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Title <論説>西晋時代の諸葛孔明観 Author(s) 狩野, 直禎 Citation 史林 = THE SHIRIN or the JOURNAL OF HISTORY (1976), 59(1): 86-106 Issue Date 1976-01-01 URL https://doi.org/10.14989/shirin_59_86 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

Title 西晋時代の諸葛孔明観 Citation 59(1): 86-106 Issue … · 三国志に対する穀誉褒疑は、その書の成立当初より種々であった。晋書巻八十二、陳寿伝では、のは、三国志蜀志巻五の諸葛亮伝であるからである。

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Page 1: Title 西晋時代の諸葛孔明観 Citation 59(1): 86-106 Issue … · 三国志に対する穀誉褒疑は、その書の成立当初より種々であった。晋書巻八十二、陳寿伝では、のは、三国志蜀志巻五の諸葛亮伝であるからである。

Title <論説>西晋時代の諸葛孔明観

Author(s) 狩野, 直禎

Citation 史林 = THE SHIRIN or the JOURNAL OF HISTORY (1976),59(1): 86-106

Issue Date 1976-01-01

URL https://doi.org/10.14989/shirin_59_86

Right

Type Journal Article

Textversion publisher

Kyoto University

Page 2: Title 西晋時代の諸葛孔明観 Citation 59(1): 86-106 Issue … · 三国志に対する穀誉褒疑は、その書の成立当初より種々であった。晋書巻八十二、陳寿伝では、のは、三国志蜀志巻五の諸葛亮伝であるからである。

西晋時代の諸葛孔明観

(86) 86

【要約】 諸葛亮(孔明)は古今にまれなる忠臣であり、また神謀奇略、たぐひなき武将ということになっている。この様な評価は、

東晋南朝の正潤論の勃興とともに盛んになり、宋代、朱蕪によって完成されたといえよう。また「三国志演義」は、この様な評価

を広く大衆に植えつけるのに大きな役割を果した。

 本稿では正潤論が勃興する以前、孔明死後約七~八十年忌間に見られる孔明像を追及するのを目的とした。

 孔明像の嵐発点となるのは、いうまでもなく華寿の「三国志」である。まず三国志の諸多亮伝について、亮自身が青年時代に志

向した人物万、どのようなものであっ允かを考え、ういで同時代人の評価へと進む弔そこに見られるのは、亮を秀れた政治家とし

て見る方向が強い。陳寿の諸葛亮評もその線上にある。しかし陳寿とほぼ同時代人の張輔は、亮を政治家・武将の両面から高く評

価しようとしている。                             隻林五九巻[号 【九七六年一月

                                   ①

 諸葛亮は三代以後の人物として、古今に牢なる忠臣と申す事になっているが、これは勿論、亮自身が人に優れた人物で

あったということが、根本的な要因であるわけだが、同時に、後世の人の、彼れに対する様々な評価が、その人物像を形

成する上に、大きな役割をになっている。

 一般に、或る一人の人物(或は歴史的事件)に対する評価は、その時代の政治・社会・思想等の反映として現われる。そ

してこのようにして形づくられた人物像(或は事件像)は、また逆に後世の政治・社会・思想等に投影されていくであろう。

 とくに諸葛亮孔明の評価は、いわゆる正潤論の高まりと、非常に密接な関係があろうかと思われる。しかし本稿では、

Page 3: Title 西晋時代の諸葛孔明観 Citation 59(1): 86-106 Issue … · 三国志に対する穀誉褒疑は、その書の成立当初より種々であった。晋書巻八十二、陳寿伝では、のは、三国志蜀志巻五の諸葛亮伝であるからである。

西晋時代の諸葛孔明観(狩野)

陳寿によって「三国志」が著わされ、当然其の中に「諸葛亮伝」が入るわけだが、その陳寿の三国志が書かれた西晋時代

までに限って述べることにする。なお彼の仕えた劉備、或いは同輩であった関羽・張飛、さらには敵対者であった曹操ら

に対する評価にも、必要に応じて触れることがあろう。

 それで本論に入る前に、愈愈の「三国志」について一言述べておかねばなるまい。何故なら、諸葛亮像の出発点となる

のは、三国志蜀志巻五の諸葛亮伝であるからである。

 三国志に対する穀誉褒疑は、その書の成立当初より種々であった。晋書巻八十二、陳寿伝では、

  「撰魏呉蜀三国志。凡六十五篇。隠人称其善叙事。有良史叢書。夏侯湛監督魏書。賀寿所作。便壊己千百罷。張華墨善之。謂寿隅。

 当以晋書相付耳。其為時所重如此。」

とあり、評判のよい書であったが、

  「記言之好賊。載筆之凶人。」 (史通 曲筆)

とか

  「三國[士心多㎜魍護。」 (二十二史割記巻六)

と言ったように、疑辞も多い。これは一つは正潤論の立場からのものであり、一つは曲筆があるとするものである。

 正潤論の立場よりするものは、魏を正統にするか、蜀を正統にするかという、いわば歴史哲学に関係することが議論の

中心となるので、記載の内容には言及することは少い。それであるから、ここには正潤論からの批判は触れないでおく。

 それでは、三国志に曲筆ありとする、記述の内容についての議論を考えて見る。陳寿の三国志には南朝宋の斐松之の注

がある。この注は本文の欠けた点を補うこともあるが、その内容には小説的な記事が多い。蘇蜜は五車が三国志を編むに

あたって採用しなかった記事を拾いあげている点が多いから、逆に喜寿の史料批判はかなり厳密であって、従ってその史

料を使って書かれた三国志も、内容はかなり信頼がおけるものと理解される。

87 (87)

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 また三国志の曲筆であると指斥されている所も、その議論に首肯できる点もないではないが、正潤論などによって創ら

                                          ②

れた陳謝三国志に対する通念から、逆に導き出されたものもあるようで、弁護の余地なしとしない。陳寿の三国志著作の

態度は、三国それぞれにおおむね公平であったと認められる。

 以上私は諸蔦亮の行事を述べるには、陳寿の三国志を主とし、斐注の記事を従として考えたい。しかし転注の記事は、

諸葛亮像の変遷を見る上には、却って重要な資料となるであろうこと、述べるまでもない。

(88) 88

乳明の自己評価

 陳寿三国志は、孔明の青年時代のことを記して、

 「亮退耕朧畝。単為尊父吟。身長八尺。本藍比興管仲楽想。時人莫之許也。惟博陵崔州平、穎川欝欝元直。与亮友善。謂為信然。」

といっている。ここに彼れの青年時代の自己評価-自己の理想とする人物があらわれてくる。それは管仲と楽毅であった。

 管仲はあらためて述べるまでもなく、春秋斉の人で、桓公を輔佐して、覇業をなさしめた人物であり、その著といわれ

る黒子は、法家に分類される。亮は故郷斉の偉大な政治家を尊敬し、自らもそれと肩をならべるような人物たらんとした

のである。それでは楽毅はどうであろうか。

 楽毅はこれまた有名な戦国時代の武将である。しかし斉の人ではなく、それどころか、斉を滅ぼそうとした燕の将軍で

ある。このように功績のあった楽毅ではあるが、識  口にあって趙に逃れた。のち燕の恵王から、故国に帰ってくるように

との誘をうけたが、ついにこれを断った。その時楽毅が血忌に遣った手紙は、 「楽毛報遺燕恵卜書」と呼ばれ、史記巻八

十の楽毅の伝に載せられ、名文の一とされている。これは毅の燕に対する忠心を余す所なく述べている。

 ところで三国時代には、後にも述べるように、楽毅は弱起に絹となって強斉を討ち、しかもその軍は仁者の師であると

の評価を受けていた。

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西晋時代の諸葛孔明観(狩野)

 孔明は政治家となるなら管仲のように、そして武人としては毅のように武であるとともに仁、そして忠心を貫くものと

なろうと考えた。後孔明は有名な「出師の表」を上って北伐に出かけるが、その表文と、毅の「報遣燕恵王書」とは、す

          ③

でに先人も指摘した如く、非常に似通った点があり、自ら撃墜に比した孔明の一面を示しているように思う。

 ところで孔明が吟じた梁写実とはいかなるものであろうか。受注もこれには何ら言及していないが、梁父とは封禅の祭

で有名な斉の梁父山。の事であり、故郷斉に詣る歌謡であった。唐欧陽詞奉勅撰の芸文類聚巻一九吟部にその内容がみえ

 ④

るが、それによると春秋末、斉の婁嬰が、景公の時代に二黒を以て三士を殺した故事を詠んだもので、婁嬰が君権至上主

義を取った事を示している。若し芸文類聚の言うことがあたっているとするなら、ここにも孔明の政治に対する理想がう

かがえるように思われる。

        二 同時代人の孔明評価

 の友人の評価

 (

 前に引いた諸葛亮伝にもあるように、自らを管曼に比した孔明に対し、当時の人はこれを認めなかった。ただ博論(山

東)の崔州平、頴川(河南)の徐庶だけがこれを認めたという。

 岡時代人の孔明評について、詣れしも思い浮べるのは、 「孔明臥龍」ということであろう。この言葉の定着の裏には、

蒙求(唐詞漸)の果した役割り、決して少なからぬと思う。これは徐庶が劉備に孔明を薦めた時の言葉であった。

  「諸葛孔明者臥竜也」

ところで嚢注引嚢陽記には

  「劉備尊墨事於司馬徳操。徳操日。儒生俗士。貴識時務。識時務者。在乎俊傑。此間自運伏龍鳳楼。過越為誰。日。諸葛孔明麗士元

 也」

とあり、臥龍、伏龍という評判を当時の荊州社交界において得ていたわけである。

89 (89)

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 なおついでに一言すると、曹操は周知のように、

  「治世之能臣。乱世之姦雄。」

と評されたが、これは斐注引世語(世語引革鎧異同雑語)に見えるわけだが、爾志武帝紀の陳寿本文にも

  「太祖少機警。有権数。而任侠放蕩。不治行業。故世人未之奇也。唯梁国橋玄南陽何顯異焉。玄謂太祖日。天下将乱。非命世之才。

 不能済也。能安之者。其在看乎。」

と、これも当時の識老たちから評判を取っていたことがわかる。

 ところが劉備の方は、同時代人から、このような抽象的な評語は受けていない。しかし備の故郷漂郡を往来する中山の

馬商人から目をつけられていた。

  「軍備……好交結。豪侠年少魚串之。中山大商張世平・蘇饗等、賀累千金。悪馬周旋富里郡。見而異型。乃多与之金財。先主由是得

 用合徒衆。」 (蜀志巻二)

と、いかにも劉備と曹操のその後の生涯を暗示する話である。こういう劉備の性格がやがて演義三国志においては、いわ

ゆる桃園の盟を、関羽・張飛と結ばせることになるのだが、むろん心血三国志には、このような話はない。それでは陳寿

三国志において、関羽はどのように見えているか。

  「関羽。字雲長。本字長生。河東解人也。亡命蒸器郡。先主於郷里合徒野。而釜澤張飛為之禦悔。」 (三国志立志六 関羽伝)

関羽は解からの亡命者であった。解といえば、ここは解州塩の産地である。羽は或いはこの解州塩を売り歩く塩商人の一

味で、故あって源郡に亡命して来ていたのであろうか。

 張飛は

  「張飛。字益徳。源郡人也。少与関羽倶事先主。」 (三国志蜀志六 張飛伝)

とあって、劉備に仕えるまでの経歴は全くわかっていない。

(90) 90

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西晋血症の諸葛孔明観(狩野)

 劉備と関羽・張飛は当時の智識人のグループから、何らの評判をうけていない。このことは、彼ら三人の間に、桃園結

義に近い事があったであろうことを推測させる。関羽伝には

  「先主与二入。夜則同駄。恩若兄弟。」

とあり、張飛伝には

  「羽年長数歳。飛兄事之。」

とあるのも、この推測を助けよう。ただ関羽と張飛とでは、羽の方が文武ともにすぐれていたらしいことは、

  「羽好左氏伝。認説略皆上口。」

が斐注引の江表面に見えることなので、史料的価値は落ちるにしても、三国志全体から受ける印象でもある。

 わ 敵国から見た孔明像

 (

 魏の劉嘩は、曹操が漢中の張魯の集団を討った時、曹操に対して

  「今器量中。蜀人望風。破胆失調。推此無難。蜀可伝微爺定。……若小器之。諸葛亮明於治而為相。関羽・張飛勇冠三軍而為将。蜀

 民既定。拠険守要。則不可犯夷。」 (三国志魏志一四)

と説き、張魯を攻めた機会に蜀を討たんことを勧めたのであるが、このまま放置しておくと蜀は攻めにくくなる、その一

因は孔明が政治家として手腕を発揮することにあるとしている。また愈愈は文帝の問に答えて、

  「呉蜀難幕爾小国。粟国山水。整備有雄才。護憲亮善治国。孫権識虚実。陸素見諸勢。拠管守要。」 (三国志魏志一〇)

と言って、孔明は「治国に善し」と評している。また彼が法家の書を好み、信賞必罰を以て事に処したことも「泣黒馬

⑤談」の逸話などが端的に示している。

91 (91)

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       三 陳寿の孔明評価

 の宰相としての孔明評価

 (

 以上、質詞や垂垂の孔明に対する評価は、政治家として優れているということにあった。されば陳寿も「進諸葛下表」

に、

  「亮才於治戎為長。奇謀為短。理風三韓。優於将略。」 (三国志蜀高曇)

と、民を治める才能が軍事にまさると言い、また諸葛亮伝の評にも

  「諸葛亮之為相国也。撫百姓。示儀軌。約官職。従権制。開誠心。布公道……可謂識治之詩才。管蒲之亜匹也。」

と述べている。この評は亮の生涯を良く示していると思われる。陳寿は孔明を管仲、さらには漢高祖の三傑の一人で、常

に後方にあって、政治の面において、高祖に後顧の患をなくした蒲何の亜匹としているのである。そこには一貫して孔明

を政治家として評価しようとする姿勢が伺われる。

 また呉の大鴻臆張倣は黙記を著し、いま題して伝わらぬが、筋注にその一部が引かれている。張撮は次のように述べる。

  「昔子産治鄭。諸侯不敢加兵。蜀相其近之 。方之司馬。不亦優乎。」 (蜀志巻五注)

  「其辞意懇切。陳進取之図。忠塑警々。義形於主。蒙古焔管婁。露量加之乎。」 (同)

                    ⑥

黙記は十分に信用しうる史料とはいえないが、孔明に対する当時の人々の考方の一端を窺うことができよう。

 ここでは孔明は、春秋末鄭の名宰相であった子壷、或いは管仲・曇嬰一いずれも孔明の理想とする人物であった一

と比肩し、或いはこれに翫さると見、現実の世での好敵手であった司馬属などは、比較にならぬとしているのである。な

お黙下中には孔明を「一国之宗臣、覇王之賢佐」などとも表現している。張撮黙記も亦孔明を、政治の側面から主として

評価せんとするもののようである。

(92) 92

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西普時代の諸葛孔明観(狩野)

の 武将としての孔明評価

( 孔明は没後、後脚劉禅より忠武と識された。武人としても大いに活躍したのである。この側面は、必ずしも孔明の本領

とする所ではないかも知れぬが、関羽・張飛・劉備と相ついで没し、趙雲老いたあと、彼は軍事面でも第一線に立たねば

ならなくなった。かくて南中遠征、さらに毎年のように行われた北伐へと、寧日の暇がなかった。しかし武将としての孔

明に対する評価は、生存中も、死後においても、政治家としてよりの評価に較べると、よいものとはいえなかった。楊戯

が輔臣賛において、

  「受遺阿衡。整武斉文……屡臨敵庭。実燵其威。」 (三国恋蜀志一五 楊戯伝)

といったのは、戯が自国の宰相であったものに対する尊敬からの言葉で、寧ろ例外であって、

  「魏延……以部曲随先主。入蜀。……延毎随亮嵐。帆欲請丘ハ万人。与亮異道。前縁灘関。学生信故事。亮制而不許。延常総亮為怯。」

  (三国志蜀志十、魏延伝)

とか、或いは奮書巻一に

  「帝(司馬酪)弟孚。書問軍事。帝復書田。亮志大而不誌面。多謀衙少子。好兵而無権。錐提二十万。已堕吾雨中。望蜀必契。」

と見える。これも一は敵側の志気を鼓舞するための言葉であり、一は蜀の中では平素から亮に批判的な立場に立っていた

者の述べた事であるという背景を考慮しても、公平に見て亮は軍事において、軍政は別として、軍略の面では劣っていた

ようである。

 陳寿がその諸葛亮伝の評において、

  「是以用兵不敢。屡擢其武---連年動衆。未能有克。」

  「蓋応変将略。非其所長歎」

というのも、決して陳氏の諸葛氏に対する隠棲からのみ出たものとは言えないであろう。

93 (93)

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 むしろ陳寿はこのような評価を下しながら、 「進諸葛亮集表」には、次のような弁護の言も用意している。

  「昔蒲何魚塩信。管薦挙王子魚掛。皆金轡尊長。語聾兼有故也。亮之器能政理。抑耳管胃管亜匹也。葡時之名将。無城楼韓信。故使

 功業陵遅。大義不及邪。」

孔明自身は管仲や蒲何に匹敵する人物であるが、瀟何における韓信、管仲における王子城父にあたる将軍が、蜀にいなか

ったことを取あげるのである。

                               ⑦

 韓信は周知の通り、高祖劉邦の三傑の一で、将軍として活躍した。王子城父は王子成甫とも書かれるが、史記三十二斉

世家に

  「斉恵公(桓公の予)二年馬長径来。王子城父攻殺之。」

                                     ⑧

と出てくる人物であろう。管仲が王子城父を挙用したことは、新序巻四に見える。

 そして「進諸葛亮集表」には、

  「目今。梁益之民。容述亮者。書論在耳。難甘巣之詠召公。郷人之歌子産。無以遠磐也。孟論賛云。以儒道州民。難労不怨。以生道

 殺人。難死不愈。信莫」

とさえも言っている。甘巣の事は、蜀志諸葛亮伝に

  「息承纏階六年。春。切照為山売立㎞勝於汚陽。」

とある本文に対する斐注に、嚢陽記が引かれていて、次のように見える。

  「亮初亡。所在各求為立廟。朝議以礼秩不聴。百姓噴油清節。私祭之道瀟瀟。……歩兵尉習隆。中書郎向充等共上表日。臣聞。周人

 懐召伯之徳。甘巣為之不伐。越王思薄談之功鋳金以存其像……」

                                       ⑨

などとも見える。甘巣は言うまでもなく、詩経召南。召公爽をたたえるものである。

 以上陳欝の孔明評価はほぼ公平で、政治家としての孔明を武将としての孔明より高く評価している。

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西晋瞭代の諸葛孔明観(狩野)

 この評価に、最初に異を称えたのは張輔である。張輔とはいかなる人物であろうか。

        四 張輔について

 鳳θ 張輔の祖先達-張堪・張衡

 (                           ⑩

 張輔の行事は、晋書巻六十、張輔伝によって、ほぼあとづけられる。

 張輔は南陽西邪の人(河南省南陽の北)。後漢の政治家であり、文人であり、また科学者でもあった張衡(七八~一三九)の

子孫である。張輔の生年はつまびらかでないが、その活躍した時期から考えて、約百年、つまり三世代ほど後の子孫とい

うことになろう。

                  ⑪

 後漢書巻五九の張衡伝、及び三一の張堪、即ち張衡の祖父の伝によると、張氏は既に前漢末より、この地方の豪族であ

・や前漢末の虜郡は宇都箆の表現を借りれば・開発途走あり・後漢覇を開いた臨空(前六~後毛)もその頁

                           ⑬

である。劉秀と雪穴はおそらく秀の方が年長であったようだが、劉秀は張堪が十六歳で長安に留学し『志美行属』の故を

以て、長安の諸儒たちから『聖童』と呼ばれたこと、また先父の余財数百万を、兄の子に譲った行為などはもちろん知っ

ていたであろう。劉秀が「微時見堪志操常嘉焉」したと堪伝に記す。

 劉秀は来獄の推薦によって笹書を郎中に任じ、やがて公孫述が蜀に建てていた大成国を撃つにあたって、彼を蜀郡太守

に任じた。堪は成都城に入ると、倉庫を検閲し、ごまかして自分のものにすれば、十世の後までも富むに足る珍宝を、す

べて書き出して報告し、これっぼっちも私することなかった。それで蜀郡太守を去る時も、醸の折れた車に乗り、やぶれ

た袋だけを持っていたと伝えられる。彼は蜀郡を治めるに、

  「仁以恵下、威能討姦。」

と恩威ならぶ政治を行い、富民を慰撫したという。彼の名声は太守の職を去ったのちも蔦蔓に語りつがれ、光武帝が諸郡

95 (95)

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の計吏を召して、その風土及び前後の守令の能否を訊ねたとき、蜀郡の計橡焚顕は進み出て、もとの太守張堪の名を挙げ

たのである。

 張堪は蜀郡太守から漁陽(河北省意義)の太守に遷った。ここは北辺、匂奴と対当するところでもある。彼は任地に赴く

や、姦猜を捕撃し、信賞必罰を行ったので、

  「吏民皆楽為用。」

とある。やがて勾奴が万騎をひきいて攻め込んでくると、彼は数千騎に将としてこれをむかえうち、郡内を安定に導くと

ともに、孤奴(河北省順義県)において稲田面輪黒雲を開いて、民に農業を勧めた。そこで百姓は

  「桑無附枝、麦穂両岐、張君為政、楽不可支。」

と歌った。張堪はこのように後漢初に治績をあげた地方宮であった。

 張衡は地震計を発明し、渾天儀を罪作するなど、天文学者として有名であり、また賦の作者としても、後漢を代表する

文人であるが、政治家としても有能であった。彼が官に仕えたのは順帝の時代であり、宙宮の政治的進出がようやく萌し

始めたころである。張衡は竃官からおそれられる存在であり、そのため誕言を被ったこともあった。

 永和の初(;一六ごろ)、河岩相(河北省同県)となった。河間国は二成・渤海・源郡を分ちて出来た国である。彼は在位

三年にして、微されて尚書に拝したが、永和四年(=二九)に六十二歳で没した。張衡が河郵相になったとき、その王は劉

政であった。後漢書五十五、章八王伝によると、河谷王政は傲狼にして法憲を奉ぜずとあり、順帝は侍御史の沈景を抜擢

して河間相となした。景の働によって、政はついに節を改め、飲過自修したとある。そしておそらく沈景の後、河間相に

                        ⑭

なったと思われる張衡については、一言も触れていない。しかし張衡の伝によると、四過自修した筈の河間王政は、驕奢

にして典憲に遵わなかった。その上歯右が多く、不法行為をなしていた。張衡は厳重に法律で取りしまり、ひそかに姦党

の姓名を調べ、一網打尽にした。かくて河間は

(96) 96

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西晋時代の諸葛孔明観(狩野)

  「上下粛然、称為政理。」

と見える。なお王先謙集解には、

  「恵棟日、集云、諸豪侠悉懊催逃出境、郡中大治、争訟息、獄無繋囚。」

という記事をのせている。張衡も亦豪右に対し、強硬な手段を取ったのである。

 なお多方面に活躍した張衡であるが、史学の面で注目されるのは、司馬遷・班固の叙ぶる所、典籍と合わざるもの十余

事を個条書きにして、上したことであろう。

 わ 張輔の政治生活

 (

 張輔は少い時から、従母兄南陽の劉喬と名をひとしくしていたとある。この劉喬はその姓が示すように、もともと漢の

               ⑮

宗室、安衆侯家につらなる人である。

 南陽は後漢末、上州牧劉表のもとで、比較的他の地に較べて安定していた。劉表の死後、曹操が南下して、赤壁の戦い

が起り、野州は、曹操・劉備・孫権によって、 一旦三分された形になるが、華北に近い南陽は、曹操-よ魏の支配下に入っ

た。こうした政治的変遷をうけつつ、南陽の豪族社会は、通運その他の手段によって結合されていた。その一例を張輔と

劉喬の二人に見ることができる。

 さて張輔は藍田(陳西省藍田県)令・山陽(山東省金具県)令と地方官を歴任するが、この時に彼が行ったのは、その祖先

張堪・張衡の治績に匹敵するものであった。

 すなわち藍田令となっては、彊驚将軍鷹宗、宗の婦族である西州の大半、護軍の張俊らの横暴に屈せず、彼らの放縦な

る僅僕を取り締り、その二人を殺し、宗の田二酉余頃を奪って蓮華に給した。その結果、

  「一県称之。」

と、晋書の張輔伝に見える。まえ山陽令に転じては、太尉陳準の家億の横暴に対し、その甚しきものを撃殺七たのである。

97. (97)

Page 14: Title 西晋時代の諸葛孔明観 Citation 59(1): 86-106 Issue … · 三国志に対する穀誉褒疑は、その書の成立当初より種々であった。晋書巻八十二、陳寿伝では、のは、三国志蜀志巻五の諸葛亮伝であるからである。

 このように地方官を歴任して、尚書郎から御史中丞にと転じ、、その閥宜昌侯丞に封じられた。御史雪曇は、

  「官規を振粛する職務であるから、甚だ重要な位置である。併し弾劾という誰しも好まない仕事をさせられるので、要職ではあるが

 清宮でない」。

      ⑯

とされているし、尚書郎も

  「習代から、世人は実務に煩わされる尚書郎を嫌い……」

       ⑰

と指摘されている。

 さて御史中丞となり弾劾をつかさどることになった張輔は、十分に腕を揮うことになる。積悪将軍孟観、質誰、溜岳、

石崇、義陽王威などが、彼の弾劾を被った。

 買誰は言うまでもなく、晋の恵愛の皇后質量を代表する人物で、溜岳・石崇らはいずれも賞譲二十四友の中に数えられ

る。 

義陽王威は、沓書三十七に伝があり、

  「威凶暴無操行、回附趙王倫。」

と見える。そして客観は、瞥書六十に伝があるが、それによると、渤海東光の人で、楚忠言と結び、質氏が武帝の外戚楊

氏を減ぼすときにはその一味として活躍した。このように、外戚や宗室と錐も、おそれることなく、これを糾劾したので

ある。

 車騎野史韓預というもの、梁州刺史楊欣が姉の喪中であるにもかかわらず、欣の女を自分の妻としたことがあった。折

しも中正であった張輔は、預を疑したのである。奮書の張輔伝には、この行為についても

  「論者称之。」

と記している。

(98) 98

Page 15: Title 西晋時代の諸葛孔明観 Citation 59(1): 86-106 Issue … · 三国志に対する穀誉褒疑は、その書の成立当初より種々であった。晋書巻八十二、陳寿伝では、のは、三国志蜀志巻五の諸葛亮伝であるからである。

西晋時代の諸葛孔明観(狩野)

 とぎに脅は八王の乱が勃発し、趙王倫のもとで孫秀が実権を握るようになった。趙王に謳附し、御史中寺張輔に弾劾さ

れたことのある義尊王は、孫秀に彼を広いた。孫秀は義母王の言に惑い、いったんこれを捕えんとしたが、張輔は秀に次

のような手紙を送った。

  「輔徒燈燭慕古人、当官遊行、不復自知、小為身上。今義陽極誠弘恕不離介意、然輔母年七十六、常見憂慮、恐輔将以母型獲罪、願

 明公留神省察、輔前後行事、是国之愚臣而已。」

と一歩も退かぬ気慨と老母を思う心情を吐露したので、秀もついに張輔をどうすることもできなかった。即ち

  「秀難凶狡、知輔雅正、為威所誕、乃止。」

と見える。そして輔は薦翔太守(陳西省西安)に任じられた。時に長安には河二王願なるものがいて、勢威をふるっていた。

これに対し、長沙潔癖は、 「願が関中を制して不臣の跡あり」といって、学窓に誕言した。本紀ではこのことを永興元年

にかけているし、また蓋したのは成都王頴となっているが、これは晋書忠義伝などから推して、長沙王がなしたとするの

が良い様である。

 ところで恵帝はこの言葉を点れて、雍州刺史劉枕(劉枕の伝は、、晋書八十九忠義伝に載せられている)、秦州刺史皇甫重らに

命じて顯を討たせた。こうして張輔も八王の乱の渦の中にと巻き込まれていった。

 入王の乱にあたっては、八王のいずれに正義があり、だれに正義がないかということはできないが、長沙王と河三王と

の言立の際には、膏書の記述はやや長沙王に加担するようである。そして張輔のそれまでの行動はむしろ長沙王に味方す

ることを予測させる。だが実際には彼は河二王の側に立った。 「ついに」の一字は、張輔のその閻の心の動きを示す如く

である。長沙王と雪間王の戦いは河間王が勝った。そして輔は皇途上にかわって芸州篇首となったが、游士との間が不和

になり、(游楷と張輔は之もに経営王の側に立って戦ったのである)ついに武勇一途の韓朴に殺されてしまった。

 切 張輔の名士優劣論.

 (

99 (99)

Page 16: Title 西晋時代の諸葛孔明観 Citation 59(1): 86-106 Issue … · 三国志に対する穀誉褒疑は、その書の成立当初より種々であった。晋書巻八十二、陳寿伝では、のは、三国志蜀志巻五の諸葛亮伝であるからである。

 以上が彼の政治生活であるが、彼には又

  「晋秦州刺史張輔集工巻録一巻」

があったこと、旧唐書経籍志などに見えるところである。現在は伝っていないが、全誤答に扶文が集められていてその一

端にふれることができる。その文の中に「名士優劣論」がある。いま我々が見ることのできるのはハ 「管仲・飽叔」 「司

馬遷・高機」 「曹操・電環」 「楽毅・諸葛亮」の四組みである。本論文と直接関係するのは後二者であるが、順序として、

前二者に触れておこう。‘

 「管仲・飽黒蓋」は、 一般には管長は桓公を驚けて覇業をなさしめたのだから、彼こそ優るものと考えられがちだが、

三三をもって管仲より勝れるとする毛ので、その文は晋書本伝に見える。

 次に「司馬遷・班固」論である。史記・漢書の優劣は、多くの学者が関心を抱く問題であり、そうした際には必ずこの

張輔の議論が取りあげられる。張輔は

  「世人論司馬遷班固才之優劣。多以固為勝。余以為失。……」

に始り、史記を真の良史であるとして称讃している。張輔の祖、張衡にも史記・漢書を論じた文があること前述した通り

であり、張氏の伝統でもあったのであろうか。

        五 張輔の劉備論

さて、張輔は「曹操・劉備論」 「楽毅・諸葛亮論」で、それぞれ劉備・諸葛亮を非常に高く評価している。三国蜀が滅ん

で半世紀、このように蜀の君臣を称揚したのは注目すべきである。とくに陳寿が蜀の地に生れながら、種々ないきさつが

あったにせよ、魏を正統として三国志を著したことを思い合わすとき、一層その感を深くする。

 まず曹操・劉備論から見ていこう。

(100) 100

Page 17: Title 西晋時代の諸葛孔明観 Citation 59(1): 86-106 Issue … · 三国志に対する穀誉褒疑は、その書の成立当初より種々であった。晋書巻八十二、陳寿伝では、のは、三国志蜀志巻五の諸葛亮伝であるからである。

西晋時代の諸葛孔開観(狩野)

  「世人見魏武皇帝処有中土、莫不謂勝劉玄徳也。余以玄徳為勝。」

この言い方は張輔が、司馬遷・班固論を展開した時と同じであり、世人が曹操をもって勝るというのに紺して、自分は敢

て劉備を高く評価するというのである。

  「夫擾乱之主。先以能収相獲将為本。一身之善戦。不足特也。」

と乱世を治める王は、立派な網将を配下に収めるか否かが評価の中心になるのであって、戦いの上手下手は問題でないと

考える。これは恐らく、陳寿の行った劉備の評

  「機権幹略。不逮魏武。」 (三国志蜀志二)

を頭に入れての発言でもあるようだ。そしてこのようにコ身之善戦。不足侍也。」といいながら、その戦争の点でも劉

備は決して曹操に劣っていないというのである。即ち

  「三人以玄徳為呂布所襲。為武帝所走。挙軍東下、而為陸遜所覆。」

と、世人が数える劉備の三つの敗戦をまず提示する。勃起に襲われたのは建安元年(一九六)、武帝即ち曹操に敗れたのは

建安十二年(二〇七)、そして陸遜との合戦は章武二年(二二二)、蜀漢建国後に関羽の仇を討つために、呉と戦った結果生

じた。張輔はこの三つの敗戦を世人が問題にするけれども、豪腹にも同じような敗戦があったではないかという。

  「難日為呂布所襲。宋若武帝為徐栄断敗。失馬被創之危。」

  「玄徳還拠豊州。形勢乗合。在荊州。劉掘立父子不能用其計。挙旧跡魏。手下歩騎不満数台。為武帝大衆競走。未若武帝為呂布北騎

 禽勒突火回急。」

  「玄徳為陸遜所覆。未若武三三張総所困。挺身逃遁。以喪二子也。」

即ち劉備の三つの敗戦は、それぞれ曹操の三つの敗戦にくらべると、ずっとましであるというのである。曹長の三つの敗

戦とは、一、初平元年(一九〇)、操が反輩卓連合軍の一員として起坐した直後、董卓の将徐栄と戦い、多くの士卒を死傷

101 (101)

Page 18: Title 西晋時代の諸葛孔明観 Citation 59(1): 86-106 Issue … · 三国志に対する穀誉褒疑は、その書の成立当初より種々であった。晋書巻八十二、陳寿伝では、のは、三国志蜀志巻五の諸葛亮伝であるからである。

させ、彼自身も流矢にあたり、乗馬に傷をうけた所、従弟の曹洪に助けられた戦9二、興兵元年(轡九四)、曹操が濃陽に

屯していた呂布を攻め、かえって大敗を喫し、馬より墜ちて左手に焼栗をした戦い。三、曹操が許に重して後漢の献帝を

迎えた後、建安三年(一九八)、南陽にいた張繍を攻め、反対に鼠穴・意表の連合軍に敗れた戦をさす。

 以上、劉備・曹操ともに確固たる基盤を持たなかった頃の戦い、それぞれ蜀漢、韓国を建ててからの敗戦を比較して、

劉備が曹操より武将としても(本来判断の基準にすべきでないのだが)勝っていたことを論じ、次のように議論を展開さす。

  「若令高祖死予彰城。世人方之不及項羽遠 。武帝子宛下、将獲不及張繍。」

この文章には、韻士均の「干上脱置字」 「獲当作復」なる校定があり、従うべきように思う(特に「子上脱死字」の指摘)。

そうすると、この所は

  「武帝死干宛下。将復不弓張繍」

となろう。高祖と項羽の彰城の戦は、漢二年(前群〇五)の四月の戦で、彰城に入った劉邦が、城内の財宝や美人を収めた

ところを項羽の軍に攻めこまれて大敗し、折柄の突風に辛うじて難を逃れたのである。

 歴史に「もしも」は許されないが、張輔の意見は、パスカルのクレオパトラの鼻ではないが、彰城の戦で劉邦が死に、

曹操が宛で張繍・劉表の軍に敗死しておれば、評価は逆転していたかもしれぬというもので、所詮戦争での一勝一敗は人

物評価の基準にはなり得ぬというのである。

 では人物の評価は何によるべきなのか。張輔は次のように議論を進めていっだ。、

  「其忌克安忍直隠。董公仁〔董昭〕・買文和〔質謝〕以俳愚書免。筍文若〔筍或〕・旧徳祖〔楊修)之徒、多見賊害。孔文挙〔孔融〕・

 桓文林〔曄桓〕以宿将見殺。良将不能任。行兵三十余年。無不親征。功臣謀士、曾無韓土之封。仁愛不加親戚。恵沢不流菅姓。量若

 玄徳威而有恩。守而有義。寛弘而大略乎。」

すなわち曹操は人を用ひ、人心を収めることができなかったという、大きな欠点があるとして、その実例を六つあげてい

(102) 102

Page 19: Title 西晋時代の諸葛孔明観 Citation 59(1): 86-106 Issue … · 三国志に対する穀誉褒疑は、その書の成立当初より種々であった。晋書巻八十二、陳寿伝では、のは、三国志蜀志巻五の諸葛亮伝であるからである。

西晋時代の諸葛孔明観(狩野)

る。ここにあげられた六例のうち、董昭だけが、三国叢記志十四董国王による限りでは、悸愚i愚者のふりをした一

                    .                       ⑱

の行いがあったこと探し出せなかったが、他の五例はいずれも張輔のいう通りである。

 曹操がこのように残忍刻薄であって、功臣謀士も列土の封なく、仁愛は親戚に加わらず、恵沢は百姓に流れずという状

態であったのにたいし、全備が人間味あふるる態度をもって、臣下や百姓に向つたことを強調して、以下のように述べる。

  「諸葛孔明、達治知変。殆王佐之才。玄徳無論態勢、而令委質。張飛関羽皆人傑也。服而下之。寵栄闇不相潮煙。能否不相為使。武

 帝処四強。不為之用也。況在危急之間。勢弱之也。」

そして議論は次のように結ばれる。

  「若令玄徳拠有申州。将与周室比隆。豊徒三傑而已哉。」

玉璽を周の武王に比せんとするのである。これはやや過褒に過ぎるかとも思うが、当時の世論をくつがえすための主張と

しては、これくらいの表現が必要だったろう。

六 張輔の孔明論

 次に楽毅・孔明の比較である。

  「楽毅諸葛孔明之優劣。-或以毅羨門燕。合五国之兵。以牽強斉。雪君主之恥。囲愚管不急攻。将令道窮而義服。此剣仁者之師。莫不

 三三為優。余以為五国之兵。共伐一斉。不足為強。大戦補血。伏 流血。不足為仁。」

前述したように、孔明は楽毅を青年時代自らの目標として掲げてきた。また張輔が「楽毅諸葛孔明之優劣。或以……」と

いっているところがら推すと、当時楽毅・孔開の比較論が盛んであったことが伺える。

 さて世の人が楽毅を高く評価するのは、弱毒に相となって、r五七(趙・楚・韓。魏.燕)の兵を率いて強斉を打ち破り、

神主(燕昭王)の恥を雪いだからである。また城を囲みて急忽せず(楽毅は斉を討伐すること五年、斉の七十余城を降した一史

103 (103),

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記巻八十。楽毅伝)といったありさまであったので、世人は仁者の師と称している。しかし余おもえらく1張輔の考はこ

れに同調しない。五国の兵を率いて、一つの斉国を伐ったのだから、決して強いとは言えない。済水の西で戦った時に伏

 流慮の惨事を招いたのだから、仁とするには値しないと言うのである。

 それでは孔明はどうであろうか。

  「夫孔明抱文武之徳。劉玄徳以知人聴講。屡造畢鷹、聡警済世。至如奇策泉涌。智謀縦横。遂東灘孫権。北抗大蒜。曲乗勝之師。翼

 佐取蜀。」

孔明が文武両面の徳を抱いていた所、劉備は知人の明をもって、孔明の人物を見抜き、しばしばその騰にいたり、世を救

うの術を問うた。こうして孔明は泉の涌くが如き奇策と、智謀を縦横に働かして、東の孫権、北の昏怠と対抗して蜀を取

るに至った。楽毅が五国の兵を率いて、一つの斉を討ったのとは大いに違っているというのである。

  「及玄徳臨終。禅登大品。在野擁之際。立論蒙之主。設官鳶職。班叙衆母。文語寧内。争議折衝。然後布其温沢子中国之民。其行軍

 也。路不拾遺。毫毛無犯。勲業垂済而鰻。観其遺文。謀謹弘遠。雅規恢廓。已有功則譲子下。下有瀬目蒲自各。見善則遷。納諌則

 改。故声烈振干遽爾老也。」

孔明が後主査禅を助けて内治に軍事にと努力した事を述べたてている。 「其の軍を行うや、路面を拾わず、毫毛も犯すな

し」などとあるのは、 「楽毅仁者之師」という評価への対置であり、「奇策泉涌。智謀縦横。」は明らかに愈愈の「奇謀為

様」 「応変将略。非其所長鰍。」を意識しての評 =口であろう。ただ、劉備・曹操比較論に見るような具体的な事例があげ

られていないのが欠点で訪るが、後世の軍師孔明像への第一歩と言えよう。

 さて張輔の孔明評は次の文をもって結ばれる。

  「孟子日。聞伯夷之風。貧夫廉。余齢為。感量明之忠。姦臣立節 。愚将与伊論争露。縄帯楽毅為驚喜。」

陳寿が孟子を引けば、張輔も亦孟子を引いて文の結びにおいた。そして張輔は孔明を三代以後の人物と見なしたわけであ

(104) 104P

Page 21: Title 西晋時代の諸葛孔明観 Citation 59(1): 86-106 Issue … · 三国志に対する穀誉褒疑は、その書の成立当初より種々であった。晋書巻八十二、陳寿伝では、のは、三国志蜀志巻五の諸葛亮伝であるからである。

四二晦代の諸葛孔明観(狩野)

る。孔明は股初の宰相で、湯王から阿衡と名づけられ、夏の豊里を討つにも功のあった伊サや、周の尊王に見出され、股

の紺王討滅の軍師となった太公望呂尚にこそ比すべきもので、楽毅などと同次元で比較するものではないというのである。

 張輔が正潤論者であったとする証拠はみつからない。彼は世人の評価に対して異った見解を出して世に問うた。そして

結果として、孔明・劉備論-ひいては蜀漢論に新しい局面を提供した。

 東習に入って正潤論が盛んになると、孔明・断念に対する評価が高くなるが、このことは別の機会に述べたい。

① 「批林批孔運動」の中で、孔明はどのように評価されるのであろう

 か。劉備・孔明の敵役、劉備らを善玉とすれば、悪玉として憎まれる

 のが曹操であるが、その曹操は法家思想に連る一人として、再評価さ

 れているのだから、孔明はおそらく、低い評価しか与えられないであ

 ろう。もっとも孔明は法家的思想の持ち主だが、それ以上に曹操の敵

 対者としてのイメージが強烈である。二業四十九年五月二十日付の毎

 日新聞には、香港右派紙に掲載された台湾情報として「四川省で劉備

 を『大衆をペテンにかけるニセ君子』、孔明を『二目政策の始祖』と

 決めつけた壁新聞が出たと報導されている」とあったことを附記して

 おく。

② 陳寿の三二志については

 吉川幸次郎「三国志実録」 (全集第七巻)

 本田済「陳寿の三国志について」 (東方学二十三輯)

③ 「愚案。六国将相。有儒生気象者。惟望請君一人。其答畠田王書。

 蓄電明正。当世第一文字。諸葛孔明以管楽自比。而其出師衷実得力於

 論文尤多。…………彼此対麿。必知其風貌気骨。有相通者。」(史記楽

 毅伝、会注考証)

④ 今その一節をあげると、

 「………一朝被識言。ご桃殺三子。誰能為此謀。国相茶畑子。」

⑥ 孔明の価には、街亭の役を叙して

  「獄課以謝衆」

 と見え、馬護の伝(三国本蜀志巻九 馬良伝附)には

  「護下獄物故。亮為之流涕。」

 とあり、両者の霞き方が少しく異っている。 「泣いて馬護を斬る」は

 この二つの記述から出たものであろう。

⑥諸葛亮の「後出師表」は陳寿の本文に見えず、張撮黙記に見られる

 ため、その亮の作でないと見なされていることなど。

⑦「鷲何日。諸将論罪。至集信。国士無期。必欲争天下。自爆無可与

 計纂者。導電空拝信為大将。」

⑧  「管仲言斉桓公日。平原広圃。車不結軌。士不能踵。鼓之而三軍之

 士視死若帰。則臣不若王子成甫。請置以為大司馬。」

⑨  「鄭箋。召伯聴男女之訟。不善煩労百姓。止舎小集之下。而聴断焉。

 国人被其徳。説其化。思其人。敬傷心。」

⑩暦霞巻六十には、八王の乱に関係した人々が集められている。

⑪ 張衡の祖父張堪と、後漢書三一に伝のある張堪とは、同名異人であ

 るとする説もあるが(何煉)、ここはいちおう王先謙集解の説に従う。

⑫「張堪……為郡族姓」

  「張衡……世為著姓」

⑬  「春光武闘〔朱〕漁父塔。倶学長安。……初暉同県張堪。棄有名称。

 当於太学見暉。甚重之。接以友道。」(後漢醤四三 朱暉伝)とあり、

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 劉秀の学友朱寄の子、朱黒の友人であったように霞かれている。

⑭  「河間孝王開(章帝の子)以永元二年(九〇年、和楽の年号)封。

 ……囎立四十二年琵。子恵王政嗣。……構立十年擁。」(後漢謹五十五、

 章八王伝)とあるから、政は=一三~一四}の間、王であったことに

 なる。その死は張衡より二年おくれる。

⑮  「劉喬字仲彦南陽人也。 其先漢宗室封安置侯。」 (晋譜巻穴一劉喬

 伝)

⑯ 宮騎市定「九品官人法の研究」 (一二八頁)。

⑰ 同右(=三頁)。

⑱質謝魏志巻一四に「謝自以非太祖旧臣。而策謀深長。鰯雲猜疑。

 閾門自守。里馬私交。男女嫁嬰。不結高門。」

 筍或 魏志巻一〇に「以憂麗」とあるも斐注引幕氏春秋には「飲薬

倉卒」とある。

 楊修彼の俵は魏志二一王興伝に附されているが、むしろ魏志一九

三思王聖慮にくわしい。彼は植と親しかったわけだが機密を漏洩した

かどで獄に収めて殺ざれた。

 孔融 彼が曹操に殺された慕はあまりにも隠名である。

 桓嘩後漢繍巻六七桓栄伝に瞳の伝が附されている。初平中、乱を

会稽に避け、凶入の早いる所となって、合浦の獄中で死んだとある。

凶人とははたして曹操なのか。それとも張輔は何か別の材料によった

のであろうか。

         (京都女子大学教授 京都

(106) 106

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(Harumen血刀)as the basis of its tax collection system, accompanying

with it the Afeimen秋免(Tachigemen立毛免)and the Kemi毛見(Ma-

sutsMfee升付)as the comPlements of the sys.tem. These three as a

whole will be regarded in th圭s art圭cle as a Dome・nsゐihδ土免仕法. The

Domenshih6 ls the tax collection system that corresponds to “ the first

stage ” where the lord’s intention for “ the exploitation of all the surplus

labor” comes to clash with his fief’s structure of productive capacity.

And, il}some counties, the Tandorihδ面取法was in force from the

I〈eich6慶長era through to the fifth夕ear of the Kanei寛永.

  The tax co11ectioll system after the late Kanbun寛:文era(“the second

stage”)was a Aredorimen根取免, tax rates for each lot being fixed and

the land tax being collected on the basis thereof. Loglcally we could

assume the probability of farmers’ having surpluses a’fter this second

stage.

.The Klemi(GOdan.五段KeMi ahd.Sandan.i三段Klemi)adopted in the

Oleのyama¢1an. worked as supplements to th巴Dom.醜and th6飽407ゴ痂伽

systetn,. ≠獅п@we…Could virtUally regard it as a Genmenhδ減免法. Its

fundamental character.was that of the Ar・igehθmikδ有毛毛見法of the

OkaYama’clan. The shift from the’Godan-Kemi to the Sandan-1〈emi

was just a lord’s countermeasure to minimiz6 Kemi」 Kudari毛見下り.

Views on Chu-leo Kun.a-min8’in湿一Clzin.西陣Dynasty

by

Naosada Kanoh

  王thas been believed. that Chu一ん。〃α%g(:Kung-min8’)諸薦亮(孔明)

was an very loya1 subject and an exceedingly skillful tactician. Such

estimation prevailed with the r圭se of C肱㎎ヲ’Mn-ism正潤論in Tung Chin

翫銘。〃αo東山南朝dynasty, and Chu hsi亡帝l established it in Sung宋

dynasty.‘San肋。 chi yen夕i’「三国志演i義」played an important role

in making the view popular.

  In this article, the author aims to investigate the opinions on him

during seventy or eighty years from his death, that precede the rise

of Chang-jun-ism. First, the author’argues about what young Chu-ko

Llang himelf would be, based on‘Lzfe()f Chu-ko Liang’.「金面亮伝」in

(163)

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‘Sαn々%ochi’「三国志」, written by Chen Shuo陳寿, in which the鉦st

estimation of Chu-ko Llang in history appeared. Then, the article

treats the other contemporaries’ views. They esteemed him rather as

an excellent governor. lt・was almost the same witlt Chen Shuo, while

Clvang F%張輔, a cotemporary of Chen Shuo, esteemed him highly both

as a governor and as a general.

Moses HeB und der junge Marx

von

Kenji Taniguchi

  Karl Marx ist im Winter 1843/44 Kommunist geworden. Wurde er

dabei vQl’i Moses HeB eingewirkt, der als Mitredakteur in die “ Rheinisclie

Zeitung ” den Kommunismus “ eingeschmuggelt ” und den jungen Fried-

rich Engels zu seiner Sache gewoBnen hatte? Das ist die erste Frage,

in dem vorliegenden Aufsatz zu prttfen. Die auffallende Ahnlichkeit der

Ansichten von HeB und Marx nach ihrem Verkehr in Paris, die hier

hervorgebracht瓢rd, zeigt憾s die M691ichkeit der E呈nwirkung,.nicht

ohne Vorbehalt doch, insbesondere in bezug auf die Anwendung Feuer-

bachs auf das soziale und 6konomische Gebiet. Und durcli dieselbe

Ahnlichkeit wird uRsere zweite Frage ebenso’ geklart, ob Marx “ Wah-

rer Sozialist” war wie HeB. Mit RUcksicht.auf die Verwicklung der

Richtungen in der damaligen rheinischen Opposition stel!en wir fest, daB

Marx, wenn auch kurze Zeit, mit HeB und einer Anzahl von Oppositi-

onsleuten vertrat den .philosophischen Sozialismus oder “Wahren Sozi-

alismus ”, wie Engels ihn nannte.

(162)