島・ロタ島 ・

    ボナペ諸島-の戦争犠牲者-の慰霊のための,沖縄県南洋群島帰還者会等による墓参団の

    訪問は続いている。

    かつて同地域に居住 していた日本人移民や現地生まれの二世等も減少の一途をたどっ

    ている今 日,当時の移民の実態をかれらの記憶に留めるのみならず,記録として残してお

    く必要がある。そのため,昭和初期から昭和 10年代にかけて発刊された月刊の雑誌 『南

    洋群島』や拓務省の 『拓務時報』,大宜味朝徳の 『南洋群島案内』などから,社会地理学

    的観点より,戦前の南洋群島における沖縄県出身移民の事例を中心に,現地の生活と活動

    をみてきた。なかでも主体をなしたのは南洋協会南洋群島支部 ・南洋群島文化協会が毎月

    発刊 してきた雑誌 『南洋群島』である。同月刊誌 『南洋群島』は不二出版により,第 1巻

    第 1号 (昭和 10年 2月 10日発行)から第 9巻第 10号 (昭和 18年 12月 20日)まで,不

    二出版により全 26巻の復刻版 として,2009年から2011年にかけて刊行された4)0

    取 り上げた南洋群島における沖縄移民を中心にした 日本人移民の事例はわずかではあ

    るが,今後の移民研究のため,研究者の基礎資料として参考にしていただければ望外の幸

    いである。

    ー138-

  • 旧南洋群島日本人移民の生活と活動

    一沖縄県出身移民の事例を中心に- (石川友紀)

    1)今泉裕美子 (2002)「第 3編アジア ・太平洋,第2章南洋群島」『具志川市史』第4巻,

    移民 ・出稼ぎ,論考編,561-5660

    2)『南洋群島』第 8巻第 5号 (1942年 6月)にも,岡島清 「各支庁管内の水産業 (2)」の

    なかに,「パラオ鮪漁業の沿革」があり,沖縄移民の活躍の記事がみられる。また,『南

    洋群島』第 8巻第 6号 (1942年 7月)にも 「同上 (3)」パラオの巻がある。

    3)南米のペルー,ブラジル,アルゼンチンなど-の日本人移民の渡航時の服装と携帯品

    については,拙稿 (2003)「第二次世界大戦前ペルー ・ブラジル ・アルゼンチン ・ボリ

    ビア ・チリ-の日本人移民の渡航経過と職業構成 (1)」『人間科学』琉球大学法文学部

    人間科学科紀要,第 11号,pp.43-44を参照してほしい。

    4)仲程昌徳は 「南洋群島の沖縄人たち-雑誌 『南洋群島』に見られる沖縄人をめぐる言

    説」(2004)のなかで,以下のように南洋群島を高く評価 している。 「南洋と関わって

    出された雑誌は多いが,南洋で刊行されていた雑誌は少ない。その少ないなかで,戟

    時期と重なりながら,その期間はほとんど休刊することもなく刊行され続けた雑誌は

    他にない。群島の沖縄人を知るのに,これ以上貴重な雑誌はないといっていい。」(166

    頁)と。

    文献 (南洋群島の移民に関する文献一覧)

    赤嶺秀光,1976,「そして誰もいなくなった一戦争が蒸発させた 10万人-」『月

    刊エコノミス ト』1976年 10月号,毎日新聞社,66-77.

    赤嶺秀光,1990,「南洋移民とは何だったのか」『新沖縄文学』84号,沖縄タイムス,72

    -89.

    赤嶺秀光,2001,「南洋移民は幸福だったか」『け-し風』第 32号,新沖縄フォーラム刊

    行会議,38-45.

    安里嗣淳,2002,「旧南洋群島テニアン島移民の聞き取 り記録一沖縄本島越来村出身安里

    ウトの場合-」『史料編集室紀要』第 27号,沖縄県教育委員会,97-106.荒井利子,2005,「日本統治時代からパラオ諸島に残る親 日感情をめぐって-沖縄県移民

    の果した役割-」『移民研究年報』第 11号,日本移民学会,99-117.

    安仁屋政昭,1990,「南洋移民の戦争体験」『新沖縄文学』84号,沖縄タイムス,108-115.

    安仁屋政昭,1996,「戦後沖縄における海外引き揚げ」『史料編集室紀要』第 21号,沖縄

    県教育委員会,1-14.

    安仁屋政昭,1998,「移民政策」『沖縄戦研究 Ⅰ』沖縄県教育委員会,111-131.

    石川朋子,2000,「沖縄南洋移民に関する一考察」『地域文化論叢』第 3号,沖縄国際大学

    ー139・

  • 「移民研究」第 7号 2011.3

    大学院,99-121.

    石川友紀,2004,「旧南洋群島における日本人移民・沖縄県出身移民史とその跡地調査」『旧南洋群島における沖縄県出身移民に関する歴史地理学的研究』科学研究費補助金研究

    成果報告書,琉球大学法文学部,25-61.

    石川友紀,「人口統計よりみた旧南洋群島における日本人移民の地域的分布 と職業構成」

    『人間科学』第 14号,琉球大学法文学部人間科学科紀要,13-38.

    飯高伸五,2005,「ミクロネシア ・パラオ共和国における戦闘カヌー復興の分析」『文化人

    類学研究』第 6巻,早稲田大学文化人類学会,116-131.

    飯高伸五,2006,「ガラ トウム トウンの踊る安里屋ユンタ-パラオ共和国ガラスマオ州に

    おける 「アル ミノシゴト」の記憶-」『民俗文化研究』第 7号,民俗文化研究所,104

    -120.

    飯高伸五,2006,「日本統治下南洋群島における 「島民」村吏と巡瞥-パラオ支庁マルキ

    ョク村の事例分析を通じて-」『日本植民地研究』No。 18,日本植民地研究会,1-17.

    飯高伸五,2009,「旧南洋群島における混血児アソシエーション-パラオ ・サクラ会」『移

    民研究』第 5号,琉球大学移民研究センター,1-26.

    今泉裕美子,1992,「南洋興発 (樵)の沖縄県人政策に関する覚書一導入初期の方針を中

    心として-」『沖縄文化研究』19,法政大学沖縄文化研究所紀要,131-177.

    今泉裕美子,1997,「サイパン島における南洋興発株式会社と社会団体」波形昭一編著 『近

    代アジアの日本人経済団体』同文館出版,65-86.

    今泉裕美子,2001,「南洋興発 (樵)と沖縄」『け-し風』第 32号,新沖縄フォーラム刊

    行会議,33-37.

    今泉裕美子,2002,「日本統治下ミクロネシア-の移民研究一近年の研究動向から-」『史

    料編集室紀要』第 27号,沖縄県教育委員会,1-22.

    今泉裕美子,2005,「南洋群島引揚げ者の団体形成 とその活動一 日本の敗戦直後を中心と

    して-」『史料編集室紀要』第 30号,沖縄県教育委員会,1-44.

    今泉裕美子,2009,「矢内原忠雄の遺 した課題一戦後 日本にとっての 「国際関係研究」と

    「沖縄問題」」『up』第 38巻第 5号 (通巻 439号),東京大学出版会,45-49.

    大原朋子,2010,「戦後沖縄社会と南洋群島引揚者一引揚者団体活動に注目して-」『移民

    研究』第 6号,琉球大学国際沖縄研究所移民研究部門,23-44.

    亀田 篤,2003,「南洋群島における沖縄県出身者の移動傾向一市町村史 ・字詰掲載の移

    民 ・出稼ぎ体験記録を用いて-」『地域文化論叢』第 5号,沖縄国際大学大学院,55-86.

    川島 淳,2008,「帝国史研究と沖縄出身南洋移民一沖縄という現場から-」『駒沢史学』

    第 71号,駒沢史学会 48-69.

    -140-

  • 旧南洋群島日本人移民の生活と活動

    一沖縄県出身移民の事例を中心に- (石川友紀)

    川島 淳,2009,「沖縄出身南洋移民女性の渡航形態について-1930年代から1940年代前

    半期の未婚女性に焦点をあてて-」『南島文化』第 31号,沖縄国際大学南島文化研究

    所紀要,右 19-44.

    川島 淳,2010,「沖縄から南洋群島-の既婚女性の渡航について一近代沖縄史 ・帝国日

    本史 ・女性史という領域のなかで-」『東アジア近代史』第 13号,東アジア近代史学

    2,1471167.

    川島 淳,2010,「沖縄出身南洋移民未婚女性の渡航要因と移民男性の婚姻形態について

    一帝国日本史 ・近代沖縄史 ・女性史とい う複合的領域のなかで-」『南島文化』第 32

    号,沖縄国際大学南島文化研究所紀要,右 17-54.

    島袋伸三,2004,「南洋群島の自然環境と土地利用」『旧南洋群島における沖縄県出身移民

    に関する歴史地理学的研究』科学研究費補助金研究成果報告書,琉球大学法文学部,9

    -23.

    高嶺朝誠,2003,「パラオ諸島における沖縄移民関係資料の調査-パラオ諸島調査紀行-」

    『史料編集室紀要』第 28号,沖縄県教育委員会,145-160.

    冨山一郎,1993,「ミクロネシアの 「日本人」一沖縄からの南洋移民をめぐって-」『歴史

    評論』No。 513,校倉書房,54-65.

    仲程昌徳,1996,「琉球人の唆昧 ・不親切一中島敦の見た南洋の沖縄人たち-」『沖縄文化』

    第 31巻 2号 (通巻 84号),沖縄文化協会,1-13.

    仲程昌徳,1997,「沖縄は日本のジプシーー石川達三の見た南洋の沖縄人たち-」『沖縄文

    化』第 32巻 1号 (通巻 85号),沖縄文化協会,29-42.

    仲程昌徳,1997,「昼間の酒盛 り一土方久功の見た南洋の沖縄人たち-」『沖縄文化』第 32

    巻 2号 (通巻 86号),沖縄文化協会,24-45.

    仲程昌徳,1997,「土人の床下に寝ている沖縄人一能仲文夫の見た沖縄人たち-」『日本東

    洋文化論集』第 3号,琉球大学法文学部紀要,1-22.

    仲程昌徳,1998,「太平洋は沖縄女性を悲 しませる一安藤盛 『南洋記』の中の沖縄人たち

    -」『日本東洋文化論集』第 4号,琉球大学法文学部紀要,63-83.

    仲程昌徳,1998,「日本農民の南進部隊-中山義二の見た南洋の沖縄人たち-」『沖縄文化』

    第 33巻 2号 (通巻 88号),沖縄文化協会,21-39.

    仲程昌徳,1999,「何処-行くにも蛇味線持って一吉田中正彦 『種子の蔭』の中の沖縄人

    像-」『日本東洋文化論集』第 5号,琉球大学法文学部紀要,19-42.

    仲程昌徳,2001,「平和な島 ・楽園の島一南洋帰還者たちの回想記録-」『沖縄文化』第 36

    巻 2号 (通巻 92号),沖縄文化協会,43-69.

    仲程昌徳,2003,「「小便」の位置一矢田弥八 『群島』(一幕三場)の中の沖縄人-」『複数

    の沖縄 ディアスボラから希望-』人文書院,197-219.

    ー141-

  • 「移民研究」第 7号 2011.3

    仲程昌徳,2004,「南洋群島の沖縄人たち-雑誌 『南洋群島』に見られる沖縄人をめぐる

    言説」『旧南洋群島における沖縄県出身移民に関する歴史地理学的研究』科学研究費補

    助金研究成果報告書,琉球大学法文学部,133-204.

    マーク ・R・ピーティー著,我部政明訳,1992,「日本植民地支配下のミクロネシア」『近

    代日本と植民地 1 植民地帝国日本』岩波講座,岩波書店,189-215.

    又吉祥一郎,2009,「南洋移民の語 りにみる 「移民像」-サイパンに渡った沖縄系 2世の

    ライフヒス トリーから-」『移民研究』第 5号,琉球大学移民研究センター,87-112.

    宮内久光,2004,「旧南洋群島における沖縄県人の世帯と就業一引揚者在外事実調査の集

    計と分析-」『旧南洋群島における沖純県出身移民に関する歴史地理学的研究』科学研

    究費補助金研究成果報告書,琉球大学法文学部,63-132.

    宮内久光,2008,「南洋群島に渡った沖縄県出身男性世帯主の移動形態」蘭信三編著 『日

    本帝国をめぐる人口移動の国際社会学』不二出版,691-719.

    宮内久光,2008,「南洋群島における沖縄県出身男性移住者の移動経歴」『立命館言語文化

    研究』第 20巻 1号,立命館大学国際言語文化研究所,129-151.

    屋比久守 ・福薗宜子,2003,「旧南洋群島関係資料所在について」『史料編集室紀要』第 28

    号,沖縄県教育委員会,69-84.

    (いしかわ とものり・琉球大学名誉教授)

    -142-