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Title <論説>承久の乱の歴史的評価 Author(s) 上横手, 雅敬 Citation 史林 (1956), 39(1): 24-44 Issue Date 1956-01-01 URL https://doi.org/10.14989/shirin_39_24 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

Title 承久の乱の歴史的評価 Citation 39(1): 24-44 Issue ......承久の侃の歴史的評価(上横手) つたというQ 彼等を使役し、東大寺の治田を侵略し、寺領負田の農民の地仕しなくなるのぞある。正盛・忠盛及びその代官は次いで

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  • Title 承久の乱の歴史的評価

    Author(s) 上横手, 雅敬

    Citation 史林 (1956), 39(1): 24-44

    Issue Date 1956-01-01

    URL https://doi.org/10.14989/shirin_39_24

    Right

    Type Journal Article

    Textversion publisher

    Kyoto University

  • 承久の乱の歴史的評価

    24(2の

    上 横 手 雅 敬

    の…ーー♪一~、竪ーーー,一〉〉>…’一…)一》…〈…一t♪一~一~♂ーー㌔/…      ’}、…一~♪♪ぐ一〉~一〉…、’…〉一㌔一♪~(ノー…(,…、>〉、ボー\、、ーピ\〆)

    四〔要約〕 中世史上重要事件の一つである承久の乱については、従来殆ど研究がなされていない。また鎌倉政権の確立、院政終末の時点

     であるこの乱の研究に、手揖を与えるべき鎌倉政権、院政についても、いくつかのすぐれた研究が生れ乍ら、具体的な政治過程の考察

     には及ばなかった。ここでは院政の成立より説き起し、その基盤を再検討し、更にその推移を通じて中世における院政勢力の強い残存

    門糠叫腿融麟群盤騨鷲逆紬織鞭懸潔縫耀縣畷潔離麟癖緯踊ぎ

    騨、院政の成立

    、院政の笹蟹的性格は、院政期に特徴的な社会的諸現象を

    究明し、院政の社会的、経済的基盤を考えることによって

    萌かとなろう◎当時の庄園文書に一般酌な現象は、国衙と

    庄園領主との対抗でないかと思うが、院庁は一方において

    庄園を立零し、また他方庄園を整理したのぞあった。これ

    はどの様な意昧をもつものぞあろうか。

    、莫大な院御領成立を明かにする一つの前提として、東大

    中守領伊賀緬畑田庄を薫コえて見よ・り。承徳二年( 〇九八)平正

    盛は、伊賀国山田村。靹田村。柘植郷の散在田畠回数町を

    六条院に寄進し、右弁官輿生上野貞元はこれらに傍示をう

     ①

    つた。爾来東大寺と六条院との争いが、東大寺文書を賑す

    ことになった。

     元来散在の田畠に膀示をうつのが不当ぞあり、また更に

    靹田村十三町、都心村四十余町が押籠められ、東大寺の開発

    買得した田地由野も侵略に合い、東大寺の杣工は、六条院

    領のために駈使され、東大寺に地子。所役を対桿するに至

  • 承久の侃の歴史的評価(上横手)

        ◎

    つたというQ

     寛弘三年(一〇〇六)正盛の曾祖父ぞある維衡が伊勢雄と

    なって以来か、・中世に至る迄伊賀・轡勢は平氏の墓盤を形

    成した。当時の平氏は、この地に土着して基盤を固めると

    共に、庄園寄進を通じて院に接近しようとしていたのであ

     ③つ

    た。院の歓心を買って翰墨の昇進を求めるには、地方の

    経営による豊かな財力と武力を伴わざるを得ないが、逆に

    微力な在地領主が、東大寺の…様な大庄園領主と揺抗するに

    は、院の如き何等かの国家的公権力との接触を必要とする

    のであって、正盛の行動は畿内及び近国における在地領主

    の動向を象徴するものといえよう。

     更に正盛をしてかかる挙に嵐ぞしめた農属の動きを考え

    なければならない。正盛が六条院に寄進した田畠の中には、

    東大寺への御封米未進の輩が正盛に洋帆を弁進した十六箇

    所の畠が含まれていたのであり、封米朱進者は平正盛或い

    は六条院領に事寄せては東大寺の所勘に順わず、また寺家

    の御封と号し官物を弁済せず、皇家御領と称して持役を勤

             ①

    仕しなくなるのぞある。正盛・忠盛及びその代官は次いで

    彼等を使役し、東大寺の治田を侵略し、寺領負田の農民の地

    子対梓を直接、朋接に援助しつつ農民を支配して行こうと

    する。そして平忠盛が東大寺の強硬な抗議のために、形式

    的にもせよ、在地に地干対拝の停止を命じたに拘らず、彼

    の代宮平華実はこれを肯わず、或は寺勝負田の農民には弥

    豪法印の様に、六条院領に事寄せ東大寺の悪難…を逃れんと

    するものさえあらわれ、また平氏の下に畠田司不知名藤七

    武者の如き郎従的な農民らしきものを包含しつつ軍事的ヒ

                     ⑤

    エラルヒーが形成されていったのぞある。

     かくて蕪骨国における平氏の動向は、明かに在地曲麿民を

    組織しつつ領主制を農馨しつつあった屯のといわねばなら

    ないが、院御領の形成は、新しい庄園寄進関係を構成する

    ことによって、紀来の庄園領主と対抗しつつ形成の途にあ

    った領主制の促進と深い結び付きを示しているのである。

     新な院御領の形成とは別箇に、後三条天皇の遺旨をつぐ

    庄園整理が、院とその受領によって行われたことも事実で

    ある。しかし庄園の立券と整理は、古代末期独得の院庁権

    力の私的性格を媒介とすることによって、矛盾なく結びつ

    けることができる。庄園整理は、庄園を停廃し得るだけの

    有力な権門たる院の存在を周知せしめることによって、

    25 (25)

  • 玉露院御領の集積をもたらすことができた、庄園停止にあ

                           ◎

    たるべき一軍司が、 「密だ皆密スは(庄園を)立てらるる所」

    であるから、国司によって庄園停廃を意図する院庁も決し

    て庄園寄進を拒まないのである。離宮造営、造寺造搭、御

    幸等院政期の種々の造作、行事は極めて私的、消費的、奢

    修的なものであるが、それはまた受領の課役によって営ま

    れ、受領もかかる院の要求に応じうる財力の蓄積に努力し、

    逆にそれによって重任される迄の庇護をうけていたのであ

    って、庄園整理も律令制への単なる復帰ではなく、決下院

    .乃至受領の、寺社等の庄園領主に対する侵略であり、院御

    領の形成と同様の意味をもつものであった。

    ・更に受領の下には、在地領主制を形成し、地主的田堵層

    を従えつつ、庄園領主と対立していった在庁宮人があった。

    国司と在庁・目代との分離、対立は畿内及びその周辺では

    さして進行しなかったらしく~恐らく庄園領主の勢力の強

    さによるのであろう一和泉寒宗僑が、建久九年(=九八)

    興福寺領に対する熊野御幸の課一役を自ら在地に下向して指

    揮している様に、国訂が在庁窟人を率いて庄園領主に対抗

            ⑦

    した例も見られる。

     靹購庄でも東大寺に対抗した今一つの勢力は国衙であっ

    た。 この地で平氏の問題が現れる遙か以前、天喜三年(一

    〇五五)に東大寺領に対する最初の庄園整理が企図されて

     ⑧

    以来、延肉として鎌倉時代に迄蟹爲と東大寺との争いはう

    ちつづいた。しかも國穏の意図[は常に東大寺の溝作公田の

    発展を阻止し官物を弁済せしめるにあって、その過程に惑

    いて目代申原利宗の様に隣代を歴任し、在地の赦実にもく

                      ⑨

    わしい極めて在地性の強い屯の渦もあわわれた。

     しかし在地性といって志、本来国衙の官人に見られる第

    一の特色は、彼等が国衙という行政機関の溝成員ぞあるだ

    けに、當…に公権力に制約され、逆にそれを利用するという

    処にある。従って国衙が主張を実現する為の手段は巧に時

    局に便乗した形をとって現れるのぞあって、康平年聞に造

    興福寺役に名を仮り、宇治関白頼遍を頼って園的を果そう

              ⑲            ,

    としたのもその一つぞある。

     保元肉年(=璽ハ)には、俸勢より齋王帰京にあたり、

    沿楢一諸一画への課役が嵐図嚢にも珊膵されたが、百姓はこれを逃

                 ⑪

    れ近、隣の摂関家領馬椙庄に走った。この前後の状勢を兇る

    と、東大寺は、前匿代中原利宗が靹田村を収公し、玉滝・

    ・26 ( 26 )

  • :承久の楓の歴史約評価(上横手)

    靹田町村より納めるべき御封米百四十出石を玉里にのみ加

    徴し、その催促のため国使が乱入し、その結果百姓-東大

    寺の寄人一が逃亡したとする。しかるに国衙の方では、寄

    人の外に「領主」が現れ、寄人の見作田に反別六斗に及ぶ

    多額の加徴を行ったり、東大寺所司覚悟が玉滝杣の預所と

    号して非法を行ったりする結果、寄人が逃亡したのだとす

    る。即ち「領主」 コ悪僧」の寄人支配をしりぞけ、国衙へ

    の官物を確保しようとしたのぞあるが、保元々年の齋王帰

    京所役が、このような状態の申ぞ国衙側によって極めて有

    効に利用されたのである。東大寺が、e百姓鰻筒の原因は

    国司の苛責にあって帰京所役の遁避にあったのぞはない。

    ⇔齋王帰京雑事は元来寺領では免除されていた筈であると

    述べたのは、この意味で注目されよう。專実かかる所役は、

    伊勢役夫工米等、院政期に庄園に賦課を強行する手毅とし

    て流行した臨時所役の一つ、いわば国衙の収奪形態の院政

    期における特徴的なあらわれとして理解さるべきである。

           亀

    公権力の利用に最も敏感な国衙が、院においてその保護者

    を見起したのは当然ぞあるが、そこに院が受領を通して國

    僑制を一支柱とする根拠もあった訳である。

     平安末期の番田庄には国衙。東大寺・六条院及び平氏と

    いう大雑把にいって三つの勢力が錯綜していた。ところボ

    国衙と東大寺、東大寺と六条院の闇にこそ争いはくりかえ

    されたが、国衙と六条院の聞にそれは見られないのである。

    東大寺が、輝輝 村は六条院のため停廃され、寺領ではない

    のに、寺家掠領とするのは在庁の謀略であると主張し.なが

    ら、かたわら六条院領の奪還を企てているのはこの一二者の

    微妙な関係を物語っている。同じく庄園領主といっても、

    院政の庇護をうける国衙が、六条院領を侵略すること等考

    えられず、その申ぞ平氏は平家貞等の現地の指揮者を執心

    として武力的ヒエラルヒーを形成して行く。かくして平安

    末期の東大寺、は、六条院・国衙を通じて院に結びつく二つ

    の在地領主的敵対勢力の挾撃をうけなければならない。

     院に結びつく二つの勢力…一つは庄園の寄進を通じて、

    一つは庄園の停廃を通じて一はその領主的性格を共有して

    いたσ既に武士の著しい成長が、隔来の律令制的、庄園制的

    支配に大きな亀裂を生ぜしめていた辺境とは異り、畿内に

    おける領主層は強大な庄園領主との対抗の中で成長して行

    く揚合、別な形式で再生産された古代酌権カー院政の中に

    27 ( 27 )

  • 身を投じなければならなかった。そこに院政の社会的基盤、

    、その過渡的意義が見幽されるのであるが、かくて国衙対庄

    園領主、在地土豪対庄園領主の抗争は、院政の申にもち込

    まれ、院と最も有力な庄園領主の一つである畿内大祉寺と

    の争い、僧丘ハの強訴を院政期の一景物たらしめる原因とも

          ⑫

    なったのであるQ

    ①藁火寺文書四駅長二。八・二五靹寝業閏畠注文東南院文書

     三ノ海域久三・四・三〇鳥羽天皇宣旨 東大寺開巻文書二七ノ

     で氷久三・五・二五{果大山守解…案。尚以下{無大寺丈嘗の柵数は京

     火所蔵影写本による。

    ② ①の外村井氏写東大寺愛書保安履・九・=二明法博士趣状案等。

    ③龍粛氏「六条院領と平正盛」(歴皮地理五五一三)中村「直勝

     博士「概賀一国玉滝燕壮」 (「荘園の研究」所収)

    ④ 村井氏写東穴寺丈書保安騰・九・一二明法博士勘状案 來大

     寺交誰蹴八瓢く鱒窟一一・四. 一〇威鵬晒繍岬覚謎解。

    ⑤ 東大寺文書八天承二・四・一〇威儀師覚仁解 東欝院文書隣

     ノ五天承二・四二六、長承二・九・七、保廷三二〇ニニ

     餐平忠盛下丈 東大寺文書四一保延五・三・二三平忠盛下文案

      同肩左衛門仁平三下繕事。

    ⑥ 後二条闘白記寛治七・三・三三。

    ⑦建久九・一蝸・一興福寺別会五師牒状(大研本史料四ノ五)

     翅境で左翼が御録人化している様な場合、在庁が願罵に背反す

     ることが多い。例えば寿司の命に背き上洛せず、讃当課役を難

     済した隠岐在庁盗忠の例がある。(}暫手鏡丈治四・一一・ニニ条)

    ③ 東大寺丈勲周八天喜三・一〇・九伊賀守小野守経解交。

    ⑨同九〇久安五・五・六、京大国典研究釜蔵東大寺丈書二君安

     五・山ハ・ 一三舎伊賀乱闘恥田正義縄一睡融問注記。

    ⑩村井氏写東大寺二野承保四・一〇・二三僧覚増解案東大寺

     丈書五保安三・二・二五伊賀圏司解案。

    ⑪ 東大寺丈書哺保光々・一一月日伊賀國在庁解案 保元々・一

     二月艮東大寺三耀陳状案 嗣八保元二・二月欝玉滝庄司解案。

    ⑲ 尚私はこふで特に畿内及びその周辺地域という事を強調して

     おきたい。それは一は史料約制約にもよるが、当時院政がよP

     遠隔の地方を厳密な意味で足場としえたとは、到底考え得ない

     からである。蹴脳内一の申世↑は何より竜強大な由比罰領主蹴㌘刀の存’在

     の中で寮長される点が大きな特色であって、新しい形における

     古代篠力(院政)の登場しえたの竜、またかかる庄園領主勢力

     の山樫在を辿幽提として考慮されねばならない。

    二、院政の推移

     院政はその後二つの強力な試練-六波羅。鎌倉両政権の

    成立iに適遇した。その結果、院政期は極めて短期のもの

    として印象されているが、実は院政はこれ・りの試練を克服

    して生き存らえたの.てあった。

     山ハ波開識一双権轡の基般珊か広~、説かれてhしΦしょ・うに「知伸打鈴掛。庄

    28 (2S)

  • 承久の鼠の歴史的’i tw(上横手)

    園というそれ以前と全く差異のないものにあったことは明

    かぞある。それらの獲得は各権門の国家機構内で占める地

    位の高さに依存するものであり、またそれらが摂関や院に

    よって貧り取られて来たものであっただけに、平氏は武力

    や内乱の・甲ぞその拡張を企てなければならず、また内乱に

    おける平氏の主導性が高まれば高まる程平氏の獲得する成

    果は大きくなる。保元の乱における頼長等の没収地は後院

    領となったが、平治の乱の場合には、はるかに平氏の得る

    処は多かった。

     しかし古代国家の公権力を利用することによってしか、

    庄園∵知行国の獲得が困難であったという事情は、当然平

    氏の限界とならざるを得ぬ。勿論知行国、庄園の経営方式

    を子細に吟味すれば、平氏の施策に若干の斬新さを見出せ

    るかもしれない。しかし政敵の所領は、朝敵の廉で没収し

    なければならず、その没官領の地頭・領主に平罠の子弟族

    党が充用されるにしても、それらは院御領・女院・官人官

    等とな9、平氏は預人としての領家預所的…機能に甘んずる

         ①

    事が少くなく、律令制における君臣関係の変容としての、

    本所一領家的形態は払拭され得ず、院への依存を免れない。

    外戚関係の設定に平氏が努力したのも当然ノLある。尚一層

    困ったことには、平氏と院。摂関との基盤の共逓性が反っ

    て相互の対立を強め、院に対して打撃を与え得ぬままに、

    憎悪a中に没落を早めたことぞある。

     鎌倉政権の成立が院政に与えた打撃も過大に評価ぞきぬ。

    地頭御家人を庄園領主の恣意的任免から解放したのは、確

                ②

    に幕府の進歩性だとは思うが、幕府の基盤が、院政とは六

    波羅政権程に共通していなかっただけに、頼朝の院に対す

    る態度は前者に比べて遙かに精檸狸猛ぞなかったことは藤

    原藁実等当時の貴族達の日記に竜屡々見られる処である。

    逆に頼朝が長講堂領七所の立話を奏した例さえ見うけられ

      、   ③

           旧勢力における権益風景確保の要求は、黙

    るのであって、

    関の懇請にあらずんば、院の強請によって幕府にもたらさ

    れるのぞあった。

     このことは院御領の中にも具体的に見ることができる。

    中世における皇室御領は、文書の残存形態にもよろうが、

    院政成立後の寄進而も院政成立の直後よりも、院政の威力

    の認識されゆくにつれて寄進された竜のの方が多いのぞあ

    る。鎌禽時代に入って尚、院御領の寄進の進め・りれている

    29 (29)

  • のは、院の権力の依然として衰えていぬこと、見事に試練

    を克服し得たことの一証左である。

     大和実勢郡の土豪県清理の開発した早取庄は、保安三年

    (一

    黹jエ)以来領主警守遠が父の譲をうけたが、大夫局親

    房女の濫妨にあい、畏部卿僧都総覚を通じて、高嶺院(鳥

    羽后)祈願所福欄勝院領に寄進された。しかし大夫局の押領

    はやまず、教覚の門弟寛海も異論を述べた為、領主守宮は

    隙脚

    フ舗…臣国権律師長厳に、瀟人に建久九年(一一九八)長…厳より七

    、条院に寄進して他妨をしりぞけ、領家(預所)は長郷の附

                    ④

    属に任せ、頭嚢の子孫は下司となった。処分状によれば、

                             ⑤

     平氏は田贔・山地の外大神社御祭御供司職を有しており、

    一庄を領饗するほどの土豪が、一宮廷女官の押妨を却ける

    為には、これだけの努力が必要であった。それ故院の近臣

    を通じて院と結びつくのぞあり、またかかる畿内領主層の

    弱体こそ院政を温存せしめる社会的条件を形成していた。

     頼朝自身の態度について見ても、熊野領播磨浦上庄地頭

    梶原景蒔の代官が、祉役を怠って地頭停止が院より要請さ

    れるや、これを唯諾し、 「縦没官領にて候とも、別御定を

    ば、争可レ令レ申二左宕…候哉」と院への忠勤を誇らかに奏上

       ㊧

    している。この闘後鳥羽院は後白河院よP属領の御領のほ

    か、七条院領七+余所を興し、八条院領を順徳客演として

    一一

    S余所を管領し、朝雲親王を慈円の猫子として六十余所

    の所領を伝え、雅量親王を宣陽門院の猶子として長講闘病

        ⑦

    をつたえた。院御領の発展は一の院を中心として尚進めら

    れつつあったのぞある。

     古代-中世の変革期を生きた院政が、その失う処少く、

    得る処・ずら少くなかったとすれば、その聞の歴史的発展は

    一体どれだけの意味をもつのであるか。確かに院そのもの

    の蒙った打撃は少かったにして竜、武士や農民の成長が金

    体として貴族層の経済的基盤を著しく侵蝕して行ったこと

    は否めない。受領が官物を徴収することに対する抵抗も増

    加して行く。従って国司の個々の経営能力、実はその上に

    立つ知行国主の権威が七六重要となる。今や彼等は、院・

    有力貴族、時には大社寺を本所とする預所ぞあり、少数の

    権門勢家のもとに群小貴族が掴人酌に分属し、家司の組織

    が一般化するのぞある。この事轟くは武士農民の成長に伴い、

    分撤したままでは従来の権益を確保しえぬ各貴族たちによ

    って一層碧しいものとなり、また彼等の掘涙の消長を促進

    30 (30>

  • :承久の裁の歴史的評価(上横手)

    し、その結果各権門及びそれに驚喜する中小貴族の網互の

    私党的対立を一層激化せしめるのであった。

     隅勢力の一般的没落は、強力な院政を申核とする団.結を.

    一つのゾレンとして要講ずるのであり{またそこに後期院

    政を前期のそれと区別し、武士に対立するものとして疑え

         ③

    る理由もある。しかし院と摂関、院と寺社、その魔羅勢力

    内部の私党的対立は、遂にこのゾレンを東金に実現するこ

    とは画来なかった。

    ① 星野恒博士  「守護地頭考」 (史学雑誌二、三)

    ② 拙稿 

    「鎌倉畿幕漁肘法の限「界」 (歴史瀞ザ研究一七七)

    ③  王黛婁繍獅建久六・四U・二一条。

    ④東寺百合丈書ッ保安三・八・二平守延処分状嗣り建久九・

     八・二六平盛相護状 嗣め建久九・一〇月七粂院庁二丈案。

    ⑤ 岡右ッ治承元・闘一・二八平助遠処分状案。

    ⑧菩妻饒文治五・三・=二条。

    ⑦八代国治博士「長講堂領の研究」(「國史叢説」所収)…九頁。

    ⑧林屋辰三郎氏「院政政権の歴史的評価」(歴史学研究一四九)

     参照。

    三、院の近謹

     院宣の成立はハ寺社・貴族等に打繋を与え、院と寺社、

    院と摂関の対立を激化せしめるものであった。摂関以下の

    貴族は、国家機構に直接寄生する存在であって院と相論依

    存の関係を保つことが必要であったため、不満を屯ち乍ら

    もそれが露な形をとることは少かった。唯寺社はそのよう

    な政治機構に拘束されないある程度の独立性をもつている

    ため、僧兵の強訴差しばしば見られ、承安一二年(一一七三)

    には院は興福寺以下十五大寺領の諸国末寺庄園を収来し、

                        ①

    寺用を国司に付与しようと試みた程であった。鎌倉政権の

    成立、地頭の庄園侵略は、旧勢力の内部対立を止揚し、院

    を中心として武士的勢力に対決する必要を迫るものであっ

    たが、それと共にそのような勢力の結集を妨げる条件も減

    少することはなかったのぞある。

     自ら巨大な庄園領主であり、氏寺興福寺を擁し、京都の

    政界ぞ院政に対抗しうる喉一の勢「カーそしてその下には、

    院庁に志を得ぬ群小貴族が集っている一たる藤原氏が、院

    政に対する強い批判を竜っていたことはいうまで竜ない。

    然し院と摂…関とは、摂関が震の後見としての正常な地位を

    保つことによってのみ存在しうることができ、また政権維

    31(3ユ)

  • 持のための相令息存の必要から対立がそのまま露呈するこ

    とはない。故に摂関乃至.彼に依存する貴族にとって直接の

    敵手は、自己と院を離問する君側の妊(院近臣)に見禺さ

    れるのである。 「院ノ叡慮ユサラニくヒが事御偏頗ナル

    ヤウナル事ハナシ」と記した慈円は、また「院ノ近臣ト激

    者ノ男女ニツケテイデキヌレバ、ソレが中ニイテ、イカニ

                           ②

    モイカニモコノ王臣ノ御冠ヲアシク申也」と述べている。

     院近臣と院とのつながりは、全く私的なものである。乱

    の結果京方張本公卿として処罰された雪意は、修明門院∵

    七条院。順徳天皇などの后妃、乳母等、女性との関係を通

    じて重嗣されており、かかる事情は院政初期以来変りを見

    せていない。院政が一権門としての雲気の私的性格と、律

    令制的筑豊の公的性格との闇隙を隠蔽するために案禺され

    た政治形態ぞあるとするならば、女院というものは、その

    ためには一層理想的である。

     私的といえば、後鳥羽院のつくった西面武士の構成が全

    く暗黒であるのも、本来その結成についての何等の組織的

    方法をもたなかったことによろう。

     さきほど櫓調牧庄で述べた長轟激にして。も、 村山[修一氏の研『

    究によれば、熊野山検校、石出寺座主を歴任し、修明門院御

    産御祈に干手法を修し、水無瀬宮を造進し、熊野御幸の先達

    をつとめ、後鳥羽皇子妙香院宮を預り、備中・国衙領を賜り、

    熊野新宮造営を奉行し、承久乱後陸奥に配流された人物で

     ③あ

    る。元来彼は単なる無名の修験行者にすぎぬ。律令国家

    の統一性がイデオ算ギーの面でも崩壊しつつあった時、浄

    土往生の念願が強く叫ばれつつも、それが貴族社会の頽廃

    の中で、造寺.造塔の自 已灘常足的な救済…にといつしかそれて

                          ④

    終い「廊邑村落構うる所の寺舎は多は遠路の鴬野なり」と

    のなげきとそしりが起っていた縛……そのような時、彼も

    亦汚れ多き都を離れ、山籠修行し、信仰の黒髪と宗教的実践

    の世界に生きようとしていたのかもしれない。然し彼は七

    久木

    B修厚略}門堪両女院の画龍遇を・うけ、法会と修法の黒田介へと修

    行の結実を呑嚇されて行くのぞあった。それは単に僧侶と

    しての好遇ぞはなかった。彼は七条院領鶴牧。安堵、那智

    山領勝田庄、伝法院領紀衛七ケ庄、更には摂津新吉田庄内

    小羽田などに何等かの職権を膚し、また紀伊国南部庄の下

    司として高野山の干渉をしりぞけ、或は備中国領(修朗門

                 ⑤

    院知行国)の一部を野土されている。宗教界の修法僧は、世

    3 1. ( 3t., )

  • 承久の1糺の歴史的評価(上横手)

    俗的世界にあっては、院政の藩轟としての領家・預所的地

    位と粗応じ、その経営の敏腕は、無名の行者としての豊か

    な経験、成上りものの逞しさ、更に彼がほしいままにし得

    た君寵の援を得て、着々と発揮され、水無心造営に尽力し

    うる財と、承久の乱の帷握となりうる力とを共有すること

    になったのである。

     かかる院近臣の私的性絡…は、彼等をして益々専恣にその

    特権を濫用せしめる原因であって、それが私的であればあ

    るだけ、彼等の無限の道徳的墜落を阻止する安全弁は存在

    しないのであった。院方武士の巨頭藤原秀康が下総守の任

    にあった頃、彼の従者は偏人部して在庁と争い、土民を傷け、

                 ⑥

    在庁は幕府にこれを訴えている。幕府の膝下たる下総での

    事件であるだけに驚く外ない。また按察使光親は弘誓院領

    摂津富島庄に延暦寺僧の濫妨を停め石清水領靹淵庄と彼自

    身が領家であった高野山領神野真国庄との訴訟に馬関係し、

                      ⑦

    或は宗像大宮司職に濫妨を企てる等であり、院司としての

    特権は極めて膚効に利用された。かくして院近臣たる希望

    は、極めて激烈で、北面新参者が無数に出来し、面々縁に

                ③

    付して申訂するという盛況ぞあった。

     摂関をはじめ、大多数の貴族が院政乃至は院近臣に対し

    て抱く不満は、院政期独得の造営・行幸等の過差の生活

    が、彼等に強制する多くの負担を通じてであることが多い。

    兼実の家司であった定家は、水無瀬新御所を眺望し、しば

    し感動の裡に詩趣ある叙景文を記し乍らも、ふと這い瑚実

    の風に縢をさされては、 「国家之費、ロバ在二業事一画」と歎

            ⑨

    ぜざるを得なかった。和泉興福寺領谷川庄では、熊野御幸

    の課役を一旦免除されたに拘らず、国司が無道を行って、

                           ⑩

    国守宗信自らが在地に下向してそれを指揮したというが、

    それも院の熊野御幸という権威を通してであった。後白河

    院逝去に際して、 「天下皆悉悲レ之、況朝暮押レ徳之翻心。

               ⑪

    海内悉傷、況名利飽恩之輩哉」と記した無実の胸申は、ま

    ことに複雑である。

     かくして暇勢力内部の対立は、遂に解消しきれぬものを

    もっていたと思う。公武の一大対決たる承久の乱が、後鳥

    羽院の寵姫亀菊局の事件に見られる様な、私的な、極端に

    言えば醜悪ですらある動機を以てはじめられねばならなか

    ったのは、かかる内部対立を止揚し得ぬ結果で竜あった。

    それはまた京方敗北の必然性と竜密接に結びつくのである。

    33 (33)

  • ① 玉簗承安三・七・七条.

    ②  愚管抄第六、…附録。

    ③村山修一氏「中世における都市貴族の生活i藤原定家の揚合

     一」 (京都女子大学紀要八、九)

    ④俊莇無二癩寺勧進疏。

    ⑤  察寺百合丈書{暴一山ハナ倒二四口貞応ハ嵩・五・ …六曲酬穴僧正サ爪熱暇状

     根山米要書下承久三・八・二五六波羅一拝四行状  三野醐寺駕刷一嬰緑兄山ハ上

     神曲都鶏上鞘畑滝宮簸糊 野人続諸職集一山ハ轟ハ五暑貞旛}兀ら七・ 一〇

     南部庄官年青ハ滋小起誌聞丈案  続宝二軍二六四暑宝治一兀・六月目謝薗

     野山住僧解状 後鳥羽院農籠建保二・四・三条。

    ⑥吾妻鏡承元四・七・二〇条。

    ⑦随心院丈書乾承久四b四・五太政官牒楓軒丈書纂七六宗像

     貞応元・七・二七幕府下知状(脅大日本史料芝之一)尊簡集二

     ゐハ{ご号建保閃[・ 一〇・二五按察使家政所下二等。

    ③明’月記承元元・八・二七粂。

    ⑨ 同建保五・二・二四条。

    ⑲ 第一節注⑦参照。

    ⑪ 韮葉建久三・三・一三条。

    圏、景 久 の 乱

     承久の乱における院方の陣営を考えよう。越後加地庄の

    深填家賢は、翼翼公卿の阿波宰相中将信成の家人であり、

                    ①

    嘗ての庄園寄進の閣係を感ぜしめる。或は、三浦泰村のよ

    うに何等かの形で幕府に対する不平分予があるかど思えば、

    偶然在京中渦申に捲き込まれたものもある。また在京三野

    入として院に関係の深かったものについては別稿ぞ述べた

         ②

    通りであるが、要するに鳥合の衆ぞあって、この様な事情

    は乱の社会構成簗的把握を困難にしている。勿論在地領主

    ,の庄園領主との伝統的関係、畿内御家人の複雑な服属関係、

    順調n領の存在は、院庁をはじめ、なべて隔勢力憎翫み仔の祉ム竃

    的纂般皿であり、以て当方に投じた武士も少くない。しかし

    彼等の在地には、社寺等庄園領主の脅威、先進的な農民、

    非法の侵略をすすめる地頭や土豪等が…様子の敵対勢力とし

     て存在し、平安末以来の種々の問題は未解決のままに、相

    対的安定さえ得られず、院領の武士だからとて直に院方に

    投じ得たとは限らない。

     成る程莫大な院御領が院の経済を潤沢にしたとしても、

    各庄における院の存在形態は、あくまでも本所としてで

    あり、領家預所以下の庇園経営の実質は、最大の権門たる

    院に集い利を含八る階級的まとまりのない輩の手にあった。

    院政の政治的無組織性は、当然のこと乍ら何等の組織的軍

    34 (34)

  • :承久の侃の歴史曲薯緬(上横手、

    事力を電ちえなかったし、それらを養うたみには、不断に

    他の貴族社寺との対立を余儀なくされ、基通・頼実等の冷

      ③

    評の中ぞ乱を旧勢力あげての反革命たらしめることにすら

    央敗したのぞある。私は畿内御家人に対する幕府の統率力

    の弱さから、承久の乱における御家入の斎忌への流入を説

           ④

    いたことがあるが、裏からいえば、院が、幕府の御家人組

    織の不備の開学を縫ってしか武士を動員し得ず、本質酌に

    は傭兵をしか動員し得なかった事は強調しておきたい。

     さきに院政の社会的、経済的碁盤の強い残存を揖摘した。

    これを幕府のそれと比較することは技術的に先ず不可能で

    あろうし、孤立した形で而者の基盤の量的大小を尋ねた揚

    合、院の方が優勢だという結論が撚るかもしれない。しか

    し単なる量的・な比較は実証的に似て麗なるものであり、問

    題は経済的優越を軍事的優越に、量的優位を質的優位に転

    化しうる政治的組織力にあるものと考えなければならない。

     恐らくは旧勢力で比較的組織的な武力を有したのは大寺

    院であろう。堂衆。兵士などとよばれるそれは、庄園制の

    最初の危機に際して、それを維持防衛…する要講から、庄園

    領主によって組織された竜のであった。しかし置上濃い院

    鰯の延暦寺への禺兵要請は、 「一とせの御こし駆りの時、

    なさけなくふせがせ給ひしかば、衆徒おのれをうらみて陣

    のほとりにふ夢すて侍りしかば、むなしく馬牛のひづめに

    かかりし事は、いまにうらめしくおもひ給ふるにより、こ

                      ⑤

    のたびの御方人はえつかうまつり侍るまじ」という日吉の

    託宣によって、にべなく担絶された。 「御こしふり」の事

    件は、院庁と延暦寺との久しき対立であり、その敵手をこ

    こに自己の陣営に招くことなど出来なかった。武士の侵略

    を防ぐという旧勢力共通のゾレンも、その内部対立を克服

    しえなかったのである。

     略女尾張三河以東の武士より成る幕府側は、、律令制的、

    庄園参酌支配機構の実質的に崩壊した地方に拠診、或は某

    友庄司、某々介護の豪族的領主の名称が、庄官、在庁とし

    ての系譜の名残は留めていても、庄官とか在庁とかの律令

    制的、庄園制的義務関係を一掃し、反ってその権威を温存

    して領主制の展開に利用することができる。その家父長制

    的支配の古さは弱さとはならず、反って遅れえ農民を強く

    支配し、その軍事的ヒエラルヒーを強固ならしめる。而も

                         ⑥

    彼等は源平合戦以来の集國戦の実戦的経験があって、幕府

    3」r (30r)

  • の惣領制的な御家人組織はその上に強固に形成され、幕府

    軍を構成している。幕府側の組織性、その勝利の原因はこ

    の御家人組織にあったことは明かである。思えば承久の乱

    の原因は、この御家人翻に起ているのである。

     「承久記」の伝える乱の原因は、一は院の寵姫亀菊局の所

    領摂津長江・倉橋重葬の地頭の改補、一は仁科盛遠が幕府

    の許可なく院下したため幕府に没収された所領の返還とい

    う、院の幕府に対する二つの要求を幕府が拒絶したことで

    ある。共に院の寵臣についての私的なものぞはあるが、御

    家人とその所領についての璽要な問題を含んでいる。しか

    し幕府が仁科盛遠の所領を返還し、長江。倉橋両庄の地頭

    を解離する程度の妥協ならこれまでしばしばくりかえして

    きた。唯その妥協と譲歩が無険にくりかえされるならば、

    庄園領主の漁燈的任免から彼等を解放して御家人として組

    …織した幕府法の原則は、院の恣意に躁㎜醐されて、・有名無実

    のものとなり、御家人制、延いては幕府の存在そのものを

    否定して終うことになろう。また逆に仁科盛宴のようにこ

    の御家人組織を無視する輩には断乎たる制裁を加えること

    によって御家人制を保護して行かねばならぬ。経済的には

    庄園領主に外ならぬ幕府が、それと矛盾する御家人領主層

    を軍事的に組織したことにこそ幕府の唯一の進歩性があっ

         ⑦

    たからである。承久一二年は実朝横死をはじめとする幕府変

    質の危機的状況であった。”てして幕閣内の京下夢官入層の

    退潮、東国の豪族的領主の発言強化という形をとって登揚

    した執権政治が、御家人の儒任と支持を要する時点にあっ

       ⑧

    ただけに、在地における御家人の動向を論点として、院と

    幕府との衝突は避くべからざるものとなった。とすれば幕

    府が六波羅政権と区別され、その堕落への路を回避しえた

    のは、この御家人制、幕府の無制限な堕落をゆるさぬ領主

    層の下からの力にあったといえよう。

     また院側が畿内及び周辺の生産力豊かに肥沃な平野地帯

    にその経済的基盤をもち乍ら、その地に割拠する武士団を

    一つの勢力として結集する質的飛羅を達成し得なかったこ

    とは注目される。かつて集権的な統一性を誇った古代国家

    も、今はさまざまの分裂と対立の中にあり、反って院政期

    にはそのような分裂が極に達し、組織的な御家人制の前に

    敗れたものといわねばならない。院の社会的経済的基盤の

    持続は、平安朝以来の推移を無視してよいことを意柔しな

    36 (t),6)

  • 承久のVfLの歴史酌評価(上横季)

    かったのである、院の経済力を、造営行幸を行い乱を計画

    しえても、乱を成功せしめ得ぬまぞに追いつめた処におい

    て平安-鎌倉期の歴史的成果を見出すべきであろう。

    ① 著妻親元久三・五・二九条。

    ③ 拙稿コハ波羅探題の成立」 (ヒストリア七)

    ③承久記慈光寺本。

    ④、前掲拙稿。

    ⑤ 増鏡二薪島詰り。

    ⑥一々の実証はさけるが、承久の乱の幕府軍の多くは、頼朝挙

     兵以来彼に従い、また源平含戦、奥州征伐にも従軍している。

    ⑦ 拙稿「繍嚇倉梱幕府法の限界 」(歴史轡ず研究一七七)

    ③拙稿「六波羅探題の成立」(ヒストリア七)

    五、乱 の 成果

     乱,の成果を考えるにあたって、我々は第一節以来次々に

    掲げて来た問題を整理しなければならない。それらは相互

    に連関し継起するものであるが、叙述を急いだために、そ

    れらが無統一に列記されたという印象をさけるためにも。

    ω院政には庄園領主と対峙する畿内及び周辺の領主層(在

    地土豪・在庁官人等)が結びついておりその結果院政は寺

    社をはじめとする庄園領主的勢力と対立するに至ったこと、

    ㈲幕府の成立によって、院そのものの蒙った打撃は殆どな

    いが、全体として贋勢力の退潮は否めずハ家司制の発達を

    通じて旧勢・刀の結集の要請とは反して、内部対立が解消さ

    れず、激化した兆すら見えること、09かかる内部対立は要

    するに古代王朝国家の分裂、無組織化の結果であり、その

    結果承久の乱においても幕府の編成した御家人組織に勝利

    のもたらされたことの三点に要約ざれよう。表現を変えれ

    ば a旧勢力(院・摂関∵寺社)b地頭御家入 c畿内の

    領主層が承久の乱後どうなったかという問題になる。また

    今一つ⇔主として上部の支配層の叙述に終始したが、社会

    経済史的な発展過程の・甲ぞ乱をどのように位置付けるべき

    か、具体的には庄園における地頭非法の展開等の観点で、

    承久の乱はどのような意味をもつかの問題がのこされる。

    1、先ず最後の問題ぞあるが、結論的にいえば、例えば南

    北朝内乱におけるような農民武士の全国豹蜂起、悪党の横

    行などは殆ど見られず、あの規模の靡きざをこの内乱に適

    用することは誤である。承久以前の地頭非法を知る史料は

    極めて少いが、今若組垣審庄の場合を考えて見よう。承元

    37 (37)

  •            ①

    女面(一二〇七)の将軍家下知状によれば、同庄で地頭非法

    として禁止されている内容は、 「鮎川人夫の使用に農節の

    比を避ける」「養蚕期に百姓を使用せぬ」 「藍役を課さぬ」

    「馬を飼い百姓に迷惑をかけたりせぬ」 「百姓の麻を苅取

    らぬ」 「地頭佃の上子を運上する揚玉の外、京上社木津越

    夫馬役を課さぬ」 「関東国選切米を百姓に課さず半分は地

    頭得分を充給する」 「地頭の女房・代官等の雑事を百姓に

    課さぬ」「逃亡百姓の在家を学名に引籠めず領家地頭で折

    半する」ことである。次に地理的に近接した太良庄におけ

    る承久の乱後二十余年を経た寛元々年人一二四三)の地頭

             ②

    若狭忠清の非法としては、百姓名聖地#畠等の名田押領。

    山導代早強の賦料銭。塞佃・科料銭・在家役・大草等が見

    られるが、百姓名の押領、名主百姓への直接支配∴賦課等

    鎌倉期地頭非法のごく典型的な竜のと考えてよい。従来地

    頭非法が通常鎌倉昏黄のものとして述べられたのは、主と

    して皮料的制約によるが、承元々年の国富庄と寛元々年の

    太良庄とをくらべると、その闇約四十年のへだたりがある

    に掬らず、後者の賦課に銭貨の明記が多く、貨幣経済の滲

    透をいくわか感ぜしめる竜ののある外は、全然庄園の内部

    構造について本質的な性格の変化を見ることができない。

    大雑把にいえば、承久の乱の前後を通じ庄内の階級関係、

    生産関係の変化の見られぬことが、地頭非法の形態の同質

    匪の原論と見なければならない。そのような大きな変化は、

    南北朝内乱の前提としての鎌倉末期、主として文永期以降

    についてしか期待しえないのである。且つまたその様な事

    態は在地における生産力の発展と、武士農民の成長が著し

    くなることによって加速度的なはげしさを見せるものぞあ

    って、承久前後においては、強い古代勢力の残存の中ぞ停

    滞にも似た緩漫な進歩を示してしかいないのが、少く竜畿

    内及び周辺地域の実状であったといわねばなわない。

     かかる説明に若干の疑点がのこるとしても、しばらく若

    r狭の庄園乱書を離れて承久の乱を考えた場合、例えばそれ

    を南北朝内乱と比較した揚合、乱後の幕府の処分の派手な

    点を除けば、乱の期闇・地域酌ひろがりを考えて見ても、

    先ずはこの程度で満足しなければならないのではないか。

    我六にゆるされるのは、これを文治以来の地頭設置その他

    によって醸し出された武士と貴族の寿立の延長として政治

    衷的に考える程度のことであって、基本的な在地構造の矛

    38 (38)

  • :承久の翫の歴史酌評価(上横手)

    盾の累積爆発をこの内乱と直接的に結合させることは不可

    能なのである。

     とはいえ承元々年と寛元々年の開の変化を全く無視する

    こと竜誤である。 岡じく国富庄で乱の直後承久三年(一二

                      ③

    二一)壬ナ月の行官御祈願事所下文によれば、 地頭代が領

    家使を陵礫し、公.家長日御製用途を追捕し、それを弁済し

    ないとある。承元々年の非法が百姓に対するものであった

    に対し、ここぞは非法が庄園領主に対してなされているこ

    と、しかも当駅が太政官厨家の支配下にあったという特殊

    事情は、その政治的意義よの見れば、注目しなければなら

    ない。承久の乱は地頭の上にお設いかぶさっていた暗雲を

    しりぞけ、地頭をして敢然として公家長日御壷用途米を追

    捕せしめたのである。

     乱後の地頭非法の高まりは確に倒しい。然し乱の直後の

    みを問題にすれば、それは決して地頭領主制展開のノーマ

    ルコースーそれは地頭の農民支配に視点をおいて考察さる

    べきであるtとはいささか趣を異にし、預所・理外を追繊

    し、不輸の私領の如く沙汰したり、或は守護所の不法の入都、

    兵粧米徴発、庄島追放等、著しく武力的、暴力的、政治的

    色彩の濃厚なことである。各庄の文書より、この種の非法

    の多かったことは知られるが、非法の性格上その内容の叙

    述は概ね簡略で具体的に知ることは難しい。紙園社領丹波

    二女財部保で、三升米を与えられた爾戸朝守が、僧快顕や

    桂文法師と語い、下司を追放し、土民の資財を追捕し、守

                    ④

    護の下知にも背いたの等その好例であろう。その意味で豊

    山庄における承久三年の地頭代の非法は、矢張承久乱直後

    の非法の一典型をなす竜のである。

     乱の後、官宣旨がしばしば嵐され、武士が諸国諸庄に兵

    線型を濫責し、地頭が領家使に背くことの停止を幕府に要

    求し、その代償として備前、備申を幕府に与え凸或は地頭

    が分を超えて土宜を侵す結果、国衙庄園がそれにかけつけ

    て乃貢を怠る、庄公の故愁訴を留め、地頭の勲労を賞する

    ため、ナ一町に一町の給国、段別五升の加微米を与えるこ

    とを定め魍のは・かかる畿の動向に対す喬勢力の対応

    策であった。しかし乱㎜後の旧勢力の実力を考えても、かか

    る官宣誓を死文と化せしむるや否やは全く幕府のこれに対

    する態度の如何に依存する竜のである。ここに、㈲の地頭

    御家人の欄題即ち、⑭にあげた幕府が保護し、また勝利の

    39 ( 39 )

  • 源泉でもあった御家人に対する幕府の態度を論ずることが

    必要になった。 (三七頁下段参照)

    2、貞応元年(一夕ニニ)四月、守護が盗犯等を成敗するを

    停め検非違所の沙汰たらしむ一……また給分の外領家・預

    所・郷覇の得分を押領し、或は彼等を追放するを停め、非

    法者は改易せしむ……五月、六波羅をして代官を諸国に遣

    し、守護・地頭の濫妨を禁ぜしむ………二年一月置畿・内酉

    国の在庁をして守護地頭の所務を注進せしむ……七月、薪

    補地頭の沙汰すべき条六を定め、得分・郡内寺社・公文田

    所落主惣追捕使有司・出野河海・犯過人糺断の五ケ条を規

    画伸

    キ:::{女貞一兀年(一審ニ七)、 六波羅をして諸国{寸{護の所胡

    務につき貞応二年の下知を再認し、併せて市津料供給等に

                  ⑥

    つき守護所張行の禁止を沙汰せしむ。

     此の様にしてやつぎばやに出された一連の政策が、武士

    の非法を抑圧しようとしている点で共通しているのは潅目

    される。承久の乱後極く短期闇に行われた非法は、薪地頭

    の大量入部、承久の乱の興奮等を背景とした暴力酌形態の

    強いものぞあったが、反面着実な領・王制展開の結果として、

    或は道程としてなされたものでない弱さを孕んでおり、そ

    の非法の暴力性は、幕府をして搾圧の必要を認識させ貞ま

    た非法の根の浅い弱さが易々として非法抑圧を成功させ、

    却って執権政治下における相対的安定をもたらしたのであ

    る。竜とよりかかる安定は、領主制、農奴制の発展の特定

    時点における過渡的な竜のにすぎなかったのであるが。

     また逆に言えば幕府が地頭非法昇圧の為に費族・寺拙等

    と妥協し、薪に神聖同年の主唱者となったことを意味する

    であろう。幕府とその法とが客観的には庄園制擁護の機能

    を果す時期が始まるのであった。しかしここに及んで乱後

    の幕府の圏勢力に対する態度 ω、即ち ㈲にあげた旧勢

    力の内部分裂から敗北した院、また事変に対して介入しな

    かった摂関以下の貴族・社寺等について乱後の問題を考え

    ねばならないQ (三七頁下段参照)

    3、承久の乱を膚名にして居り、またそれだけに 乱後の注

    目すべき政策で竜あった一つの事実は、三上皇の配流と一二

    干余箇所に上る京方所領の没収である。何よりも直に目に

    つく乱の成果は、院庁を申核とする保守連合一それは遂に

    完全な形ぞは実規されなかった一の瓦解ぞあ夢、反動的な

    動きの拠点となっていた院政の終末、幕府の政策に対する

    ro (40 )・

  • 承久のViLの歴史,的評価(上横手)

    組織的障害の絶滅である。

     しかし乱後滅亡したのは、院政とその寄生者たる一部貴

    族であって、貴族層のすべてではない。慈円はその摂関的

    立揚から、君臣を離間する急進討幕の院近臣を…排除し、摂

    関を中心とし文武一体として君を補佐するという政治思想

    を吐露したのであるが、皮肉に竜乱後の政治形態は形式的

    には全く彼の理想と一致している。しかしここに生き残っ

    た摂関酌政治形態は、丈宇通りの残映であって、彼の考え

    た妥協的、現状維持的オプチミズムの実現でもなければ、

    院政に代る旧勢力による新鮮な政治形態の創轟で・もない。

    彼等の生活圏は益々倭小化し、廟堂その栄達という閉鎖直

    な潤酌にのみ執着する。 一旦没収された皇室領が返還され

    るにしても、最早皇室は高踏的な名義上の収取者でしかな

    くなったことは、「昭慶門院御領目録」に見える神野真国

    庄が、具体的な史料からは、高野山の支配をしか辿り得ぬ

    ことを見ても明かである。反って幕府の分裂策に阿落し、

    操縦されつつ、五摂家の分裂、両.統の迭立という憐むべき

    対立が生れる。鎌倉初期に貴族のために最後の光芒を放つ

    た歌道の流れが、後には冷泉・京極の商気に分裂し、皇室

    における両統迭立と結び乍ら、文学的創造力を失って行く

    のも無理からぬことである。

     然し寺社、とくに畿内の大寺院の配合はいささか事情が

    異る。幕府はその支配外ぞの唯一の組織的武力たる寺僧神

    人の兵杖禁止につとめた。然るにその庄園に対しては概ね

    これを保護し、反って地頭の非法を禁じている。乱後宿敵

    熊野より南部庄を奪った高野山は、楽弓地頭に先例を守り

    高野山の供燈料を沙汰すべしと命じた六波羅の下知に接し、

                      ⑦

    「王臣滅亡豊後、人法繁墨之最初」と讃歎し、また順徳天

    皇を本所として細面使光親を領家とした高野山領神野真国

    庄は、謀叛人光親の所領であったに拘らず地頭設麗の防止

         ⑤                 。

    にさえ成功した。僧兵の供給源たる庄園を保護しつつ、息

    杖を禁止するというのは大きな矛盾であるが、それ故に僧

    兵の活躍に院政期の華やかさは失われても、より現実的に

    庄園支配を中心に一層指濃化し、庄園経営の上に立って社

    寺勢力を強く残存させることとなったQ

     乱後の幕府が地頭非法の抑圧を行い、旧勢力と妥協した

    事情には、旧勢力の或る強力さを予想しなければならない

    が、、幕府が遂に抜き得なかった旧勢力の最強なる亀のは、

    al ( ・il )

  • 実にこの寺院勢力であったといわねばならぬ。唯寺院勢力

    の動きは、庄園経営に重点が注がれ、それ以外については

    殆ど政治的な動きを見せないため、その強力さが屡々政治

    奥的考察の将外におかれ易いのぞあるが、寺院こそ非政治

    酌たることによって最竜政治的な一勢力であったと見なけ

    ればならない。

     さて大寺院を中心とする庄園制の強い残存は、それらの

    寺領における領主制、特に畿内のそれの展開に大きな影響

    を及すのである。ここに我々は、.院政成立の基盤として考

    えた庄園領・王勢力と対立する畿内領主層(イ、c)の問題

    に視点を移さねばならないQ (三七頁下段参照影

    4、治承 寿永の内乱後、平氏の所領であった雪田庄は、東大

    寺に返還され、国司も空也杣への国役を免除し、靹田出作田

    の所当官物も免ぜられ、更に平家没官蚕繭として設置され

            ⑨

    た地頭竜停止された。確かに東大寺の支配はつよまり六諭

    に結びつき成長しつつあった在地領主制の芽は絶たれたの

    ぞあるが、彼等が平氏に結びついていたとい・つ特殊事情に

    あるだけにこれを以て全般を推すことは適例でない。しか

    し雷滞・氷一一年(=八三)には、このよ鴨りにして閣既比が東大山守

    領たることが確定されたに拘わず、その後も嵐作について

    在庁官人と東大寺との争いは続けられているのぞある.在

    庁が爵作地を多・宝認定して賦課せんとするに対し、東大寺

    は元暦元年(一一八四)面当官物を免除された靹田庄六十余・

    町以外に愚作はなく、他はすべて本来の寺領ぞあると主張

    し、また在庁側ぞは建仁元年(一二〇一)伊賀が興福寺に寄

    附されると、興福毒と結んぞ同庄を国領たらしめんとし、

                       ⑩

    靹田村をも文治以後押領の地と称するのぞある。

     しかるに承久一ご年七月の官事冒は、東大寺領二十一ニケ庄

    に武士の狼籍を停め、翌年には東大寺が白河郁幽門両院の

    菩提を購うという条件で六条院の愈愈が停止されるのであ

    ⑪る。すぞに六条院の問題は欝永に解決されたと思ったが、

    ここでそれが再確認され、而も東大寺の住侶はこの院宣を

    うるための猛遮動を行っている。そして院宣は只寿永二

    年)寺家准~退直後三十A爪年、院{琢叉一蚊二勤謀禰一」した状態へ

                    ⑧

    の最後的解決であることを述べている。とすれば院政の続

    く限り、六条院領寒蘭庄は東大寺と執表し、承久の乱の結

    果東大寺に敗れたことになる。東大寺成宝僧正が「天平以

    来、未レ合二比程之喜一候」といったのも無理からぬことで

    農2(42)

  • 承久の視の歴史約訴価(上横手)

      ⑭

    あった.そして乱後在庁・六条院の東大寺に対する攻撃が

    見られなくなったのは、実はそれらに結びつく在地領主層

    の東大寺への敗北を意味するものといわねばならない。

    ・越後恩賞として新補された地頭は、多く関東の御家入ぞ

    あった。成る程彼等の非法には大きな制約もあったが、・然

    し敢えてその制約の申ぞ地頭として発展して行く余地もあ

    った。今「淡路国太田文」を見るに、承久の乱後国御家.

    人ぞなく地頭に薪補されたものが十人も居るが、同国内で

    地頭級以下の御家人が地頭に昇進することは困難ぞあろう

    から、彼等はおそらく関東よりの入部者ぞあろう。私は鎌

    倉中期においてこれら新入地頭(主として関東からの)の

    麦配下に、畿内及びその周辺地域の領主乃至は名主が陣翻

    していた状態を推定したいのぞある。

     実は靹田庄の平氏などは畿内及び周辺の領主中では最も

    まっとうなものであったのではないか。本当の畿内一淀川

    流域を中心とする由城・摂津・河内・和泉等一の揚合、伊賀

    ほどに強く在地に根を張る以前に権門に吸収されて人身関

    係を通じて貴族と結び、その関係が遙かに後代に迄持続さ

    れるようなより脆弱な領主・名主を想定することがで竜る

    のではないか。私は承久の乱における院方とこの地方との

    関係を非常に密接な竜のと考えるのであるが、紙数の都合

             ⑪

    上、別稿にゆづりたい。しかし若狭太良庄で「地頭し及び

    「預所」に黒まれて没落した「御家入」とは、実はかかる

                    ⑭

    畿内型御家入のことであろうと思う。

     鎌倉幕府、厳密には執権政治下における専制支配はかく

    の如く点て成立したのぞあって、かかる諸勢力に対する幕

    府の政策はその線に立って打ち出されたのであった。

    ① 続左丞抄巻一所収承元々・一二月阿将軍家下知状。この地頭

     が誰かは不明であるが、 「若狭国守ψ護職次第」 「若狭国〃祝所今

     出旅疲領主代々一次第q」 に記載の 「遠蜘駅郡#月【二方郡此内十六箇【翫桝」

     中に含まれているとすれば、元久元年以来漆々見(若狭)忠乗

     が地頚であ”、②の太良庄の地頭と岡氏となP、比較の意味は

     益々深くなる。

    ② 東寺百合丈書は寛元々・一一・二五六波羅裁許状。

    ③ 諸国庄保無終承久三・後一〇耳周行官御貰願事鼻下丈(大日

     本史料五之一)

    (W

    @ 

    _園祉記傭親録ゐハ所収承久三・壬一〇・ 一四軸幕府御教轟賞

    ⑤ 東寺丈欝室外一-一一承久三・一〇・二九官宣醤 三編追加

     本牧制M塑願門条講八応二・六・ 一五宵戯事凶照。

    43 (43)

  • ④この項、侍所沙汰篇、薪編追加(本薪地頭条、守護行事条)

     跳鼠訳解(貞応元・五・二八、安貞元・三・一,七条)筆による。

    ⑦高野麻秋編年輯録収量久三・八・一二条。

    ③’江頭覆治博士「紀伊国神野・真國荘の研究」 (「高野山領荘

     園の研究」)参照。

    ⑨ 東大寺丈書八寿永二・壬一〇。二一後白河院庁二丈案 寿永

     三・二・一九伊賀国庁宣案東南院丈書四ノ四元暦元・八・九

     源惟一義下丈  保坂潤治氏所蔵山久轡二・九山バー八暑文治五・閃円・七

     源頼朝下丈 同年四・七及七・一一源頼朝書状 尚越えて蓄妻

     鏡建久元・四・一九条に「内宮役夫工米新未済成敗所々事……

     伊賀国靹閏野作、非晶家人知行之所一、付当本所一、可レ有昌沙汰一

     難しとある。

    ⑩  富八大寺文書建久四・六属μ口{果大出寸三細W志A法師解川 虜学穴一⊥久瀞費

     五建仁元・四月膏伊賀團在庁官人等言上状 同年七月臼官二面

     {築 (?) 東粛…院文書五ノ 一山ハ同年四月口H東一八寺堅目四大法師等解…

     案。

    ⑪⑫ 東大寺要録巻二承久三・七・二七官宣冒 同貞応元。七。

     下直後高倉院宣。

    ⑱ 閥(貞応元) ・七・二四東大寺別当僧正万宝請丈。

    ⑭ 林髭辰三郎氏「散所 その発生と農開一古代末期の基本的課

     題1」 (史林三七ノ六)渡翅澄央氏「畿内庄園における均等名

     の歴史的性絡担」(竹内理三氏「肩本封建制成立の研究」所収)は

     夫々の立揚から、この聞一題に…冒及されているが、・蹴脳内における

     武士の成立自体を聞題にする上で竜、今後この地域の意嚢を明

     かにする必要がある。

    ⑧東寺百含丈書ノ建長二

     俊雄氏「若狭國太良庄」

     収)二〇九頁参照。

    ・六月庭上一国御家人等訴状 認証爾

    (柴田康ハ教授「庄園村諏踏の綴一躍 」四

    六、結びにかえて

     かくて承久の乱を幕府の立揚より考察するならば、それ

               一

    はすべての旧勢力を直接自己への脅威をなし得ざる形にお

    いて温存し、それと妥協し、また地頭御家人の発展を制約す

    る形で、新な専制支配をうちたてた一種のテルミド…ルで

    あったと考えなければならない。その中で院政に三って成

    長の血路を見出した畿内領主層は、庄園領主勢力と地頭勢

    力に挾撃されつつ一旦の没落を経験しなければならなかっ

    た。かかる状況の中で、平妥期の延長でもなく、南北朝の

    前提でもない最も純粋な意味ぞの鎌禽幕府的秩序は、暫時

    の安定を形作るのであったが、それは在地諸勢力の成長に

    対する一つの対応がもたらす過渡的、粗対的な安定であっ

    たといえよう。承久の乱とその後を私は一応このように見

    通しておきたい。 (三〇・九・一七)

    4・1(騒〉

  • The Development of Theogony in K:ik至(記紀)

    family genealogies,ftnd posit三〇ns of gods

    by Masaaki Veda

        .The蝕al settle皿ent・f the theo9・ny・f Kiki was・n・st certainly

    ’accomplished i.g the course of the end of 7 th century througli the

    beginning of 8th century, the clynasty of Temmu having been the most

    imPOrtant Stage. HOWeVer, there had beeユ1 pfeCeding StageS.工11 f血Ct,

    ,genealogies had come to be recorded with letters through the period of

    ’the establishment and the development of the herbditttry kingship, ttnd

    the unifieation of the genealogy of the roya} family wi’th that of other

    ”fai)iilies had been being intxde in those ye[trs of £he crisis and then the

    prosperity of the royal court.Thus it is necessar}r to stxidy the eariier

    stage of the development ef the theogony, coveriiig 5 th century through

    the earlier half・f 7 tl・㏄nt町. This es町iエ・繍ds.t・disα・ss lma(present

    time,今)in the fe.mily ge豆eal・gies, the divisi・n・f thei}’gr・wth into

    ’three stages, and the eariiest and the ]atest periods of the development

    of the theogo町.:From the study of the血mily genealogies in Kiki, the

    re1㌶ion between Takemikazu()hi-no-ka皿i and Nal〈txto1ni-uiji,細d that

    ’1)etween. Amenohitoitari-no-mikoto and lzumo-tiji, it has been ck,rified

    ’that the period of the later ha!f of 6th century through the earlier ha]f

    of 7th century was important En the course of the settlement o’f the theo一

    №盾獅凵C which was connected with the rituals ?.t the royal court. Such a

    ・complictited development as in the theogony of Kiki mal〈es it diffc-r in

     qua球ty frollユ Theogonia by H二esiodus and other theogQ工江es・

    The Signlεcance of Jokyu-110-Ran(civil war o£122!承久)

    by MasatEtl〈ge Uwayolcote

        In the study of Jokyu-no一:R.an, the Kttmakur.i(錆ff倉)Govemment

    ・and出eエnSei(the rU!e by eX-emperOrS,院政)must not be diSre一./garded. ln thls connection, however, not only the theoretic?,/ discv.ssions

    bgt also the in veStigatioll of the histori(滋process aτe necessと貯.

      The lnsei was dependent on both Kokuga(govern1ぬentaH&nds学習)and Shoen(manors庄園). ln・this dual co・・1ユection,as for KiiLai(畿

    .内)districいhe landl・rds were f・r the lnsei, whiユe the great temples

    ・and nobility of xnanors were against it.

        The est乙しb!ishe箪ts of the RokuhとLra(六波羅)and K:amakura Govem-

    ments.were nOt fatttlly effective on the lnsei. }lowever, with tliem, the

    ・econbmic foundatioi) for the former governing class (nobj!ity) was endan一

    /gered.’ rl[’hus the competition among the nob]e class was promoted. The

    ur.(rent need of re-imifictition of former atithorities coulcl not overcoixte

    ithe inner struggle of the cittss.

    (88)

  •     It is imposible to tuiificttte the nolility as one united power af

    Jokアu-110-Ran. The economic fou且d艮tioハ of the 工ぬsei lxla}r h?.ve bee皿

    stroii ger than tliat of the 1〈amaknra govermnent. But the noble class.

    which suffered from iD鵬r corlfiicts, could llot exalt the economic supre-

    macy to a political one. Nttturally enough tlie nobillty was beaten.

        Around the period of Jokyu-no-Ran, the sh’u¢tu}’e o£ mttnors fi.nd,

    the situとLtion of Jitoh{ho (illegal resistence b}r sherifξs,±一也頭ヲ匡法) seems

    not to have changed renaarkab]e. Thus the incident cttnnot be explained

    as the t・tccumtvltttion of socia! evils.

        The results Qg. Jol〈yu-no-Ran are as the foi lowing. a) IFor Jito・

    (She「iff地頭)and Gokeユ加(御家人):aseries of regul批tions preventing

    them from behaving tigainst manor were issued by the .1〈amaktu’a

    government. b) For the temp]es, and the noble class:above all the

    acuLtual disappearacnce is remarl〈tLble. Hlowever, after all the govern-

    ment lutd to compromise with the power of the temples. c) For the-

    1and}or(is in Kinai;whidh was formerlアsupporter of the I11(院), has

    ・come to cease its development under the oppression of both power of’

    the temples sti11 existant and the inva sion of Jito

        In short, ttfter that, the concentrated domination of the Kamakura

    Governmei)t was established, preserving the former ttuthoarities as far as・

    theアwere not dangerous翻d preventing the growth of the landlords.

    Historicai G eography of the Utilization of Water Power

    by Yoshiyuki Sueo

        To utilize water power as e1iergy source is the mttin object at pre一一

    sent under a pltu) of “ Re1nodel!ing of NatvLre. ” A/though water power’

    is now used as hydroe/ectricity, it had been greatly used to move watey

    mi13s before the tin’bine or dynaino wets invented. IE{exe the author’s

    intei]tion is to study the difference$ or resemblences of the rel ation of’

    Nature and the tecliiiique between the history of direct utilization of’

    water and tlittt of the ritilization of water as hydroelectric power.

        NVater mills xvere a!ready used ln Apcient Times for corn grinding,.

    but they h?.ve come into genertxl use in Middle Ages. As for the mechii一一

    nism of mill, it had been invented as the mechanism of paddle wheel

    turned by stream for the purpose of drawing up water for krrigatlon1)efore it wおused fbr com grindiiユg, that is miiling. Throlユghもhe M三ddle

    Ages water millf were used not oidy or for producing fiottr but a!so

    as waterfuLmmer or waterbel/ow in metallurgy or for other pui-poses.

        The ntilization of water bア皿i11s Teached the peak when it gave

    birLh to the ineclranization of cotton industry with waterfraines :一u]d wa-

    terlooms. After the inventio捻。£st購m.一engine bアWatt, the utilization

    of water poxver has come to die disregt}rded. }lowever, the ar・rival off

    hydroe!ectric er‘a anticipates the coining bt}cl〈 of water power tLge.

    (87)