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アフガニスタンにおける DDR -その全体像の考察- 上杉勇司(広島大学大学院国際協力研究科連携融合事業研究員) 篠田英朗(広島大学平和科学研究センター助教授) 瀬谷ルミ子(広島大学大学院国際協力研究科連携融合事業研究員) 山根達郎(広島大学大学院国際協力研究科連携融合事業研究員) [email protected] [email protected] [email protected] [email protected] 本稿は、広島大学連携融合事業「平和構築に向けた社会的能力の形成と国際協力のあり方 に関する調査研究」(HIPEC)の「平和構築政策研究会タスクフォース」の研究成果である。 同タスクフォースでは、連携パートナー構成員や外部専門家をメンバーとし、随時外部講 師を招聘して研究を進めた。しかし本稿で表明されている見解は、執筆者 4 名にのみ属す るものである。 *本研究報告書に記載されたすべての内容を、広島大学連携融合事業の許可無く転載・複 写することを禁ずる。

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アフガニスタンにおける DDR

-その全体像の考察-

上杉勇司(広島大学大学院国際協力研究科連携融合事業研究員)

篠田英朗(広島大学平和科学研究センター助教授)

瀬谷ルミ子(広島大学大学院国際協力研究科連携融合事業研究員)

山根達郎(広島大学大学院国際協力研究科連携融合事業研究員)

[email protected]

[email protected]

[email protected]

[email protected]

本稿は、広島大学連携融合事業「平和構築に向けた社会的能力の形成と国際協力のあり方

に関する調査研究」(HIPEC)の「平和構築政策研究会タスクフォース」の研究成果である。

同タスクフォースでは、連携パートナー構成員や外部専門家をメンバーとし、随時外部講

師を招聘して研究を進めた。しかし本稿で表明されている見解は、執筆者 4名にのみ属す

るものである。

*本研究報告書に記載されたすべての内容を、広島大学連携融合事業の許可無く転載・複

写することを禁ずる。

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The Disarmament, Demobilization and Reintegration (DDR) Program in Afghanistan: Its Overview and Overall Examinations

Yuji Uesugi (Research Fellow, HIPEC, Hiroshima University)

Hideaki Shinoda (Associate Professor, Institute for Peace Science, Hiroshima University)

Rumiko Seya (Research Fellow, HIPEC, Hiroshima University) Tatsuo Yamane (Research Fellow, HIPEC, Hiroshima University)

Abstract

This paper is an attempt to summarize preliminary findings of a research conducted by the Peacebuilding Policy Research Task Force of HIPEC that aimed at accumulating lessons learned for Japan and beyond from the Disarmament, Demobilization and Reintegration (DDR) in Afghanistan. It seeks to provide an overview of the DDR in Afghanistan, in which Japan involved as a “lead-nation” with the United Nations. A summary of the outcome of the DDR process in Afghanistan is presented by focusing on its basic characteristics as a political endeavor and an integral part of the security sector reform. The paper also provides a chronological review of the DDR process and the related political development in Afghanistan. Then, it analyzes some critical features of DDR process from four important viewpoints: peace agreement, security sector, governance and long- term social reintegration. By shedding lights on these four focal points, achievements and challenges of the Afghan DDR process will be identified.

This research report is a product of the Peacebuilding Policy Research Task Force of Hiroshima University Partnership for Peacebuilding and Social Capacity (HIPEC). The Task Force is consisted of members from HIPEC’s partner institutions and external experts. The Task Force organized a series of meetings with guest speakers. Nevertheless, the view expressed in this paper is solely of the author and does not represent the official view of HIPEC nor the partner institutions. No part of this paper may be reproduced without written permission of the authors.

© The Copyright of this Research Report belongs to HIPEC.

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はじめに

DDRとは、紛争後の平和構築に取り組む各地で実践されてきた活動の一つで、通常は和

平合意などを受けて、兵士たちの武装解除(Disarmament)、動員解除(Demobilization)、

そして市民社会への再統合(Reintegration)を促すプロセスのことを指す。紛争中には多く

の一般市民が正規軍の兵士や民兵として徴用される。とりわけ内戦などが長期間続いた場

合には、複数の武装勢力による「銃による支配」が確立し、多数の小型武器が市民社会に

まで氾濫していることが多い。したがって、DDRを通じて多数に膨れ上がった兵士たちを

市民社会へと復帰させることは、和平プロセスの懸念材料となる武装勢力の解体や巷に蔓

延する小型武器の回収につながり、治安の安定化に寄与することになる。同時に、DDRを

通じて、潜在的な和平の抵抗勢力となりかねない元兵士たちを動員解除し、軍事費への過

大な財政負担を減らし、限られた資源を復興に注ぎ込むことが可能になる。

今までにモザンビーク、ソマリア、アンゴラ、シエラレオネ、コンゴ民主共和国、リベ

リア、コートジボワール、ハイチ、ブルンジ、スーダンなどのアフリカの紛争国を中心に、

DDRが実施されてきた。そして、2001年 12月 5日のボン和平合意を受けて、4半世紀に

及ぶ内戦の結果、各地に軍閥が群雄割拠する情勢下にあったアフガニスタンにおいても、

DDRが実施されることになった。元兵士から武器を回収し、武装勢力を解体して、元兵士

たちを一般社会へと統合させるという一連のプロセスを、これら DDR と呼ばれる活動に

共通する特徴として挙げることができる。しかし実際には、それぞれの DDR の活動内容

には、多少の違いが見られるし、それぞれに異なる力点や固有の問題点がある。当然なが

ら、アフガニスタンで実施された DDR についても、一般的な側面とアフガニスタンに固

有の側面が混在していた。

そこで本稿では、アフガニスタンにおける DDR を振り返り、その一般的な側面と特殊

な側面を分析しながら、アフガニスタンにおける DDR の概要を浮き彫りにする。その概

観を示す過程で、DDRをめぐる政治的駆け引きや DDRの実施に係る特徴的な要素を分析

し、その成果と課題をとりまとめていく。

第 1節 アフガニスタンにおける DDRの概要

1. アフガニスタン DDRの概観

アフガニスタンにおける DDR では、アフガニスタン政府(担当官庁として国防省、動

員解除・再統合[Demobilization and Reintegration:D&R] 委員会)が、支援主導国(lead nation)

となる日本と国連アフガニスタン支援ミッション(United Nations Assistance Mission in

Afghanistan: UNAMA)とともに政策決定をおこない、それを受けて国防省およびアフガニ

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スタン新生計画(Afghanistan’s New Beginnings Programme: ANBP)が事業実施の責任を担

ってきた。DDR の対象は移行政権の国防省傘下の旧国軍(カブール中央軍団、第 1~9 軍

団が主要な対象)に限定された。再統合(社会復帰)プロセスに関しては、各種国際機関

や援助実施機関(NGOなど)が、職業訓練、農業支援、起業支援、地雷除去訓練などを展

開している。2005年 11月 25日付きの ANBP の実績報告によれば、ANBPを通じた DDR

の活動状況として、武装解除 63,380 名、動員解除 62,044名、再統合 60,646名、武器回収

36,571個(内、重火器 11,044個)が、これまでに完了したと報告されている1。

DDRの取り組みが国際社会の協力の下に進められるようになった背景については、本稿

では詳細に触れることはしないが、表 1や

表 2 にあるように DDR はアフガニスタンの和平プロセスの重要な一部として位置づけら

れ、第 2節で概説するように、ボン合意を起点とする政治的な流れの中で推し進められて

きた。DDRを実施する法的根拠としては、ボン合意 5条(1)「暫定政権設立時に、すべて

のムジャヒディーン、アフガン人の軍隊および国内の武装勢力は暫定政権の指揮統制下に

おかれ、新たなアフガニスタンの治安部隊および軍隊の必要に応じて再組織される」があ

る。さらに、アフガニスタンの国内での法的根拠としては、2003年 10月の DDRに関する

大統領令などがある。

アフガニスタンにおける DDR の起点となったボン合意では、長年の内戦に終止符を打

ち、各地に軍閥が群雄割拠する「銃の支配」の状態から、中央政府を中心とした「法の支

配」への転換を図ることが重要であると考えられた。中央政府(カルザイ政権)の下で、

これら軍閥や武装勢力の DDR が進められることは、和平プロセスの進捗ならびに治安の

向上に資するという理解から、アフガニスタン政府ならびに国際社会は G8 各国が主導す

る支援策の中で DDRを含む治安部門改革(Security Sector Reform: SSR)を推し進めること

に合意した。治安部門改革の 5つの柱および担当部門を主導する国として、新国軍創設(米

国)、DDR(日本と国連・UNAMA)、警察再建(ドイツ)、麻薬対策(英国)、司法改革(イ

タリア)が決定されている。

アフガニスタンにおける DDR の最大の目的は、各地に群雄割拠していた旧国軍(軍閥

勢力)を解体することによって治安を改善し、中央集権化による国家建設を支援すること

にあった。同時に DDR を中央政権の主導のもとに進めることによって、中央政権の求心

力を高めることも狙っていた。その上で DDRには、①(既存の軍閥・武装集団を解体し)

新国軍を唯一の軍隊とする治安維持機構を形成すること、②10万名を上限とする旧国軍の

兵士を DDR することにより軍閥およびその指揮系統を解体すること、③他の治安部門改

革と連動して社会経済開発を推し進めていくこと、④2004年 10月の大統領選および 2005

年 9月の議会選挙を自由かつ公平に実施する環境作りを促進すること、の具体的な 4つの

達成目標が与えられた2。 1 ANBP, ANBP Weekly Report (25 November 2005), <http://www.undpanbp.org>. 2 瀬谷ルミ子『FASID第 127回 Brown Bag Lunch報告書』(国際開発高等教育機構、2005年 2

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つまり、DDRは単独で存在した取り組みではなく、ボン合意によって定められたアフガ

ニスタンの和平・復興プロセスの歯車の一つであった。実際にはこうした DDR の位置づ

けにより、和平・復興プロセスの進展の中で、旧国軍の軍閥勢力が解体され、中央政権の

基盤を強化する政治的流れを促進したと言える。そもそも DDR は、旧国軍を解体し、そ

の影響力を削ぐことにより中央政権の基盤強化を意図したものであったため、並行して進

む政治プロセス(選挙など)との足並みを合わせつつ進められた。そのため、日程的な制

約などがあり、治安部門改革の一部として位置づけられていたにもかかわらず、後述する

ように治安の安定化といった目標の実現に関しては不十分な点が多々あった。

しかしながら、DDRは本来、多分に政治的な活動であり、政治プロセスとの連関の中で、

またアフガニスタン平和構築プロセス全体の中で捉え、その役割が評価されるべき試みで

ある。つまり、DDR の成果を評価する際には、DDR の平和構築へ及ぼした影響を吟味す

る必要があると言えるだろう。以下、このような問題意識に基づいて、アフガニスタンに

おける DDRを振り返っていく。アフガニスタンの DDRの成果については、いくつかの観

点を交えながら第 4 節で後述するが、実際にアフガニスタンにおける DDR のうち再統合

プログラムは現在進行中のため、本稿では武装解除と動員解除の段階についての現時点で

の具体的な成果を中心に検討する3。

2. アフガニスタンにおける DDRの基本的な性格

アフガニスタンにおける DDR の概要を浮き彫りにするため、以下の 5 点からアフガニ

スタンの DDRの基本的性格を描き出してみる。

まず、アフガニスタンでの DDR を平和構築プロセス全般の中に位置づける上で最も重

要な点は、アフガニスタンの DDR は非常に政治的なプロセスであり、かつ信頼醸成のプ

ロセスでもあったということだ。もちろん、アフガニスタンに限らず DDR の政治的側面

や DDRの信頼醸成措置としての側面は、他の DDRにも共通する基本的性格である。しか 月 7日開催)、および Kinichi Komano, DDR Programme in Afghanistan: Updates, Challenges and Japan-NATO Cooperation, PowerPoint presentation, 5 May 2004. 3 もちろん、DDRの「R」(再統合)の部分は DDRの中でも非常に重要な局面であり、最も困難な局面でもある。とりわけ、DDRが平和構築に及ぼした効果や影響を評価する際には、再統合の部分の成果を加味しなくてはならない。特にアフガニスタンのように、一般市民の多くが

失業状態にあり、長年の内戦の影響で社会の基盤インフラも壊滅的な打撃を受けた状況では、

産業の発展や活性化は多大な困難に直面している。また、自然環境も厳しく灌漑設備も整って

いない状況では、和平の実現にともなって周辺国から安価な農作物が流入するようになり、中

核産業の農業についても明るい見通しがたっていない。しかも、元兵士の中には、長年の軍隊

生活のために十分な教育も受けておらず、文盲率も高いため、アフガニスタンにおける再統合

のプロセスは前途多難である。和平プロセスの潜在的な抵抗勢力となりかねない元兵士(特に

元中堅司令官)たちの再統合プロセスが成果を挙げることができないと、治安の流動化および

社会全般の不安定化につながる恐れがある。これでは DDR を通じてアフガニスタン社会に構築しようとした平和の基盤が揺るぎかねないため、再統合はアフガニスタンにおける DDR にとって非常に重要な最終局面である。

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し、有力軍閥が群雄割拠する中で、権力を握っている軍閥の解体を意図したアフガニスタ

ンの DDRは、脆弱な勢力均衡の上に成り立っている暫定政権の基盤を崩しかねないため、

その後のアフガニスタンの権力関係の趨勢にも甚大な影響を及ぼす取り組みであった。そ

のため DDR は、軍閥間の勢力均衡を維持しつつ、各軍閥に不公平感を与えることがない

ように信頼醸成のプロセスとしても機能する必要があった。

第 2 点目の性格として、アフリカ諸国で実施されてきた DDR では国連のような中立的

な第三者機関が中心となって DDR が推進されたのであるが、アフガニスタンの場合は、

国防省がその任を担っていた。そのため、国防省が民族・派閥的に中立であるとみなされ

ることが DDR 実施の前提であると考えられた。ところが当初の国防省は、旧北部同盟の

「パンジシール派(部族的にはタジク人)」が枢要ポストを独占していたために、アフガニ

スタンの DDRでは、DDRの実施に先駆けて、まずは国防省改革に取り組んだ。

第 3点目の性格としては、武装解除の対象は移行政権下の旧国軍に限られていた点が挙

げられる。つまり、アフガニスタンにおける DDR は、いわばタリバン政権との戦闘に勝

った北部同盟(勝者)の「自発的」な武装解除であり、勝者が敗者に対して実施する強制

的な武装解除でもなければ、第三者が強力な軍事力を背景に紛争当事者双方に対して実施

する武装解除でもなかった。自発的とはいえ、もちろん和平プロセスに合意した北部同盟

のパンジシール派の中には、最後まで武装解除に抵抗していた勢力もあった。これらの抵

抗勢力に対して相当程度の圧力が国際社会からかけられたのであるが、明示的で直裁的な

軍事的制裁は用意されていなかった4。と同時に、アフガニスタンの DDRでは武装解除対

象の司令官や兵士にとっての明確な動機づけが欠如していた。底辺の兵士たちにとっては、

「R」(再統合)プログラムは、それなりに魅力ある動機づけとなり得たが、とりわけ中堅

以上の司令官たちに対しては、今まで享受してきた権力と比した際に、用意された経済的

見返りや政治的な見返りは必ずしも十分ではなかった。このような状況下で DDR を進め

なければならなかったことは、アフガニスタンにおける DDR の困難さを特徴づける点で

ある。

第 4点目の性格は、DDRを通じてアフガニスタンの全土に拡散している小型武器(小銃

など)の全回収を目的とはしていなかったことである5。この点については、DDR の実施

日程がボン合意で定められた政治日程と連動していたために、避けて通ることができない

4 もちろん、米国の大統領選挙を控え「テロとの戦い」に関して具体的な成果を必要としていたブッシュ政権にとって、アフガニスタンの大統領選挙を成功理に実施することは重視されて

おり、DDRに抵抗する軍閥に対する米国からの圧力は日増しに強まっていたことは想像に難くない。また、中央政府の方でも、抵抗する軍閥に対しては、大統領選挙や議会選挙への被選挙

権を剥奪するといった非軍事的な制裁措置を講じているが、未だに新国軍や警察の態勢が十分

に整っていない現状では、非合法武装集団を逮捕し強制的に武装解除する能力は、中央政府に

はない。 5 2003年 2月のアフガニスタン「平和の定着」東京会議において、DDRの全体計画と目標が発表されたが、そこにおいても小型武器の回収はアフガニスタンにおける DDR の主要目的には含まれていない。

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現実的な対応であったと言える6。小型武器の回収を主要な目的に掲げる DDRもある中で、

アフガニスタンにおける DDRを日本大使館のDDR班長として指揮した伊勢﨑賢治が指摘

するように、アフガニスタンでの DDR の力点は、すべての軍閥に、権力の誇示の源であ

る重火器を差し出させ、部隊を解体することであった7。アフガニスタンでは、兵士数以上

に小型武器が氾濫しているような状況下で DDR を進めていかなくてはならず、小型武器

の回収によって得られる治安回復の効果よりも、軍閥とその傘下の部隊の指揮系統を解体

することによって得られる政治的な効果のほうに力点が置かれたのである。同様の理由か

ら、アフガニスタンに依然として跋扈する非合法の武装集団に対する取り組みが先送りに

されたのであるが、この問題は、氾濫する小型武器の問題と合わせて、アフガニスタンに

残された治安上の懸念として、今後も継続して対応していくことが求められている8。

第 5 点目の性格は、第 3 点目と密接に関係している。アフガニスタンでは DDR を通じ

て、個々の司令官の権力基盤である軍事力を削ぐとともに、各軍団の指揮系統を分断し、

各将軍の個別の指揮下におかれた軍団の改編を進め、中央集権型の新国軍創設の基盤を整

備することが目指された。他国の事例においても DDR は国軍改革などと結びつき、相互

に調整が必要となることは、むしろ一般的なことであるが、ここで意識すべきことは、ア

フガニスタンの DDR は治安部門改革の中の重要な一部分として制度的に明確に位置づけ

られ説明されていた点である(図 1:治安部門改革相関図を参照)9。

3. アフガニスタンにおける DDRと日本の関与

国連(UNAMA)とともにアフガニスタンにおける DDRを主導することになった日本は、

様々な形でアフガニスタンの DDRに係ってきた。DDRの主導国という責務を果たすため

6 2001 年 12 月のボン合意では、暫定政権設立後 6 ヶ月以内に緊急ロヤ・ジルガを召集して移行政権を決定し、そこから 2 年以内に選挙を実施して民主的な正統政権の樹立を謳っており、自由で公正な選挙の実施のためには、少なくとも DDR のうち「DD」(武装解除と動員解除)が選挙前に完了している必要があった。実際に 2003年 10月の「DDRに関する大統領令」では、①武装・動員解除の完了は、公正な民主選挙の実施に不可欠であること、②武装・動員解除を

一年以内に完了させることが示されていた。伊勢﨑賢治『武装解除』(講談社現代新書、2004年)155頁。 7 伊勢﨑賢治「平和構築における直接的処方箋̶DDR」、内海成治編『アフガニスタン戦後復興支援』(昭和堂、2004年)、156頁。 8 公式には 2005年 6月末をもって DDRの「DD」が完了し、その対象であった旧国軍の武装解除は所期の目標を達成したと理解されている。他方、DIAG と呼ばれる非合法武装集団の解体の取り組みは、DDRの取り組みの対象外として取り残されていた武装集団に対する措置のことを指す。しかし、解体されたはずの旧国軍系の軍閥の中には完全に武装解除に応じていないも

のもあり、これらの武装集団も法的には非合法武装集団として分類できるが、政治的に微妙な

問題も抱えており、現時点では DIAGの対象として明示的に位置づけられてはいない。 9 ただし、アフガニスタンにおける DDRのように、明示的に DDRが治安部門改革の一部分として組み込まれることの妥当性については、他の事例との比較検討などを重ね、今後検証され

なければならないだろう。

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に、日本は構想の提示から政策調整や財政支援など幅広い取り組みをおこなった。2002年

5 月に和平プロセス、治安改善、人道・復興支援を三本柱とする「平和の定着」構想を携

えてアフガニスタンを訪問した川口順子外務大臣は、除隊兵士に対する職業訓練や雇用促

進などの社会復帰事業を行う「復員省」構想について言及した。また、駐アフガニスタン

大使として抜擢された駒野欽一は、外務省内における地域専門家でダリ語を自在に操るこ

とができただけではなく、外務省経済協力局に勤務した経験から ODA 政策についても明

るかった。何よりも彼は日本が DDR の主導国となったことを重く受け止め、大使として

の影響力を行使しながら精力的に現地有力者を回って DDR に応じるよう説得にあたった10。

国際協力機構(Japan International Cooperation Agency: JICA)の短期専門家制度を活用す

ることによって、伊勢﨑賢治を、2003年 4月より在アフガニスタン大使館に「DDR班長」

として配置したことも、その後の日本のプレゼンスの確立に影響を与えた。長い国際 NGO

勤務の後、東ティモールやシエラレオネにおける国連平和維持活動で県知事職や DDR 部

長を務めた経歴を持つ外部専門家を、大使館の要職に起用したことは、DDR実施方法策定

段階で、日本が政策的方向性を打ち出すことに寄与した。国防省改革を DDR 支援の条件

として国防省に圧力をかけたり、DDR国際監視団(International Observer Group: IOG)を

日本大使館内に設置して DDR の国際監視体制を作り出したりしたことは、伊勢﨑による

政策ビジョンがあればこそであった11。このように日本は政策調整の分野で、2003年 2月

のアフガニスタン「平和の定着」東京会議(DDR国際会議)の開催、現地日本大使館(大

使や DDR班など)による働きかけ、DDR運営委員会の実施、IOGの組織、司令官動機付

けプログラム(旧国軍の中堅司令官層に対する特別なプログラム)の実施など幅広い貢献

をしている。

他方、日本は DDR 主導国として責任を果たすために、ODA を通じた資金援助として、

DDRの実施機関である ANBPに対して約 9,100万ドル、除隊兵士の雇用促進支援として約

1,500 万ドルなどの無償資金協力を提供して、財政的にも DDR を支えてきた12。しかし軍

事目的の支援を禁じる ODA 大綱との関係上、ANBP への最大拠出国であったにもかかわ

らず、回収された武器が新国軍に再利用される可能性があるとの理由で、「武装解除」段階

への支援を行うことはできないという制約もあった。

また「R」実施部分については、草の根・人間の安全保障無償資金協力を通じた職業訓

練センターの建設や、JICAによる除隊兵士職業訓練指導員の養成などを実施する措置もと

った。アフガニスタンの平和構築支援全般に求められた援助実施のスピード性に応えるた

10 詳細は、駒野欽一『私のアフガニスタン:駐アフガニスタン日本大使の復興支援奮闘記』(明石書店、2005年)に詳しい。 11 2004年 3月末に伊勢﨑が離任した際に国際監視団業務は日本の NGOである日本地雷処理を支援する会(JMAS)に委託された。 12 ANBPに対する日本の拠出額は約9,169万ドルで全体の65.47%である。ANBP/UNDP, “DDR in Afghanistan: An Overview & Lesson Learnt”

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めに、JICAは既存の援助スキームの柔軟な運用で対処したが、ボン合意のスケジュールに

そって急速に進展する DDR プロセスに日本の既存の援助スキームを対応させていくこと

には困難が伴った13。

とはいえ、DDRは日本のアフガニスタン平和構築支援の中核として取り組まれてきたこ

とが伺われる。このように日本は、自らのアフガニスタン支援の指針である「平和の定着」

構想に基づき、和平プロセス、治安改善、人道・復興支援の三本柱で取り組むことになり、

その枠組みの中で DDRへの支援が実施された。

13 独立行政法人国際協力機構アフリカ・中近東・欧州部『アフガニスタン DDR 職業訓練分野プロジェクト形成調査報告書』(2003年 12月)、参照。

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第2節 政治的な流れとアフガニスタンにおける DDRの推移

本節では、アフガニスタンにおける DDR の推移を時系列的に整理する作業を試みる。

まずボン合意および関係諸国の協議の過程で、DDR の道筋が定められた経緯を振り返る。

次に、実際に DDR が本格的に開始されるまでのアフガニスタン国内の情勢を確認する。

さらに、DDRが公式に開始されてからの推移について整理する。

1. ボン合意の成立

2001 年 12 月 5 日にボン合意が成立し、アフガニスタンでは平和構築の政治プロセスの

道筋が定められた。平和構築の一つのプログラムである DDR は、このボン合意以降の政

治プロセス全体の流れの中で進められた。DDRが政治プロセスに影響されたということも、

逆に DDR が政治プロセスに影響を与えたということも、必ずしも適切ではないだろう。

DDR はあくまでもボン合意以降の政治プロセスを前提としたアフガニスタンの平和構築

の枠組みの中でのみ意味を持つものとして進められたのであり、両者は一体不可分のもの

でしかありえなかったからである。

2001年の 9.11以降に、米英軍と北部同盟による軍事作戦によってタリバン政権が崩壊し、

その後のボン合意によって 2001年 12月 22日にアフガニスタンに暫定政権が成立した。こ

のことによって初めて DDR は実施可能なプログラムとなったのである。そして政治プロ

セスが実際に動き出す段階においては、DDRはさらに具体的なプログラムとして実施準備

が進められていなければならなかった。なぜなら軍閥によって分散的に存在している武器

や軍事組織を解体することは、ボン合意が目指す中央政権を中心とする政治的安定に不可

欠であると想定されたからである。ただし、もちろん同様の事情は、新国軍創設や警察再

建といった他の治安部門改革の重要なプログラムについてもあてはまる。

こうした経緯があり、2002年 6月に緊急ロヤ・ジルガが開催されてカルザイ暫定政権議

長を大統領とする移行政権が成立する前に、主要な復興支援国が集まり、治安部門改革の

重点 5分野の主な担当が決められることになった。2002年 4月に開催された G8治安会合

によって治安部門改革の一部門として位置づけられた DDRは、日本と国連(UNAMA)が

主導していく体制が定められた。特に日本は主導国として、DDR実施にあたって最も主要

な役割を担っていくことになったのである。2002年 1月に東京で開催された「アフガニス

タン復興支援国際会議」においてホスト役を務めた日本は、2002年 5月には「平和の定着」

構想を発表し、和平プロセス、治安改善、人道・復興支援を三本柱とする支援を行ってい

くことを表明した。

しかし、こうした流れはむしろアフガニスタン国内における政治情勢の進展に対応する

ために進められたものであり、必ずしも国際社会の側が綿密な計画と周到な準備に基づい

て進めたものではなかった。したがって、治安部門改革に関与したいと考えていた日本が

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DDRの主導国となったものの、日本が DDR実施に必要な準備態勢をとっていたわけでは

なかった。特に ODA支援が有効に活用できると期待された「R」はともかくとして、「DD」

に関する部分について日本には確たる見通しがあったわけではなかった。こうした経緯に

より、他の地域で DDR 実施の経験を持つ国連、特に国連開発計画(United Nations

Development Programme: UNDP)の関与も重要なものとして認識されることになったので

ある。

国際社会の側の DDR実施に関する責任体制が決められた後も、DDRは、政治プロセス

の重要な進展の段階に対応して、新しい展開を見せていくことになる。その後の 2004 年

11月には、カルザイ議長が選挙を通じて正統政府の大統領に選任された。この大統領選挙

および 2005年 9月 18日に実施された議会選挙は、政治プロセスの山場であり、DDRにと

っても転換点となったことは、特に重要な点である。

2. DDR準備段階におけるアフガニスタン情勢

国際社会の側の DDR 実施責任体制が決まっても、アフガニスタン国内での実施体制が

整えられるまでは、DDR は開始することができない。2002 年 6 月の移行政権成立によっ

て、大きな意味での現地社会の実施主体が生まれたことになったが、さらに具体的に DDR

を実施していく体制を定めなければならなかった。例えば、カルザイ暫定大統領は、2002

年 12月 1日に DDRの実施に関する「アフガニスタン国防軍に関する大統領令」を宣言し、

これを法的根拠として、DDRに関する委員会を設置し、旧北部同盟に属する軍閥の解体と

新国軍の創設の作業をスタートさせた14。

他方、日本も 2003年 2月に「アフガニスタン『平和の定着』東京会議」を開催し、アフ

ガニスタン政府側に DDR 実施体制の確立を促す努力をおこなった。この東京会議におい

て、「アフガニスタン新生計画(ANBP)」という政府機関を新設し、あくまでもアフガニ

スタン政府が主体となって DDRを実施することが決められた。さらに日本の 3,500万ドル

を含む 5,000 万ドルが、DDR に対する支援として、各国からプレッジされた。また DDR

の実施期限が定められ、より明確な形で政治プロセスと連動して DDR を進める計画が策

定された。ただし「公正な民主選挙の実施に不可欠である」とされた武装・動員解除を、

「一年以内に完了させる」という東京会議における大統領声明に盛り込まれた実施計画は、

後述するように、実際には大幅にずれこむことになった。

ANBPは 2003年 7月にアフガニスタンの首都カブールに本部を開設した。形式的には独

立した DDR実施機関として誕生したが、実際のところ DDRはアフガニスタン国防省を担

当官庁として進められたため、ANBP と国防省との関係は密接であった。また現地政府機

14 当時、アフガニスタンにおける DDRを進める日本政府担当者であった伊勢﨑賢治 DDR班長は、武装解除と動員解除の締め切りを設ける大統領令を作成するようにロビー活動をおこなっ

た。伊勢﨑、『武装解除』、154-155頁。

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関としての形態がとられたが、勤務する職員の多数は UNDPなどの国際機関職員や、主要

な支援国出身であり、活動資金も全面的に国際社会からの支援に頼っていたため、ANBP

はさながらアフガン政府内に作られた国際機関であるような様相を呈した。

しかし ANBP が作られても DDR は開始されなかった。国内政治情勢が成熟しなかった

ことが理由だが、そもそも DDR 実施計画策定の大前提となる対象兵士数の算出さえもま

とまらなかったことは、準備段階での困難さを物語る。DDRの恩恵を最大限に享受しよう

とする国内の軍閥勢力は、兵士数を水増しして申告した。そのため国際社会の側が試算す

る兵士数と申告数の間に大きな差が生じ、調整が必要になったのである。ガーニ財務大臣

は支援国とともに、対象兵士数は 5万人程度に過ぎないと主張した。これに対してファヒ

ム国防大臣は 70~80万人はいると主張した。結局、2003年 2月の東京会議の時点までに、

国際社会とアフガニスタン政府の調整のもと DDR 対象兵士数は 10 万名と決められた15。

実際には、対象兵士の多くは 9.11以降に自発的に武器を手放して市民生活に戻ったと推測

され、実際の対象兵士数としては 4~6万名が試算されていた。

また DDR 開始を阻害した要因の一つとして、北部同盟の「パンジシール派」が枢要ポ

ストを独占している国防省の中立性に対する疑念もあった16。タリバン政権崩壊後に米国

の後押しによって登場した移行政権のカルザイ大統領は、独自のイニシアチブによって

大々的な国防省改革を行うための権力基盤を持っていなかった。そこで DDR 主導国であ

る日本を中心とする支援国が、新国軍創設の主導国である米国と協力し、国防省改革に向

けて圧力を加えることになった。その結果として、2003 年 9 月に国防次官などの 22 の重

要ポストの入れ替えが実施されることになった。この改革は国防省への信頼性を確保する

ために必ずしも十分な措置だとは言えなかったが、DDR開始への重要なステップがとられ

たとの認識を作り出すことには貢献した。

こうして 2003年 10月に DDRに関する大統領令が布告され、DDR実施にあたっての規

定が定められることになった。また 10月からは試行段階が実施されることになった。この

試行段階は翌 2004年 3月末まで続き、クンドゥス、ガルデス、マザリシャリフ(およびシ

ュベルガン)、カブール、カンダハールにて、6,271名が先行的に武装解除・動員解除され

た。試行段階の DDR は必ずしも芳しい成果をあげたとは言えないが、いくつかの教訓を

見せながら、本格段階へと進むための道筋をつけた。教訓の一つは、武装解除と動員解除

に応じた兵士に支給した一時手当金が、司令官の手に渡ってしまう事例が頻発したことで

あった。長年の戦争で指揮命令系統が強固になっているアフガニスタンにおいては、個々

の兵士が手当を自由にすることには困難があった。こうした事情があり、試行段階中に一

15 駒野、前掲書、102 頁。なお 2002 年末に実施された UNAMA による非公式調査では対象兵士数は 9万 7000名程度と試算されており、10万名という数字は、この試算に基づいている。 16 この認識は、主導国である日本の在アフガニスタン大使館で「DDR 班長」として勤務した伊勢﨑賢治が強調したものであった。伊勢﨑によれば、日本政府は、国防省改革を、DDR関連部門を中心とする ODA実施の条件として圧力を加えた。伊勢﨑、『武装解除』、171-173頁。

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時手当金の支給は中止された17。

2004 年 3 月にベルリンで第二回アフガニスタン復興会議が開催されたが、DDR 開始の

遅れを反映して、前年の東京会議で表明された内容が微妙に修正された。東京会議では、

DDR は選挙前に完了するとされたが、ベルリン会議においては、「100 パーセントの重火

器の引き離しと中央政府による集中管理」および「少なくとも 40パーセントの兵力の武装

解除・動員解除」が、DDRの目標として大統領声明の中で宣言された。「10万人」の兵士

の DDR の「完了」という治安面から見た理想的な目標を、政治プロセスを進展させるた

めの信頼醸成を引き出すという現実的な目的にそって、選挙前に達成しうる具体的かつ現

実的なものに変更したのである。結果としてこの措置は、政治プロセス全体と DDR の公

式プロセス双方の進展にとって、効果的な意義を持った。

3. DDR本格実施段階

DDRの本格段階は、試行段階の終了にともなって 2004年 3月に布告された大統領令に

よって権威づけられた。この大統領令では、大統領・議会選挙までに 4万人の武装・動員

解除と 100パーセントの重火器集中管理を実施することが定められた。第一段階としては、

2004年 5月から 7月までの期間に、合計 8,551名が武装解除・動員解除された。大統領選

挙と議会選挙の分割実施の発表を受けて、10月 9日の大統領選挙を目標に開始された第二

段階では、2004年 7月から大統領選挙が行われた 10月までの期間で、5,681名が対象とな

った。試行段階から合計して約 2万人がこの時期までに武装・動員解除されたことになる

が、10 万人という対象者総数に対してこの時期までの DDR の進展は必ずしも芳しいもの

ではなかった。しかし大統領選挙実施までの時期に、いくつかの重要な政治情勢の進展が

見られた。

第一に、DDRに応じない者が大統領候補となることを認めない措置がとられたことによ

り、公示前に DDR への積極的な協力を表明する軍閥が相次いだ。結果として象徴的な形

で、相対していたマザリシャリフのアタ将軍配下の旧国軍第 7軍団およびシュベルガンの

ドスタム将軍配下の旧国軍第 8軍団が解体されていくことになった。また 2004年 8月に、

地方主要都市であるヘラートで独立国を形成するかのような権力基盤を誇っていたイスマ

イル・ハーン知事の勢力が、小規模の軍事集団による合同攻撃を受けて敗走するという事

件が起きたことも、DDR進展への流れを作った18。これに先立って 7月には、カルザイ大

統領が副大統領候補としてファヒム国防大臣を指名せず、公示直前になって別の人物を副

大統領候補として指名するという事件が起きていた。ファヒム国防大臣は DDR を促進す

る立場にありながら、実際には真剣には取り組まず、国際社会から問題視されていた軍閥

17 駒野、前掲書、124頁。 18 この軍事情勢の転換が、自然発生的に起こったものなのか、政治プロセスの進展を待ち望む国などの支援が背景にあるものなのかどうかは、不明である。

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リーダーの一人であった。またカルザイ大統領は、選挙直前の 2004年 9月に DDR加速化

のための大統領令を出し、DDR実施を重要課題として選挙に臨む姿勢を明確にしたのであ

る。そのカルザイ大統領が大統領選挙において決選投票を待つことなく当選したことは、

DDR進展への大きな流れを作り出した。

こうした動きを受けて、試行段階の 6,200人を加えて、大統領選挙までに 21,700人が武

装・動員解除されるにいたった。大統領選挙直前の時期には、月に約 4,000 人のペースで

DDRが進められた。また 194の部隊のうち 70の部隊が解体された。重火器集積計画(Heavy

Weapons Cantonment: HWC)についても、約 5,000両/門と見られた使用可能な戦車や大砲

などの 3分の 2が新国軍の監視下におかれた19。

その後 DDRは 2004年 10月から 2005年 3月までの第三段階において、急速な進展を見

せる。そして 2005年 3月から 6月までの第四段階終了によって、「DD」段階の完了が宣言

されるまでに至る。2005年 7月 7日に武装解除完了式が行われたが、この時期までに武装

解除された旧国軍兵士数は 63,380名、そのうち動員解除された者は 62,044名(ANBPによ

れば、このうち 654名に関しては国軍の正規兵でなく非合法武装集団に属することが判明

し、再統合プログラムの対象から除外された)、さらに再統合プロセスに参加した者は

60,640名であり、回収された小型武器数は 36,571個(重火器については 11,004個)、解体

された部隊数は約 200部隊が具体的な成果として挙げられる。

ただし、これ以降にも「R」に関するプログラムは継続して実施されている。「R」段階

の終了は、2006年 6月が予定されているが、これによって ANBPも解散する予定である。

その後は「DD」に関連する残された課題である非合法武装集団の解体(Disbandment of

Illegal Armed Groups: DIAG)や余剰弾薬の処理は、国防省や内務省が担当することが検討

されており、日本は「フォーカル・ポイント」として関与していく方針である20。「R」に

関しては、関係省庁のイニシアチブのもと、専門的な国際機関や支援国政府が、社会経済

開発の一環として引き続き対応していくことになるだろう。

なお試行段階において DDR の進展を現場で見守る監視業務は、日本のアフガニスタン

大使館が担当した。しかし本格段階の開始にあわせて、組織的に大使館から離れた中立機

関として国際監視団(IOG)が作られることになった。この国際監視団は、UNDP 経由の

日本からの資金によって、日本の NGO である「日本地雷処理を支援する会(JMAS)」に

業務委託された。JMASは退官した自衛官が中心になった NGOであるが、第三者の立場か

ら監視にあたった。IOG には、JMAS の他に、UNAMA 軍事顧問団、ドイツ、トルコ、カ

ンボジアからの退役軍人や予備役の軍人が職員として参加し、DDR の「DD」段階の終了

まで活動した。

19 駒野、前掲書、135-136頁。 20 ただし、DIAGと弾薬処理に ANBPが 2007年まで関与することも検討されており、その場合には、ANBPは解散ではなく縮小といった対応になるだろう。

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第 3節 アフガニスタンにおける DDRの 4つの関連要素

本節では、DDRの関連要素である、和平合意、治安部門、ガバナンス制度、長期的社会

復帰の 4 点に着目することによって、アフガニスタンの DDR を多角的に分析することを

試みる。こうした作業は、アフガニスタンにおける DDR が多様な要素と結びついて進展

してきたことを把握するための手がかりとなるだろう。

1. ボン合意と DDR

アフガニスタンにおいて 2001年 10月に米英軍を中心とした有志連合によって始められ

た「不朽の自由作戦」は、アルカイダに対する「テロとの戦い」と、アルカイダを支援し

つつアフガニスタンを実効支配するタリバン政権の崩壊を目指していた。その一方で、タ

リバン政権崩壊後の国際社会の対応は、国連による呼びかけを通じて北部同盟各派の間で

「ボン合意」を 2001年 12月に結ばせることで始まった。このタイミングでの合意形成は、

ボンに参集した北部同盟の傘下の組織間によるものであり、タリバン対北部同盟という国

内紛争の文脈では、その勝者による秩序の提供という特徴があった。そして、この事実は

アフガニスタンにおける DDRの基本的性格を形成するものであったと言える。

実は、ボン合意には、「DDR」の文字はない。ただし、ボン合意の添付文書には、参加

各派が、アフガニスタン国内の治安および法と秩序を提供し、新国軍の創設に向けた支援

を行う一方、国連のマンデートに基づきカブールおよびその周辺地域に展開する国際治安

維持軍(International Security Assistance Force: ISAF)を容認し、カブールなど主要都市部か

らの自らの部隊の撤退を行う旨を約束している。また、ボン会合の参加者からの「国連への

要請」として、ムジャヒディーンの新国軍への「再統合」を同文書に掲げている。こうした

構造は、合意形成の主体による国内統治上の影響力が限られていることを反映して形成さ

れたが、どの柱も DDRの実施にとって不可欠であった。

ボン合意がアフガニスタンの DDR に対して持った意味は、その実施にあたっての法的

根拠の基盤を提供したことにある。ボン合意に始まる秩序形成の枠組みがあったからこそ、

DDRに対する国際社会の支援も相当程度に効果的に集まったのである。また DDRの促進

を指示したいくつかの大統領令は、それぞれが DDR の国内的な法的基盤を形成したとは

言え、結局はボン合意が作り出した移行政権の正当性と権威によって裏づけられたもので

あった。ただし逆に言えば、ボン合意を形成した勢力を合法的 DDR の枠組みに入れるこ

とを前提とし、それ以外の勢力を非合法化して DDR の対象外としてしまったことで、ア

フガニスタンにおける DDRの限界をボン合意が作り出したと考えることもできる。

2. 治安部門と DDR

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治安の改善はアフガニスタンにおける平和構築の最大の焦点であり、DDRの実施が治安

の安定化に対する問題関心によって大きく影響されたことは当然であろう。ボン合意によ

り定められた秩序形成のあり方では、DDRは治安部門改革の他の領域と密接な連携や調整

を図ることが求められた。軍閥が武装解除されることにより生じる「力の空白」を埋める

ため、また合法的で正当な治安維持機構の確立のために新国軍(正規軍)の創設と国家警

察の再建は、DDRと密接に連動して進められてきた。また、軍閥の資金源である麻薬取引

への厳しい対処は、軍閥の弱体化を進め DDRにも寄与する。また、DDRを通じて「銃に

よる支配」を廃し、代わりに「法による支配」を確立する上でも、司法改革(法整備)は

重要であった。DDRを実施するにあたり、軍閥による戦争犯罪にどのように対応するのか

についても指針を定め実効態勢を形成してく必要も、司法改革との関連で想定されていた。

実際に DDR は、治安部門改革の中核に位置するとともに、実施開始時期などの点から

も、他の領域が本格的に始動するために必要な前提措置としての性格も帯びていた。DDR

を通じて解体される旧国軍に取って代わる治安維持機構として新国軍の創設と警察再建が

あり、新しい治安維持機構が整備されて初めて本格的な麻薬対策に臨むことが可能になる。

他方、DDRを通じて武装集団の非合法化に向けた環境を整備し、司法改革を前進させるこ

とで、新しく設立された合法的な治安維持機構が非合法武装集団や犯罪組織を取り締まる

法的根拠を提供する。

しかしながら、DDRが始動可能となるためには、ある程度の治安の安定化が不可欠であ

った。ボン合意により定められた治安の安定化の道筋は、旧北部同盟のカブールからの撤

退と ISAFの展開によってもたらされることになっていた。ところが、DDRが実施されて

からもボン合意が無視される事態は相次いだ。カブール市内において旧国軍は駐留し続け、

治安維持を任務にしていた ISAFの効果が十分発揮されないままであった21。

実際には、「テロとの戦い」を継続中の米軍を中心とした有志連合の軍事プレゼンスが、

米国が新国軍創設の主導国となったという事実とあわせて、DDRに影響を与えた大きな要

素であった。なぜなら DDR の対象となった旧国軍勢力に対して、軍事力を背景にした圧

力を加えうるのが、こうした米国を中心とする欧米諸国だけだったからである。また DDR

にともなって発生することが危惧された「力の空白」を埋める勢力として期待できたのも、

基盤の弱いアフガニスタンの新国軍・警察以外には、こうした米国を中心とする勢力だけ

だったからである。DDRは中央集権化によるアフガニスタン国家の安定化に寄与すること

を目指したが、実際には親米的立場をとるカルザイ政権の基盤を強化するという配慮に基

21 伊勢﨑、「平和構築」、159頁。実際のところ、ボン合意によって 2004年に予定されていた選挙の間際になっても、例えば、暫定政権当時のファヒム国防大臣の息のかかった軍閥兵士たち

が武装解除を終えないままカブール市内を闊歩する状況にあったと言われ、武装解除が終了し

た段階になった現在でも有力者たちの中には私兵を抱えている者がいるとされる。2005 年 10月に議会選挙を終え、12月に議会が発足して、政治プロセスも最終局面を迎えた現状においても、カブールでは、ISAFの独軍が非合法な武装勢力に攻撃を受ける事件も発生しており、治安が完全に安定化したとは言えない。

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づいて、進められたのである。その構図は、「テロとの戦い」が継続するアフガニスタンに

おいて治安を安定化させるという大きな必要性の中で、承認されていった。

3. ガバナンス制度と DDR

ボン合意に基づくアフガニスタン国内のガバナンスのあり方は、タリバン政権に対抗す

る形で結束してきた北部同盟側の勝利に基づいて再形成された。そのため、新たに形成さ

れるガバナンス制度の担い手には、「軍閥解体」と「民主化プロセス」を適正に踏むことを

条件として参画する旧北部同盟の軍閥トップたちが中心となることが予想された。

こうした状況の中、アフガニスタンの DDR は、中央政府のガバナンス機構改革と密接

不可分のものとして実施された。アフガニスタンにおけるガバナンス制度の構築は、DDR

を行うための制度作りから始められた。大統領令に基づく DDR に関する委員会(2003 年

1 月、ANBP の一部として、武装解除委員会、動員解除・再統合[D&R]委員会のほか、

士官徴募委員会、兵士徴募委員会の関連 4委員会が発足)が、DDRの推進に向けた機能を

備えた組織として期待された。

ガバナンス制度の改革は、単に形式的なガバナンス機構改革にとどまるものではない。

特定の勢力による政府機関の独占などの平和構築の障害を取り除くことも、重要課題であ

る。DDRについて言えば、国防省改革を通じて、国防省におけるファヒム国防大臣以下の

タジク人勢力の寡占状態を正すことが極めて重要であった。そのためカルザイ大統領がフ

ァヒム国防大臣を副大統領候補に指名しないと決断したことが、その後 DDR が大きな進

展を見せる一連の流れの契機となった22。

ただし、ガバナンス制度の改革が本当に長期的な平和の構築につながるのかどうかにつ

いては、慎重な検討が必要である。それは、戦後のガバナンス制度の構築において勝者の

論理が大きく反映された秩序の仕組みが植えつけられることと関係している23。アフガニ

スタンにおいても「テロとの戦い」を始めた欧米的な民主主義と自由経済主義に基づく権

力秩序観を背景にして、現地の権威であるロヤ・ジルガを持ち出したことは当然の成り行

きであり、かつ妥協の産物でもあった。こうした道筋の中で実施に移された大統領選挙や

22 失脚を言い渡されたファヒム国防大臣は、その後、表向きに DDR を推進していることを印象づけようとしたが具体的措置を取ったわけではなかった。むしろ新たに国防省で実権を握っ

たワルダック国防次官が国際社会の圧力を受け、また DDR で成果を出すことで国防大臣に就任できることを見越して DDR 推進を図った要素が強い。また、カルザイ大統領が結果としてファヒム国防大臣を副大統領候補から外すことができた背景には、少なくとも、その時点での

暫定政権という制度と、この制度を担保しようとする国際社会による政治的意思があった。駒

野欽一によれば、当時 DDRに消極的であったイスマイル・ハーン知事が 2004年 8月に他の国内軍事組織から攻撃され失脚したことを挙げ、こちらも DDR の促進要因として重要であったと振り返っている(駒野、前掲書、132-135頁)。 23 G・ジョン・アイケンベリー(鈴木康雄訳)『アフター・ヴィクトリー:戦後構築の論理と行動』(NTT出版、2004年)。

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議会選挙は、ガバナンス強化にとって重要な節目であったことは疑いの余地はない。その

実施条件の一つとして、治安上の意義と重なって、DDR(特に DDの部分)を選挙に先行

して完了することの重要性が広く認識されていた点からも、ガバナンス制度と DDR との

関連づけがうかがえる。しかし、このような方向でのガバナンス制度の構築がアフガニス

タンの長期的な平和に資するものであったのかどうかについて、疑問の余地がないとは言

い切れない。外国勢力の力に依存したガバナンス制度の改革と、その枠組みを前提とした

DDRの進展を、長期的な平和の構築につなげていくためには、さらに一層の現地社会自身

によるガバナンス能力の向上が必要になるだろう。

今後は、ロヤ・ジルガと民主化プロセスを経て新たに構築されたガバナンス制度の枠組

みが、国内に居座る「非合法武装集団」を含む「アフガニスタン国民」をどう取り込んで

いくかが焦点となる。今後はより現地社会に根づいたガバナンス制度の構築の中で、DDR

が目的とした社会的安定を達成していかなければならないのである。

4. 長期的社会復帰と DDR

アフガニスタンにおいて DDR を終えた元兵士には、新国軍や警察へ編入される者もい

れば、帰農する者、職業訓練を受ける者、小規模起業支援を受ける者、地雷除去の技術を

習得する者などもおり、その再統合先は多様であった。その中でも、職業訓練や支援を受

けて帰農したり起業したりする元兵士の再統合を中心に考える場合には、DDRの成功にと

って経済社会開発の分野における問題解決が不可欠である。つまり、DDRを終えた元兵士

たちが一般社会に復帰できるように産業を興して彼らの雇用先を確保することが大切であ

る。

厳しい自然環境の中で、ケシ栽培以上に利潤を生むような農産物にも恵まれず、元兵士

たちの識字率も低かったアフガニスタンでは、「R」の部分への対応に苦心した。DDR に

関連して、経済社会開発への取り組みも並行して積極的に行われた。ANBPを通じた DDR

委員会には動員解除・再統合(D&R)委員会も武装解除委員会とは別に設置され、D&R

委員会では、雇用促進プログラムとの連携など、元兵士たちの地域社会への復帰について

中心的に取り組んだ。

2006年 1月時点で既に社会復帰を終えている除隊兵士の 50%が農業支援(帰農)を選択

し、以下 25%が職業訓練(機械工、大工、縫製職人、溶接工など)、15%が小規模起業支

援プログラムに進んでいる。新国軍創設を担当する米国が定めた入隊審査基準が厳しいと

いう理由もあるが、新国軍・警察の選択は 4%未満にとどまっている24。つまり、除隊兵士

の大部分は市民社会への復帰を果たさなくてはならなかったのであり、アフガニスタンの

DDRでは「R」への対応が非常に重要であったことが分かる。しかしながら、「R」への対

24 ANBP, ANBP Weekly Report (10 January 2006), <http://www.undpanbp.org>.

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応と言う場合に、職業訓練などの支援策の提供をもって「R」を完了したとするのか、そ

れとも「R」支援策を終了した元兵士たちの雇用確保と定着までも視野に入れるのかでは、

その取り組み方や投入される資源にも大きな隔たりがあるにもかかわらず、いずれのアプ

ローチを選択するのかについて、当事者の間で合意がなされたわけではなかった。

この理由には、「R」の定義を曖昧にしておくことで、兵士たちの「DD」後の待遇に対

する期待値を高め「DD」を促したいとする思惑があったと言いえる。ところが、「R」に

対する動機づけが武装解除や動員解除の「てこ」にならない場合も多々ある。アフガニス

タンの DDR では、国連が小規模の限定的関与(ライト・フットプリント・アプローチ)

を選択していたがゆえに、「DD」を実施する前に「R」を展開するという案も当初は検討

されたが、アフガニスタンの場合には群雄割拠していた軍閥にとって「R」が武装解除の

動機づけとしては働かないことが危惧され、2003年 2月のアフガニスタン「平和の定着」

東京会議において「大統領声明」の中でそうした DDRの進め方は修正された25。

概念として考えれば「DDR」の三局面は、それぞれが不可分のものとして理解すること

ができる。しかしながら、アフガニスタンに限らず DDRを実践する際には、「DD」と「R」

の実施期間に一定の時間のずれが生じることが想定され計画されるのが通常である。アフ

ガニスタンの場合でも、2005 年 6 月に「DD」を終了した上で、2006 年 6 月までに「R」

までを完了するように大枠が定められた。このように、「DD」の実施と「R」の実施に時

間的なずれが生じる大きな理由としては、経済社会開発の作業が中長期的な性質であるこ

とを反映している点が挙げられる。しかし、「DD」実施と「R」の間が空くと除隊兵士が

無職状態になり不満が高まることから、「DD」段階と「R」段階との隙間を埋める政策と

実施体制を整える必要がある。

アフガニスタンでは、DDR 政策としての「DD」が終了した現在でも、非合法な武装集

団が散発的に ISAF や新国軍に対する攻撃を加えている。こうした点は、例えばカンダハ

ールにおける幹線道路建設が、治安の悪化のため中断しているように復興プロセスを停滞

させる。中央政権への求心力が低下し、社会が混乱すれば、復興や産業振興は停滞し、市

民社会に復帰した元兵士は職を失い、治安は一段と悪化するだろう。したがって、現在進

められている「R」を発展的に受け継いで総合的な開発援助へとつなげていく経済社会開

発の一層の拡充が求められている。

25 伊勢﨑、『武装解除』154-155頁。

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第 4節 アフガニスタンにおける DDRの成果と課題

1. 和平プロセスの観点から

アフガニスタンの和平プロセスおける DDRの成果として、DDRが和平プロセスを促進

する役割を担ったことが挙げられる。それは、アフガニスタン復興支援の三本柱であった

「和平プロセス、治安改善、人道・復興支援」のうち、治安部門改革の一部であった DDR

を進展させるプロセスが、中央政権の基盤強化と連動した結果もたらされた。通常 DDR

の実施には、主要な派閥勢力の支持を受けた包括的な和平合意が不可欠とされている。し

かし、タリバンやヘクマティアールといった勢力の参加を欠いたボン合意は、全主要軍閥

からの支持を受けているとは言い難く、したがって、ボン合意に基づく和平プロセスも部

分的であり脆弱なものであった。

このような厳しい状況にもかかわらず、日本・UNAMAを始めとする国際社会が連携し

DDR 促進への働きかけをおこなったことが、2004 年 10 月の大統領選挙前後の DDR 進展

につながったと言えよう。さらには、2004年 7月以降に起こったアフガン政府内の権力構

造および軍閥構造の大きな変化は DDRの促進に寄与した26。この一連の流れが、それまで

DDR や和平プロセスそのものの進展に懐疑的だった軍閥関係者のみならずアフガン国民

全体に対してアフガニスタンが和平・復興プロセスに向けて実際に大きく動いているとの

印象を与えることに貢献した。大統領選挙前後における DDR の急速な進展は、ボン合意

に基づく政治プロセスの進展が、DDRに好影響を与えた例である。しかし DDRが進展す

ると、今度は政治プロセスの方が、DDR によって促進されるという現象も生まれてくる。

DDRの進展と政治プロセスの進展は、相互に影響し合いながら、和平プロセス全体の進展

に寄与したのである。

ボン合意後もカルザイ政権は首都カブールで限られた指導力を保っていたに過ぎなかっ

た。もともと全国展開する国連平和維持軍もいなければ、ISAFもカブールなどの限られた

地域に展開するのみであり、DDRの実施に反対する抵抗勢力に対する中立的な抑止力が軍

閥の影響力が強い地方において不在であった。このような深刻な問題を抱えつつも、アフ

ガニスタンにおいて DDR が一定の成果を上げたことで、包括的な和平合意や国連平和維

持軍を欠いた状態では DDRの実施は不可能とされていた既成概念とは違った形での DDR

実施の可能性を示すこととなった。

2. 治安部門改革の観点から

26 この変化に関しては既に本稿の中で言及されているが、具体的には DDR の実施を統括する立場にあると同時に最大の抵抗勢力であったファヒム国防大臣の事実上更迭、中央政府から独

立した自治を築き DDR に応じる気配を見せなかったヘラート知事イスマイル・ハーンの失脚などのことを指す。

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アフガニスタン治安部門支援においては、DDR のみで治安の回復を目指すのではなく、

DDRを含めた治安部門改革の主要 5分野が連携し、それぞれの治安部門改革を進めていく

ことが全般的な治安回復につながるとの考えから、DDRの実施目標の一つに他の治安部門

改革との連動が挙げられていた。DDRは開始から 3年間で完了することが想定され(武装・

動員解除 1年間、再統合 3年間)、治安部門改革主要 5分野の中では時系列的に最初に終了

することが当初より想定されていた。くわえて、DDRの失敗が他の治安部門の進展に最も

大きく影響するとの共通認識があったため、DDRと他の治安部門改革主導国や担当官庁と

の政策調整は比較的密接になされたと言える。

新国軍創設や警察再建との関連で言えば、当初は武装・動員解除された旧国軍司令官・

兵士のうち一定数は新国軍または警察に編入することが想定されていた。しかし、一定以

上の規律・技術水準を持つ新国軍や警察の創設を目指す米国やドイツの定める入隊基準を

年齢・技術的(識字等)に満たす者は少なく、結果として除隊兵士の大半が職業訓練や農

業支援などの社会復帰プログラムを選択することになった。ただし、一般からの応募者も

適格者が少なく、十分な人数を確保することが難しくなったため、2004年後半に米国、ド

イツ、国防省、内務省、連合軍との間で調整が進み、新国軍・警察に一定数の除隊兵士を

編入する大枠の同意が結ばれている。

一方、新国軍や警察が DDR後に生じる「力の空白」に対処することで DDRを補完する

ことが想定されたが、新国軍や警察の育成には時間がかかり、新部隊の育成速度が旧部隊

の解体速度に追いつかず、アフガン全土の「力の空白」が想定される地域への代替治安要

員の派遣は困難であった。他方、南部や西部のタリバンの脅威が顕著な地域には、新国軍

や警察の部隊を優先的に派遣する調整がなされ、大隊規模での新国軍の派遣が実行された。

また、軍事面での抑止力やその兵力規模は限られながらも、地方復興支援チーム(Provincial

Reconstruction Teams: PRTs)のプレゼンスが「力の空白」に対する地域の懸念を抑える効

果もあった。

また、イタリアが担当した司法制度改革については、DDRとの関連で表立った議論がな

されることはなかった。それは、2005年に入りようやく「移行期正義(Transitional Justice)」

の議論が行われ始めたためでもあるが、同時に武装解除の実施段階において戦争犯罪につ

いて議論することは、ただでさえ困難であった軍閥や司令官との交渉を頓挫させるとして、

意図的に忌避されていたからである。だが、その結果として、本来司法で裁かれる行為を

犯した可能性のある軍閥や司令官に恩恵を与える DDR がアフガン社会の一般市民との不

公平感を助長した側面があることは否定できない。

英国が担当する麻薬対策は 2005 年に入りようやく大々的な取り組みが開始されること

になった。そのため DDR の対象となる軍閥の権力基盤の資金源となるケシ栽培・麻薬製

造・密輸の解消による DDR 実施への側面支援効果は具体的には表れていない(ただし、

後述する DIAGにおいては、対象武装集団の選定優先度の基準に麻薬との関連を含めるな

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どの改善が見られる)。一方、DDR 対象者のうち薬物中毒の兵士がいた場合、薬物中毒の

更生施設にて適切な処置を受け、ある程度回復してから社会復帰事業に参加するべきとの

観点から、対象者がいた場合は所定の更生施設に除隊兵士を送る措置について国連薬物犯

罪事務所(United Nations Office for Drug Control and Crime Prevention: UNODC)と英国の間

で調整が行われたが、実際には対象者はほとんどいなかった。

このようにアフガニスタンにおける治安部門改革の 5分野は相互に密接に連関しており、

特に DDRはその他の 4分野と重要な結びつきを持っていた。DDRの進展が、他の各分野

に好影響を与えたことも確かであろう。ただし、それぞれの分野の担当省庁および主導国

間の調整が万全であったとは評価できない。もちろん、そもそも治安部門改革の 5分野の

相互連関性は自明であるとしても、DDRは DDRとして、独自の事情によって進展してい

くのであって、分野間の政策調整に限界があったことは否めない。

3. ガバナンスの観点から

暫定政権下のアフガニスタンでは、政府の主要閣僚ポストおよび主要官庁は北部同盟か

ら発するタジク派によって占拠されているとの不満が他民族・派閥から上がっていた。そ

のため DDR 実施の前提としてタジク派によりほぼ独占されていた国防省の改革を掲げ、

2003 年 9 月の国防省上位 22 役職を一定の民族バランスを保った人事とする大統領令発布

に至ったことは重要だったと言える。中立的に見て理想的な人事改革とは言えないとの声

もあった一方で、アフガニスタンのタジク人中心の権力構造改革に初めて着手する契機と

なったことは、DDRがアフガニスタンのガバナンスの適正化を促進する要素として機能し

たことを意味する。つまり国防省改革は、その後の DDR の進展の分水嶺となった事件で

あっただけではなく、DDRがアフガニスタンのガバナンスの改革を促したことの事例とし

ても、評価されるべきなのである。また、DDR実施以前は中央政府から各軍団長に恣意的

に振り分けられていた旧国軍兵士の給与を、DDRにより部隊が解体されるのと合わせ削減

していくシステムを作ったことで、不明瞭な国家予算支出が一程度抑えられたことも、

DDRがガバナンス制度に与えた好影響の一例として考えることができる。

また、DDRは当初は大統領・議会選挙の公正な実施に圧力を与える恐れのある軍閥構造

の解体および指揮系統の破壊を目指していたが、現実には選挙出馬や政党の形成を通じた

勢力拡大に野心をもつ軍閥に対し、DDRへの協力を政党登録の前提条件とする制約を設け

るなど、選挙実施プロセスが DDR 促進に貢献した側面が大きかった。逆に言えば、DDR

の進展が、アフガニスタンの政治プロセスの非軍事化に貢献したと評することができる。

ただし、DDR以前から軍閥の司令官であると同時に知事や警察署長などの公職に就いて

いる者、また DDR 以降に公職に就いた者が多数いるが、彼らが自分たちの警護要員とし

て独自に武装勢力を保持し続けている問題もあり、DDRが果たした役割に限界があったこ

とも確かである。

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4. 長期的社会復帰の観点から

公式発表によれば、DDRを通じて所期の目標数の武装解除をおこない、その最大の目的

とされた旧国軍の解体を完了したとされている。ところが、DDRによって形式の上では部

隊は解体され、公式に解体済みと認定された部隊の中には、一部の小型武器や重火器を隠

し持ち、中心的役割を担う将兵を保持し続けている集団もあり、DDRが実質的に軍閥構造

の中枢にまで踏み込むには至らなかった事例も少なくない。また、各部隊から提出された

兵員リストを元に、武装解除前に参加する兵士が実在するのか、実際に兵士として DDR

参加の対象となるのかを精査する作業はおこなわれたが、現実には軍閥により送られた偽

りの兵士も DDRに参加していた可能性も否定できない。この一連の問題は DDR実施以前

より懸念されていたこともあり、武装解除・動員解除作業の監視を行うことを請け負った

IOG は DDR 開始当初から政策決定や問題回避に向けた監視報告や働きかけを実施し、一

定の効果を挙げていたことは評価できる。しかしながら、後半に差し掛かるにつれ人員・

キャパシティなどの問題から政策面やプログラム実施面との調整に限りが生じた側面があ

ったことも否めない。

再統合・社会復帰に関する評価では、DDRの一環として手がける支援の範囲をどこに定

めるかによって意見が変わってくる。実際に、DDRのプロセスの中で、どの程度まで元兵

士たちの社会復帰を支援すべきなのかについては議論が割れるところである。DDR とは、

治安に対する不安定要因となりかねない武装集団を解体し、代替的な市民社会復帰の機会

を与えることで不満を抑えつつ治安改善を目指すものである。そのため、「R」に関しては、

単なる職業訓練にとどまらず完全な自立・就業までを支援するべきであるとする意見があ

る。他方、ただでさえ自立が困難な紛争後の社会において、紛争中はいわゆる強者・加害

者であった元兵士に対して優先的に自立支援を行うことは他の一般市民・被害者層に不公

平感を与えることにもつながるといった見解もある。

アフガニスタンにおける DDR では、「元兵士の完全な社会復帰」は期待されておらず、

元兵士たちの「軍閥復帰」や「犯罪集団化」の方向に進ませない程度まで「R」を実施す

ることが期待されていた。より具体的には、DDRを通じて自立・就業につながる実務的な

農業支援・職業訓練・起業支援などを実施しながらも、「R」終了以降は他の援助機関が一

般住民に対して実施する復興支援の枠組みに参加する方針で調整していた。ANBPが 2005

年 9 月末に実施した社会復帰後の元兵士の自立調査によると、調査を実施した 3,167 名の

うち 84%が何らかの形で就業しているとの結果が出ている。除隊兵士と司令官を対象にし

たこのような追跡調査を今後も引き続き実施していく必要があるだろう。

DDR後の課題として現在アフガニスタンが直面しているものに、ボン合意時に旧国軍に

参加しなかった軍閥傘下の部隊の処遇の問題がある。これらの武装勢力は DDR の対象と

はなっていなかったため、当初より治安上の脅威となることが懸念されていた。2004年 7

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月の大統領令により、旧国軍および新国軍以外の武装集団はすべて非合法と規定されてい

たが、現実的にこの問題に対処するため、2005 年 4 月に非合法武装集団解体(DIAG)の

実施を D&R 委員会に指示する大統領令が発布された。現在、アフガニスタンにおいて約

1,800 の非合法武装集団が存在すると見積もられている。DIAG ではこれらの部隊に対し、

武器供出や部隊解体と引き換えに、適切な場合において地域復興プロジェクトを実施する

として 2007年末の完了を目標にプログラムが実施されている。現時点で DIAGに前向きに

協力する姿勢の非合法武装集団は全体の 4分の 1である。

DIAG については、国際社会の問題提起により議論が高まった経緯があり、必要な財政

支援は国際社会(特に日本)が負担することになっている。しかし、DIAG は、あくまで

アフガニスタンの国内問題であるためアフガニスタン政府が実施責任を負うべきとの認識

で現地での議論が進められている。一方、DDRよりもさらに困難な非合法武装集団への対

処は、前途多難であることが予想される。国内犯罪の取締まりに責任を負うアフガンニス

タンの警察再建がどのように進むのか。そもそも非合法な民兵集団の現状把握は難しく、

実際にどのような状態をもって「解体された」とすべきかの判断基準作りも困難である。

さらに、DDR以上に政治的に機微な問題である DIAGの推進役となるような指導力を持っ

た人物をアフガニスタン政府内に見出すことが困難なことから、今後の進捗は予断を許さ

ない。

結 論

以上、本稿ではアフガニスタンにおける DDR を振り返り、その概要を明らかにすると

ともに、その成果と課題をとりまとめた。本稿を通じて、アフガニスタンにおける DDR

の全体像を示すことを心がけたが、最後に概観を要約して提示するとすれば、次のように

なるだろう。

アフガニスタンにおける DDR は、ボン合意を起点とする和平プロセスの重要な一部と

して取り組まれた。和平プロセスを促す治安の改善を図るため、新国軍創設や警察再建と

ともに治安部門改革の 5つの柱の一部として組み込まれたが、その実施にあたり多くの問

題に直面した。DDR 主導国となった日本や UNAMA の支援を受けつつも、カルザイ大統

領が指導力を発揮し、武装解除と動員解除に関しては、幾多の障害を乗り越えてきた。も

ちろん、元兵士たちの再統合・社会復帰の問題や非合法武装集団の問題など、アフガニス

タンには残された課題も多い。とはいえ、DDRを通じて、アフガニスタン各地で群雄割拠

していた旧国軍勢力が解体されたことにより、中央集権化による国家づくりの第一歩を踏

み出すことができた点は、一定の評価がなされてもよいだろう。また、DDRの進行と不可

分に結びついた大統領選挙と議会選挙において成功を収めたことにより、国家づくりにお

けるガバナンス構築の分野でも重要な基盤が確立された。元兵士たちの社会への復帰や統

合に関しては、これから具体的な成果が問われる段階になる。DIAGの問題も含めて「R」

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を引き継ぐ長期的な社会復帰の取り組みに対しては、経済社会開発の視点とともに治安維

持の視点からも引き続き注意が必要である。これからも国際社会がアフガニスタンの復興

に関心を持ち、アフガニスタン政府も自らの能力向上に努めなければ、DIAG や元兵士た

ちの社会復帰は失速し、社会的な混乱を招く要因になりかねない。

平和構築は、和平プロセス、治安部門、ガバナンス、経済社会開発などに関わる多様な

要素が絡み合うとともに、中長期的なタイムスパンでそれぞれの成果が折り重なり合い、

その一つひとつが積み重ね上げられていくプロセスである。今回のアフガニスタンにおけ

る DDR も国づくりを進めていく上での重要な一歩であり、他の様々な取り組みとの連関

や相互作用の中で、その真価を問わなければならないだろう。

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表1 アフガニスタンの和平と復興プロセス

2001年 12月 5日 ボン合意

2001年 12月 22日 暫定政権設立

2002年 1月 21-22日 アフガニスタン復興支援国際会議

2002年 6月 11日-19日 緊急ロヤ・ジルガ、移行政権設立

2004年 1月 新憲法制定

2004年 10月 9日 大統領選挙

2005年 9月 18日 議会選挙(下院、県議会)

2005年 12月 議会発足

(出所:上杉勇司作成)

表2 DDR関連略年表

【準備段階】

2002年 5月 日本と国連による DDR主導が決定

2003年 2月 アフガニスタン「平和の定着」東京会議に

て、アフガン政府の関与、DDR 実施期限、

実施機関(ANBP)の設立等が確認

2003年 7月 ANBP本部開設

2003年 9月 国防省改革

【試行段階】

2003年 9月 国防省改革に関する大統領令、DDR 実施規

定の確定

2003年 10月 DDR実施に関する大統領令

2003年 10月-2004年 3月末 DDR試行段階開始(6,271名)

【本格段階】

2004年 3月 DDR本格段階に関する大統領令

2004年 5月-2004年 7月 DDR第一段階(8,551名)

2004年 7月-2004年 10月 DDR第二段階(5,681名)

2004年 9月 DDR加速化のための大統領令

2004年 10月-2005年 3月 DDR第三段階

2005年 3月-2005年 6月 DDR第四段階

2005年 7月 7日 武装解除完了式

2006年 6月 再統合プログラム終了予定

(出所:上杉勇司作成)

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図 1 治安部門改革(SSR)相関図

(出所:瀬谷ルミ子作成)

DDR(日・ UNAMA)

国軍創設 (米)

麻薬対策 (英)司法改革 (伊)

雇用

治安維持

法秩序回復・違法行為取り締まり

法的取締り

警察再建 (独)

米が下士官訓練担当

ケシ栽培者麻薬中毒兵士対策

軍閥の資金源弱体化

治安維持

雇用

全世界に流通しているケシの80%がアフガン産

法的取締り

国防省改革含む

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図 2 アフガニスタン全図

(出所:International Crisis Group website

<http://www.crisisgroup.org/home/index.cfm?id=1266&l=1>)

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図 3 アフガニスタン軍配置図

(出所:瀬谷ルミ子作成)

ウズベキスタン タジキスタン

イラン

旧国軍(AMF)軍団本拠地

中国Badakhstan

Kunar

Nangarhar

1軍

Herat

Nimruz

Kandahar

Uruzgan

Fariyab

Ghazni

Kabul

Lagh

man

Wardak

Farah

Helmand

Ghowr

Zabul

Sar-i-Pol

Paktika

Balkh

SamanganBaghlan

Takhar

Kapi

sa

Kunduz

Bamiyan

Jowzjan

BadghisParwan

Lowg

ar

PaktiaKhost

6軍

中央軍

3軍

2軍

4軍

7軍8軍

5軍9軍

トルクメニスタン

パキスタン

カブール(中央軍)

パルワン (5)

マザリ ・シャリフ (7・8)

ジャララバード (1)

ヘラート (4)

クンドゥズ (6)

バーミアン (9)

ガルデズ (3)

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