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Title <論説>古代僧官考 Author(s) 田村, 円澄 Citation 史林 (1964), 47(1): 43-67 Issue Date 1964-01-01 URL https://doi.org/10.14989/shirin_47_43 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

Title 古代僧官考 Citation 47(1): 43-67 Issue Date URL ......④ 8 狛大法師 都響句麗の大法師の謂である。契仲が狛大 になる。(法興寺)に住した。斉明天皇四年に.中臣加子は山科の三

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Title <論説>古代僧官考

Author(s) 田村, 円澄

Citation 史林 (1964), 47(1): 43-67

Issue Date 1964-01-01

URL https://doi.org/10.14989/shirin_47_43

Right

Type Journal Article

Textversion publisher

Kyoto University

Page 2: Title 古代僧官考 Citation 47(1): 43-67 Issue Date URL ......④ 8 狛大法師 都響句麗の大法師の謂である。契仲が狛大 になる。(法興寺)に住した。斉明天皇四年に.中臣加子は山科の三

了!y .fk f曽 で藍ぎ ・考‘ (1.1達村)

”一{,ハ

  【要約】 六世紀後半に購本に伝えられた仏教は、物部氏の滅亡後、蘇我氏の主導のもとに興隆の一途を辿るが、これまで傍観的立

} 場にあった公権力へ天皇)の側からの仏教(繕尼・仏寺)に瀕する規側の間題が生じてくる。推古天皇による僧官設置は、その端初

漏難ビ継継満総嫁赫薩評醗橡謝蹴聾鶴旭値羅馬一鞭繍配報・

 法頭の任命があった。天智の時代の僧窟は、僧正(長官)…僧都(次官)1法頭(判官)一佐官(主典)の四等官の職制をとっていた

                                                          い

 が、賞翫による僧団統制を非難する「仁王経帰の國家的重用の群籍におされ、天武の時代において、俗人の法頭を退けて律師を置き、、

 後の僧綱制の療形を整えたのである。                                        }

 ~;㌔:.一:’一」.’、’ド 、   、  ーー::ーー」一,一.、;:」=一~一{ーーー、~一 ;:;、;.;、.~’:一、:; 一:r一  .炉「=一.:一 ㌔:r、「.:、篤

                              度の祖形と考えられる北斉の僧官制度との相互関係につい

    は し が き

                              ても、注爲すべき問題を含んでいる。これらの点について

 律令欄施行以龍において、中央区司としての機能と権限

とを付与せられ、制度史的にも、その後の発展の経過を辿

りうるのは、推古天皇三十二年(六二四)に設許せられた僧

宮制度である。この僧官制度が、後の僧綱制の直接の源流

であることは、いうまでもないが、また玄熱傷の系譜的な

始源としての一禰をも担っており、さらに、推古の僧官制

           ①

の論究は、別学にゆずり、本稿では主として大化以降、律

令制施行以前の僧官制度の変遷推移を、制度史的視点にお

いてあとづけることともた。叱正を与えられれば幸甚であ

る。①

拙稿「鴻駆寺と玄蕃寮」(贈、臼本仏教臨一九号)・「玄捲雲戒

 立考」(「虚日本紀研究漏一〇巻四・五合併号)。     .

43 (43)

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一 大化の僧官一十師・寺司・寺主・法頭

 皇極天皇四年(六四五)六月に、中大兄皇子・中臣鎌子ら

改新政府一派の謀略によって、蘇我氏が滅ぼされたが、ニ

ケ月後に、改新政府は僧尼を大寺(法興寺)に集め、政府の

細面の仏教政策をあきらかにする詔を下した。そのなかで、

蘇我氏歴代の仏法興隆の功績を認めるとともに、蘇我氏な

き今、天皇が蘇我氏に代り、仏法興隆を推進する旨を述べ、

さらに十三・寺司・寺主・法頭の任命を行なった。すなわ

ち『臼本書紀』大化元年八月条によれば、

 遣v二使於大寺一喚ゆ聚僧尼上而詔日、 於=磯城嶋宮一御宇天皇十三

 年中、鳶済明王奉レ伝昌仏法三三大倭↓三時、継臣倶不レ欲レ伝、

 而蘇我三目宿禰独信晶三法{天皇乃詔=稲昌宿馬階使レ秦轟其法輔

 於昌訳語闇一一御宇天皇三世、蘇我馬子宿禰追尋昌考父之風(猶

 重篇能仁漂遊唖而除燈不レ信、此典幾亡、天皇詔一一孝子宿禰一斗使

 レ奉昌其実↓於昌小墾田宮一御宇隔世、馬子宿望奉二為天皇}造晶丈

 六受像・丈六鋼像嚇顕輪揚仏教一恭晶敬僧尼嚇朕更復思丁崇}「正教「

 光串啓大猷よ、 故以篇沙門狛大法師福亮・恵婁・常安・三雲∴忍

 灘・寺主僧曇・道登∴忌隣↓旧庵二十師一例隠蓑心妙法四一語漏百

済寺々主↓此十師等宜下能教昌導衆僧↓鯵二蕎釈教}要使歩如レ法、

凡自=天皇一至一…予伴造一所レ造野寺、不レ能レ営者、朕皆助作、令レ

拝ミ寺司等与鳳寺主↓巡肌行諸寺嚇験亀僧尼・奴鹸∵田畝之実↓而

尽難民、輝以亀鑑目臣〔欠名〕・三輪色夫君・額田都連甥一為二法

頭嚇(国史大系木による。)

 右の詔の前半で仏教渡来以降の仏法興隆が、あたかも歴

代天皇の主導によってなされてきたように記すのは、史実

に反している。仏法興隆の主導権は、大化改新担前まで、

              ①

蘇我氏の掌握するところであった。

 さて、大化の僧官のうち、弓師から検討をはじめること

とする。

 十三には、衆僧教導の任務が与えられた。衆僧の仏道修

行は、内法(仏律)に基づかねばならないが、十師は、衆

僧の内法遵守に責任を負ったのである。思うに蘇我氏の急

激な没落に対処して、これまで法興寺の僧正が掌握してき

た僧尼検校の権限が新設の十師に移譲せられたのであろう。

大化の十師の祖形と考えられる唐高祖の武徳二年(六一九

・推古二七年)の難戦大徳制が、僧尼の統摂・法務の綱維の

ため、当代の高僧・大徳より選出構成せられ、しかもわず

44 (44)

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古 tc 僧 官 考 (日1 *・i:)

                     ②

か数年間だけ権置せられた中央僧官であったように、大化

の尊師欄も、仏法の外藩春蘇我氏滅亡後の新事態に対処す

る一時的便法であったと考えられる。従って推古の僧正お

よび僧都の地位と職務は、十二に吸収せられたとすべきで

あろう。なお大化の十師創設、および改新政府による一連

の仏教政策は、二十五年の長きにわたって在学し、新政府

樹立後は、国博士として活躍した二挺の発案によるところ

が多かったと考えられる。

 大化の十師の職掌は、衆僧教導であるが、しかし、十師

創設の歴史的意義は、庭藤各人の地歴を一瞥することによ

            ③

り、あきらかとなるであろう。

 十師の定数は、その名称からも知られるように、十四で

あったと思われるが、しかし前掲の引用文においては、八

名を数えるにすぎない。 『書紀』の中臣本は、恵隣の下に

「恵妙レの二字を加えるが、これでもなお一名たりない。

『書紀集解』は、さらに「粗妙・恵隠」の四字を補って、

劇毒とする。しかし冒頭の「沙門狛大法師」と「縮亮」と

は、別人でなければならないので、もし巾距本のように、

恵妙を加えると十名となり、十師の人数は満たされること

になる。

 8 狛大法師 都響句麗の大法師の謂である。契仲が狛大

               ④

法師の下に「失レ名乎」と記した○は正しいと考えろれる。

推古天皇三十三年紀に、 「高麗王貢二僧恵灌ハ傍任二僧正こ

とあるのは、恵灌が、観勒についで僧正に任じたことを示

                      ⑤

している。恵灌も、観勒と同じく法興寺の僧であった。推

古の僧正が、大化の絵師に移行吸収されたとすれば、十師

の筆頭者に僧正恵灌を擬すことは、必ずしも不当ではない

   ④

であろう。

 ◎福亮 呉の人であり駆馳氏の懸垂である。本元興寺

       ⑦

(法興寺)に住した。斉明天皇四年に.中臣加子は山科の三

原の家に、 「呉僧元興寺福亮法師」を屈請して、『維摩経』

     ⑤

を講ぜしめた。粛粛は、藤原氏と師檀関係を結ぶが、しか

し、もとは蘇我氏の法興寺(元興寺)の僧であったことが注

音戸せられる。

 国 恵雲 傍明十一年に新羅の送使に従って帰朝した大

唐学幾十である。その入唐年次についてはあきらかでない。

 ㈲ 常安 推古十六年に遣陪大使小野妹子に従って入唐

した大唐学問僧の南淵漢人請安である。爺明十二年に新羅

45 (4ro)

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を経て帰朝した、中大兄と中臣甲子が、「倶手把二黄巻触自

                        ⑨

学吊周孔之教説南淵先生所柵」と記される「南淵先生」を、

                      ⑩

請安(常安)に擬定することには、否定論もあるが、もし

          ⑪

固一人物と見倣すならば、大化改新前において、請安は、

中大兄と鎌足とを結びつける役を果たしており、従って請

安の立場は、反蘇我氏的であったと解されよう。

 ㈹ 凍雲 斜明四年に、唐使高聴仁に従って帰朝した大

唐学闇黒である。

 ㈹ 温潤 伝未詳である。「本元興寺有二九僧正ハ謂慧観・

                      ⑧

観勒・慧師∴慧如是、前後補任」のす月中の慧師が、葱至に

比定されるならば、恵至は、法興寺の僧であったと考えら

れる。恵師(恵至)は鞍部氏の出自であり、天武二年・に僧

                  ⑬

蕉に任じたとの所伝からも知られるように、恵至と蘇我氏

とは親近関係にあった。

 ㈹ 寺主僧畏 推古十六年に入唐し、幼心四年に帰朝し

た大唐学問僧である。 B本最初の官寺である百済寺(ただ

     、 、 、 ・ 、       、 、 、 、 、     ⑭

し百済寺は、瀦家の大寺ではなく、天皇の私専であった)葎~立に、

積極的役割を果たしたと考えられる。十師任命当時まで、

胃済寺の土熱主をつとめてきた。改新政府の成立と虚誕に、

僧異は、高向玄理とともに羅博士に任じたが、十師の創設

に際し、百済寺肉主の職を恵妙に譲っている。けだし僧侵

は、閣博士としての職務に専念することを求められたので

あろう。

 ㈹ 道登 もと高句麗の学生であり、法興寺に住してい

⑲                       ⑭

た。山城の宇治橋を架したことは著名である。

 ㈹ 磯之 伝未詳である。しかし、前路の「本元興寺有

九僧正」のうちの慧輪は、この恵隣と間一人と考えられる。

慧輪は大原氏の出自であり、天武二年に、恵師(留口至)ら

          ⑰

とともに僧正に任じた。もとは俗人であったという。恵隣

が、法興寺の僧であったことはあきらかである。

                        ⑱

 の 恵妙 着電に代って、百済寺の領主に任じたこと、

また天武八年に病臥したとき、天武天皇は草壁皇子を見舞

いに遣し、恵妙が寂すると、三人置皇子を遣して弗わせた

 ⑲

こと、が知られるにすぎない。

 さて十師(恵妙を含めて)の行歴を通覧して気付くことは、

法興寺…闘雨雫と、大唐学問僧とのあざやかな対照である。

すなわち、懸樋法師(葱瀬)・福亮・恵至・道登・恵隣の

五名は、法興寺に住し、または法興寺から繊議しているの

46 (46)

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“占代僧官考(附村)

に対し、恵雲・常安・霊雲・僧曇の職名は、いずれも大唐

学鎌脚であった(百済寺主であった整骨・恵妙をのぞく他の三名

については、潮脚仏寺をあきらかにすることができない)。法興寺

を介し、蘇我氏が仏法興隆の主導権を掌握している段階に

おいて、大陸や半島からの帰化系に属する恵灌・禰亮ら五

名の僧は、法興寺を中心とするいわば「古い仏教」を代表

しているが、他方、撃壌ら四名の僧は、直接、大唐に学ん

だ新知識であり、 「新しい仏教」を代表していた。 「古い

仏教」につながる前者の僧は、蘇我氏の側に立っており、

「新しい仏教」を伝えた後者の僧は、天皇ないし宮廷に結

びついている。恵妙が、大唐学悪僧…であったか否かは、あ

きらかでないが、しかしその経歴から推して、僧暴などと

同様の、天皇側の僧であったことは疑いえない。

 蘇我氏崩壊の非常時態に際し、衆僧教導の任務を帯びて

登場した十階は、藤代における第一級の指導的大徳であっ

たが、しかも出身による色分けは、蘇我氏につながる法興

寺関係の僧と、天皇(心延)に直結する大唐学問僧(叢叢は

大唐学部僧に準ずる)とが、 おのおの半数を占めていた。十

師の構成に見られるこの配慮こそ、クーデターによbノ、軍

事的に蘇我氏を醐覆せしめえても、しかし、法興寺を拠点

として、蘇我氏が把握していた仏法興隆の主導権を継承す

ることが、改善政府にとって、容易でなかった事実を示し

ている。

 十師の編成任A叩にあたって、改新群来は、譲歩を余儀な

くされているが、しかし、改新政府の誌面の仏教政策は、

法興寺を頂点とする仏教教団の既存秩序の全動的肯定、ま

たはその黙認ではなかった。

 では、改新政府が直轄する仏教政策の中心は、どこに求

められたか。それは第一に、大化元年八鍔詔の前半が示す

ように、天皇(11改薪政府)みずからの擁越化、すなわち、

蘇我氏が推進してきた仏法興隆政策の継承であり、第二は、

寺主・法頭の任命にうかがわれるような、蘇我氏打倒笹後

の緊急事態に即応した仏教統制の強化であった。

 寺司の職掌は、「自門天皇一至昌干伴造ハ所レ造之寺、不レ能

レ営者、朕皆助作」という改新政府による仏法興隆の具体

         ⑳

策実施に関連している。ここでいわれている天皇の寺は、

野明 大上の百済寺を指し、伴造を含む当時の豪族の私寺と、

鋳格に見倣されている点が注口されるが、これらの仏寺造

47 (47)

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                         ⑳

営の助成は、従来、蘇我氏が行なってきたところであった。

 思うに大化の寺司の設置は、晴および唐初の道場監また

は朧腰使の制度に示唆されるところがあったであろう。道

場監は、晴の場帝が、仏寺を改めて道場とし、その造営修

                      ⑳

補のため、道場ごとに各一名が置かれたものであり、「少

くとも官寺の造営等に際して必ず設けられたものなるべく、

私設大寺にも多くこれに倣って臨…時に設置したらしく、後

それが次第に常設化し、遂に大業初年蝪帝によって制度化

されたと考へることが出来る。然るに階及び唐初に監寺が

制度上明らかにおかれてるた閾、これに僧侶が任ぜられた

記録が見流せない。……監寺には俗人の官僚が充てられた

                   ⑳

のではなからうか」と指摘されているように、仏寺造営に

あたった階および唐初の監寺の制度に倣って、大化の寺司

が設けられたのであろう。なお、寺司を後の造寺司ないし

                ⑳

造寺司長官と岡一視する見解もあるが、しかし、大化の寺

司は、一華一名であったと思われ、かつ豪族の私事造営援

助を眼緯とすることにおいて、大官大寺や薬師寺などの国

大寺造営にあたった造寺司、またはその長官と同一に見倣

すことはできない。

 寺主は、湖知のように、僧尼令制下において、上座・都

維那とともに、三綱を構成する寺田であった。もともと中

国古代の仏教教団においても、三綱制が完備する以前には、

                         ⑳

ただ寺主のみによって寺務が管掌せられていたうしいので、

大化の寺主も、これに準じて考えることができるであろう。

 ところで寺主は、当該仏寺の代表春であり、社会的・対

外的な行政行為の責任者の地位にあった。そして討尋天皇

の百済寺の寺主に、僧侵が任命されていたように、{蒙族の

私寺には、檀越である豪族の招請による寺主が、置かれて

いたと思われる。

 改新政府による寺主の任命が、寺司の任命とあいまって、

豪族の私寺の造営助成…仏法興隆政策の推進…一を意図

していたことはいうまでもないが、同時に、蘇我氏の崩壊

を契機として、これまで蘇我氏に同調してきた反改新政府

的立場に立つ寺主の排除を意図する面があった事実も、無

視されてはならない。いいかえれば、大化の寺主任命は、

全く新しい寺主をハ天降り的に、各豪族の私寺におしつけ

たのではなく、従来からの寺主の地位を、改新政府が承謂

する形で進められたが、しかし、改新政府による寺主任命

48 (:!S)

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謡f代 僧脇’考∫1}H歴D

の主眼は、これまで、蘇一癖氏の法醗ハ寺中心の体制一i仏法

の外護者・槽…越としての蘇我氏擁護を結果する  に編成

せられていた豪族の私権を、改新政府支持の体制に再編濾

するにあった。推古の僧官が、僧正・僧都・法頭による中

央僧窟機構の樹立・整備にとどまり、個たの私寺を杷握す

る段階にまで至らなかったことを考えるとき、改新政府に

よる寺主任命は、はじめて公権力による各氏寺の直接的・

鰯別的掌握を可能にしたといえよう。

 なお大化の寺主33よび寺司の任命が、どの範囲の仏寺を

対象として実施されたかは、あきらかでないが、しかし、

畿内、とくに法興寺が位置する大和所在の仏寺への適用に、

改新政府が強い関心を示したであろうことは、これより数

ケ月後に断行された難波遷都とも考えあわせ、推察するに

かたくない。

 次に法頭について検討する。前掲の大化元年八月詔の関

係部分を読み下すと、 「凡そ天皇よ9伴造に棄るまで、造

るところの寺、営ること能はざる者は、已みな助け作らむ、

いま寺司等と寺主とを拝さしめ、諸寺を巡り行きて、僧

尼.奴碑・田畝の実を験へて、尽に顕し奏せ、即ち来H距

〔闘名〕、三輪色美君、額磁路連甥を以て法頭となす犠とな

るが、これによれば、寺司等と寺主の職務は、 「巡行諸寺、

験僧尼奴嫁田畝之実、而尽顕奏」に求められ、他方、法頭

の職掌については、記されていないことになる。この文章

の連続は、いかにも不自然であるが、たとえば家永一二郎博

士の示唆のように、「巡行諸寺」の上に字句の脱落(法頭は

というような意味の字句を入れれば、あとは無理なく文章がつなが

            ⑩

る)があることを考慮に入れ、 「巡行諸寺」以下の職掌内

容を、法頭にかけて解すべきであろう。

 ところで、来織上∴二輪色夫君・額田部面甥の俗人が任

じた法頭が、推古三十二年創設にかか型法頭の系譜を引く

ことは疑いえない。心心の僧官制度に旧いて、僧都は僧尼

の名籍の作成にあたり、法頭は仏寺の名籍の作成にあたっ

 ⑪

たが、大化の場合、 「巡行諸寺、験僧尼奴三田畝虚実」が、

その職務に挙げられていることから考えれば、推古の僧都

(俗人)が掌っていた僧尼名籍に関する職務は、大化の法

頭に引き継がれたと解される。なお推古の野宮制度におい

て、一名であった法頭が、大化において三名に増員せられ

たことも、その職掌内容あ増加の事笑に舛点していると考

49 (49)

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えられるが、しがし、とくに大化の法頭には、改薪政府に

よる当面の政策続行と亀関連する重大な任務が課せられて

いた。

 『日本書紀』の本文によれば、蘇我氏が滅亡した大化元

年九月に、使者を諸國に派遣して、武器を収公せしめたが、

『書紀』記載の「南本」によれば、すでに蘇我氏滅亡直後

の六月から九月にかけて、武器の収集が行われている。改

新政府反撃の武力を封じる意図に出たものであるが、おそ

らく「或本」の記述が、事実を率直に伝えるものであろう。

ところで、当時の仏寺は、軍事力の潜在拠点でもあった。

官階

苴?{旧盆隈隈後、・甲大兄が琉汰曲興烹寸をト磁拠し、改r新派の{猷武

を誇上したのは、法興寺が、蘇我氏の氏寺であったことの

ほかに、また軍事的機能を保持していたからである。

 仏寺の軍事的・戦闘的機能は、直接には、亀住の衆僧の

ほか、奴卿と武器とによって維持遂行された。蘇我入鹿が、

斑鳩宮に山背大兄王一族を襲わしめたとき、奴の三成は、

         ⑳

「一人当千」と謳われ、また壬申の乱には、大井寺の奴が、

                ⑳

大伴連吹負の軍に従って軍功を立てた。 大安寺には、 大

                        ⑧

刀・横刀・小刀・弓・箭などの武器が所蔵されている。

八世紀の箏例になるが、主要な仏寺の奴碑および住僧

                   ㊥

(沙弥)の人数を表示すれば、次のようになる。

  仏寺奴婬・住僧(沙弥)数…覧

L-i

フ[

興寺

八九

Fl

大}隆寺i寺

 …i二i尭機}

        

軽量.

劇刻○ピ到

東1法l l

野寺三4三二さ一

蔭寺一二八}・三巻「五三三一三ハ三蟷範美…天平+九年法隆

              ・、イ摩

薬師寺  七〇』〇二

Fし

…大安寺

 大化改新当時において、豪族の各私響力、

(沙弥)や、また多数の墨型川を所有していたことは推察に

難くない。奴碑、とくに奴は、軍事力・戦…闘力の要素であ

り、しかも、これらの豪族の私等を統率する形で、法興寺

が瀦出していたことを考慮するならば、蘇我氏権力を支え

る墓、盤の一つが、当時の仏寺にあった理山も理解されるで

家族の

各私響

が}

八八七

沙僧弥 、

四四iレ~し11四三1

当1記+警魔剃御帳翻

三{

剣沙僧1

{弥一1

八七.

i七六1

沙弥

相}調轍1灘囎i典      ミ    記十1

響繍続楽日

50 (50>

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、置r ’flr kYi ’膚 考 (a…冬重)

あろう。

 蘇我氏を打倒した改新政府は、豪族の私寺が、反改新政

府の軍事的拠点化することを、来然に阻止しなければなら

                    ち   も      も   も

なかった。かくして、 「諸寺を巡り行きて、僧尼・奴魏・

田畝の実を験へ一る三人の法頭が任命されたのである。思

うに、推古の法頭は、僧尼の検校に任ずる僧正の輔佐とし

て、仏寺名籍の作成にあたったが、この意味での書記的機

能は、大化の法頭にも継承されていた。しかし、大化の法

頭の職裳・において注意されるのは、とくに僧尼・奴卿の管

理ないし把握が加えられている点である。そしてこれは、

蘇我氏滅亡の時点において要求せられた緊急対策というべ

きであった。すなわち、これまで法興寺を介して、親蘇我

上体綱に編成されていた豪族の私寺が(蘇我氏鳳最大の豪族

であると踊時に、最大の仏教外護者であった)、蘇…黒氏の脚口紅に

際し、反改新政府的立場に立つことをあくまでも防過する

のみならず、さらに進んで改新政府支持に転換せしめる凱

的で、寺主・寺司・法頭などの僧官(俗官)が置かれたの

であり、そして改新政府が直輸するこれら一連の僧尼・仏

寺政策の実施を円滑化し脅嚇化する意図の下に、十師の任

命を見たのである。改新政府は、早急な施行を迫られた当

面の仏教政策を、十師の権威を背景として貫徹しようとし

たのであり、その限り、大化の十型制は、その祖形であっ

た唐の十大徳舗と同様に、 一時的便宜的な制度であったと

いわねばならない。

 なお、改新政府が、蘇我氏打倒の半年後、早急に難波遷

都を強行したことについて、 「諸政更新の意気、大陸文化

                    ⑳

摂取の積極約態度などが求められよう」とされ、また、

「改新派は、内政の改革ならびに対外関係への顧慮から、

政治の拠点を新天地に求めたのであって、かれらの積極的

態度が、この企てにもあらわれている」というように、難

波遷都の理由が、改新政府の「積極的態度」に見事されて

いるが、私見によれば、改新政府が忽劇な難波遷都一そ

れは仮の造営であり、都遷の経営もなされていなかったと

    ⑳

考えられる一を敢てしたのは、右の理由のほかに、法興

寺を中心とする飛鳥の寺院勢力-氏寺を通して豪族の向

背に直結している一に対して、不安をいだいたからでは

なかろうか。十師をはじめとする僧官任命、お一・色びそれに

伴う仏教政簸の推進も、仏寺の動向に紺する改新政府の懸

51 (5!)

Page 11: Title 古代僧官考 Citation 47(1): 43-67 Issue Date URL ......④ 8 狛大法師 都響句麗の大法師の謂である。契仲が狛大 になる。(法興寺)に住した。斉明天皇四年に.中臣加子は山科の三

念を解消するまでにいたらなかウたことが、早忽な難波遷

都を余儀なくさせたのであろう。そして八年後の白堆四年・

の飛鳥還都……孝徳天皇を難波に残した  は、改新政府

の「積極的態度」からの後退を意味するのではなく、むし

ろ、飛鳥の寺院勢力(およびその背景をなす豪族)に対する新

しい隙信獲得の程を示すのではなかろうか。

 大化の僧官舗度に関連して、改新政府の仏教に対する基

本的態度に言及しておきたい。かつて家永三郎博土は、

「(

?新政府は)仏教を『正教漏の名に敬遠し、唯政治的統

制の対象たるに過ぎざらしめた観さへあるのである。推古

朝に新設せられた僧綱欄はここに至り俗官の員数増加して

その陣容一説強化せられ、仏教は純然たる被統制者の地位

                 ⑭

に後退せしめられたと云ふことが出来よう」と述べ、大化

元年八月の詔勅が仏教統制史上においてもつ重要性を強調

せられた。

                   も  ち  も  り

 思うに、大化前代の日本の仏教が、すでに国家仏教とし

て定着していたとすれば、改新政府による十師・寺主.寺

司・法頭の任命による仏教政策の遂行は、不必要であった

にちがいない。二七な視足蹴の一つは、蘇…我氏が、法興轟守一

氏寺(各豪族の私寺)を介して、仏法興隆の煮導権を把握し

ており、傍観者としての天白三は、立ちおくれの状態におか

        ⑰

れていた事実である。仏教の外護者であった蘇我銑が、仏

教について傍観春同然の態度をとってきた改新政府一派に

よって打倒され、そして蘇我氏が掌握する仏法興隆の主導

権は、改新政府に一・仇って継承されることになったが、この

ことは、改新政府自身にとって、仏教に紺する繋累的な態

度の転換を意味したのみならず、豪族の私寺(僧尼)にと

っても、政治権力により、親蘇我氏的な伝統的立場の放棄

と、そして性急な改新政府支持を要求されたことにおいて、

重大な態度の転換を意味していた。

 仏教の主導権を確保した改新政府が、豪族の私意とその

僧尼を、改新政府支持に再編成しようとしたとき、国家と

仏教との関係の調整、すなわち、国家舗度における仏教の

位羅づけの問題が、考慮の対象になっていったと思われる。

                     ⑧

そして、私寺青年の権威と地歩をもつ悶大寺の建立、また

「国家仏教」の形成などが、日程に上ってくるのであるが、

ただ改新政府の仏教政策についていえば、 「仏教は純然た

る被統制者の地位に後退せしめられた」とする家永説は、

52 ( ro: )

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”尋㌃ で鴛 {曽 ‘嶽’ ワ考’(しE二i季寸)

その立論の前提において、大化聴代に蘇我氏が仏法興隆の

主導権を掌握しており、そして、これまで仏教を疎外して

きた中大兄一派が、にわかに仏教の主導権を継承せざるを

えなくなった、という現実を見落しているように思われる

のである。大化元年の時点で、改新政府が行なった仏教政

策の墓本編は、仏寺(僧尼.奴卿を含む)の親蘇我氏的傾向の

払拭、改新政府支持の立場への転換であり、従って、単な

る仏教統制の固執・強化ではなかった。大唐学問僧を擁す

る改新政府の方向は、いうまでもなく国家的立場における

仏教受容の推進であり、そして中大兄や中臣鎌子などの改

新政府の首脳が、やがて積極的な仏教受容に踏み切ったの

も、当然というべきであった。中大兄の仏教は、私的な

「宮廷仏教」①性格を多分にもっとはいえ、しかし四月八

日の灌仏会と七月十五日の孟蘭盆会が、即位や饗客に準ず

                         ⑳

る宮廷等等の儀式になっていたことからも知られるように、

「圏家仏教偏への志向をもっていた。改新政府により、仏

教が、 「被統制者の地位に後退せしめられた」とするのは、

一痴的な見解…とされねばならぬであろう。

 大化の僧宮の職務には、推古の僧官の職務である僧尼・

仏寺の統鱗のほかに、蘇我氏没落蘇蜜の緊急な僧尼・仏寺

対策が含まれていた。そしてこの二種の職務内容は、おの

ずから別個の事柄であった。なぜなら、寺主や法頭にかけ

られた仏寺における軍事力の点検、また親蘇我氏的傾向の

排除などの一連の政治的要請は、蘇我氏打倒八年後の、中

大兄による飛鳥遷都の段階において、すでに実質的には達

成されたと考えられるからである。

 なお大化の僧官制度にわける十師と法頭との関係である

が、推古の僧官任命の場合と岡様に、これらの僧官人事が

同時に行われている点、また風師が、寺主・寺司・法頭の

職務遂行の直接の責任者であったと推定される点、などに

より、十三と法頭とは、二元的支配形態ではなく、推古の

僧嘗制度と准じく、十師の下に法、頭が置かれていたと解し

こ諭

ψ’V

①摘稿「飛鳥仏教の歴史的評飯」ρ、歴史学醗究憶竃…一号)。

②  山崎労融”。論文弗巾徽仏教の展開』 論ハ○○頁以下。

③本稿の十日に関する見解は、旧稿「十美玉」(『競日本紀研

 究』五の九)の補正をもかねていることを了承せられたい。

④ 『日本慨n紀通釈』の「狛大法師福二」条}網引、

⑤  剛.扶桑時記』港㈱・肌僧綱補任押鮎L。

53 (53)

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⑥  平晒す馬蝉…領「艸裳史談一 (『灘撃鐙「繍 一鞭 年論ハnη)。 なあ脚辻裁物一助

 『臼本仏教史(上世篇)』八四頁参照。

⑦⑪⑰  『僧綱補任抄出論。

⑧ ㎝.扶桑略記』巻憾。

⑨『日本轡紀」皇極三年置立証。

⑩  「以漏先生一こ口推古十六年所謂南淵漢人請安肉按是学問僧非昌

 学生」也」 (『日本欝紀通証』巻廿九)。

⑪  「按推古天皇十六年紀所謂学問僧南向漢人請安是ナりし(「書

 紀集解』巻凝立)。

⑫『三濁仏法伝通事起』巻中、「鷺論宗」条。

⑭⑰ 拙稿「国家仏教の成立過程」 (『史淵』九〇輯)。

⑮ 『日本霊異記』巻上の一二・「扶桑略記諾巻四。

⑯  「宇治橋碑」 (唄、寧楽遺文』下、九六二頁)。

⑲境野黄洋『日本仏教史講話∴…九一頁。

⑩『日本書紀』天武天皇九年十一月条。なお唐で客死した「学

 問僧旧恵妙」 (-田推五年二屑条)と、十師の恵妙との関ハ係はあき

 らかでない。

⑳大化三年に法隆寺に食封三雲戸を施柔しているのは(法隆寺

 伽藍縁起丼流記資財帳熱)、聚徳太子や出背大兄王ら上溝王家の

 入々に対する追善の意味をもつであろう。

⑳ 欝明天皇の百済寺の造営についても、蘇我氏の支持が求めら

 れている(皇極天皇紀元年九月条)。

⑳『通典「幽巻廿鷲。

⑳  所悶融嚇喰仏、 晶朋掲歎同、 五五六}貝。

⑳  「鐵詳略黒後世縫昌造興福寺疑官こ 飛需紀集解』推古天皇四

 年条)。

⑳道端良秀『唐代仏教史の研究」九八買。なお「寺主」の職掌

 について、同書の紀述に費うところが多い。

⑳家永三郎「孝徳紀の史料学酌研究」(鵬,罰本書代史論集』上)。

⑳⑳ 法頭の用例は、推古天皇三十二年紀四月条・火化尤年紀八

 月条のほか、『上宮塑徳太子伝補闘詑臨・天平勝窯五年………月十㎝

 践付「弗莱師み守鷲一綱…脈」 (『用人門口本霧文面旧』 ㎝論の六一八貰)・「広隆

 寺縁起」(『朝野群載』巻二)に昆られるが、いずれも俗人であ

 ること、また仏寺の資財管理に関与していたらしいことが共遊

 している。なお法頭の制度史酌考察は、拙稿「鴻臆寺と玄蕃寮」

 (穏日本仏教一九号凹い)参照。

⑳ 古代寺院の軍-宴的能力に注爾されたのは家永山郷博士である

 (聯,上代仏教思想史研究縣一七照頁)。

⑧〔,臼木潜紀し皇極二年十一月条。

⑳ 同右、天武晃年七乃条。

⑳門.大安寺伽薩縁起舛流詑資財帳「い。

⑳ 竹内欄黛二「奈良朝時代に於ける寺院経済の研究一九七頁掲載

 の寺奴碑の表によって作成した。

⑧⑳ 坂本太螂「大化改斬の研究八三〇慨頁以下。

  北山茂夫り大化の改新』七}頁。

op as @ c[)

家永窯郎『上代仏教思想史研究』一五六頁。

拙稿「藤原京の四大専」 (「南都仏教無二二号)。

『口本書紀』大化三年十二月条。

54 (54)

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ik 代 贈’露 考・(ffl a:寸)

二 天智の僧官…僧正・僧都・法頭・佐官

 大化の十師声遣の根本動機は、蘇我氏滅亡の時点におけ

る嵜主・寺司・法頭の憎官任命、およびその僧官に課せら

れた職務遂行の円滑化にあったのであり、従って、十師の

設備そのことに、積極的な音羽義があるのではなかった。つ

まり改新政府による当面の仏教政策が、十師の権威により

容易に実施せしめられることに、十師設遣の理由が見識さ

れたのである。当然、緊急を要する仏教政策一仏寺の反

改新政府化への阻止、ないし改新政府支持体制への再編成

一の遂行が一段落すれば、十師に課せられた任務は、終

了したと考えられる。『日本書紀』を検すると、孝徳天皇

                    ①

白難二年(六五一)一二月に、丈六の繍像が完成し、皇祖母尊

(後の葺明天皇)が、業師を屈請して斉会を営んだ記事を最

後に、十師は姿を消している。

 では、その後の僧官制度は、どのような形をとったか。

薩接これに答える史料は残されていないが、 『日本書紀』

天武天皇元年十二月条に、造高市大寺司の任命、福林の知

     ②

事辞任不聴許の記事につづいて、

 以 義虞僧一為 小僧都嚇是日、更加 佐官二僧門其有二四陸宮一始

 起晶予此時一也、

とあるのが注目される。すなわち、すでに天智天皇の時代

に、僧正・僧都が設けられていたこと、また二名の佐官僧

が遣かれていたことが知られるのである。義成の小僧都任

命、また佐官の二名増員の右の記事は、この事実を前提と

して、はじめて理解せられるであろう。

 天智の時代に設けられた僧正・…摺都は、推古の僧正・僧

都の復活であったと考えられる。では佐官とは何であるか。

 思うに、佐官は、令制四等官の最下位の官である。すな

わち、所管の官事を惣判ずる長窟、これを輔佐する次官、

宮内を糺判し、文案を審署して稽失を勘える判官、事を受

けて公文を抄録し、交案を勘暑し、また公文を読む主典の

四等官の原初的な組織は、すでに大化の国司制度において

    ③

見られるが、天智の時代に置かれた僧官としての佐官は、

第四等官に轟轟するものであった。すなわち、

 ㈲天智の僧官

55 (55)

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 天智の時代に、大化の十師擁…な廃止し、代って推古の僧

官制度の復活が試みられたが、このとき、諸国旬の四等官の

糊度にならって、僧正(僧一)・僧都(僧一)・法頭(俗三ヵ)・

佐官(僧二)の四等窟よりなる僧官制度を設けたと考えら

れる。 『令義解』が、佐官に註して、「謂、僧綱之録事也」

       ④

と述べているのは、はじめて佐官が置かれた天智の時代に、

「憎綱」制が成立していなかった点において不当であると

はいえ、佐官を「録事」とみなしたのは、正鵠をえていた

といえよう。公式令に、刑部省電式部省の書式を掲げ、僧

綱と諸司との報答も、これに溌じ、移をもって牒に代える

ことを記し、なお署名について、僧綱(律師以上)一名が、

郷の処に署し、年月日の下の録の処に、佐官が署すことを

     ⑤

規定している。佐官は、省の録(主典)に心事するのであ

る。 

佐官の補任・解任は、太政官に申告して後、行われる規

     ⑥

定であらたが、しかし、九世紀において、佐官の定員数や

             ⑦

職務内容は、不明とされていた。

 八世紀の資料であるが、佐官の機能をうかがわせるもの

に、官大寺の流記資財帳がある。すなわち、天平十九年勘

                 ③

録になる大安寺・法隆寺の各流記資財帳、および蕪菜…寺三

 ①

㎞嗣牒には、 いぶ9れ」も瓢八、平二↓i年占ハ月十~七日付で、 「大僧嗣都

法師行学」の土気につづき、

 佐 官 業 了 僧 薄書

 福富兼薬師寺主師位僧勝福

 早宮兼興福寺主師位僧永俊

 佐 官 師 位 僧…恵徹

 佐民業了僧臨照

の五佐官の押署が兜られる。

 右の五名の佐官のうち、まず願清は、大安寺の僧であり、

                    ⑳

天平宝字四年六月に大安寺の寺主の職にあった。勝福は現

に薬師寺主であり、なお天平勝室二年八月現在、佐官をつ

    ⑭

とめていた。永俊は興福寺の平信である。次の恵徽の経歴

は不明であるが、最後の臨照は、法隆寺の僧であり、天平

                ⑫          ”

宝字五年・十月に、可儒の僧位にあった。すなわち、これら

五佐官のうち、行歴不明の恵徹を除き、他の芸名は、大

安・薬師・興福・法隆の国大寿の僧であり、しかも所住仏

寺においては、寺主ないしそれに準ずる地位一三綱クラ

スの幹部繕マ!であったことが知られる(恵徹は、弘福寺の

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隈f {℃ {韓 ’露 考9 (….fi拳宣)

僧であっ.たかと患われる。なお大僧都行信は、元興寺の僧であっ

⑱た)。

 以上の考察により、次の推定が可能となるであろう。こ

れら僧綱の佐官は、第一に、園大寺の一二綱クラスの上位僧

 によって占められており、第二に、その人員は、国大寺ご

とに各一名の基準で構成されていた。そして第三に、資財

帳の藤下にみられるように、僧綱の職務に属する国大寺の

寺院財産管理にも関与していた。

 さて、天智時代の一一佐官にもどるならば、二名の佐嘗に

は、二箇の国大寺の僧が任ぜられていたであろう。この二

箇の国大寺が、擁寺であったかはあきらかでないが、当時、

国大寺として建立せられた(または建立の着手をみた)のは、

蕾明天皇の発願にかかる百済寺、および無明天皇追資〔のた

 めの弘福寺(用原寺)のほか、難波の四天王寿、また近江の

崇福寺(志賀山寺)があった。天智の二佐官は、これら撃墜

 のうち、おそらく大和の飛鳥に位零する百済寺と弘檎寺の

5僧が任ぜられたと思われる。

 天武天皇二年の二佐嘗増員は、高市大寺建立による國大

 寺増加の実状に促されたのであり、同時に行われた義成の

小僧都補任  このとき小僧都の僧官が新設せられたので

あろう  も、国大寺増加に墓つく事務輻較に対処する措

置であったと解される。

 佐嘗が、 一寺一佐官の原則に墓づき、國大寿の上位僧に

よって占められたことは、天皇家の仏敷受容、すなわち宮

廷仏教の成立に関達している。百済寺や掛鏡寺は、官寺と,

はいえ、実質は、天皇家の「氏寺」であり、二時の豪族の

私寺と本質約に異なるものではなかった。そして天皇家の

「私的」な仏教受容は、後の玄蕃寮の職掌の一つである

              ⑪

「供斎」において制度化されるが、他方、天皇の「公的」

な仏教統舗は、推古三十二年以来の僧官設澄によって、具

体化されて来た。

 注意すべきは、推古の僧官創設の段階において、国大寺

(天皇の私寺)が存在しなかったことである。天応戦におい

ては、公的な仏教統制が、私的な仏教受答に先行した。従

って、仏教統辞に任ずる僧官の首脳は、蘇我氏の法興寺の

僧をあてることになP、そしてこの慣例は、当分の闘つづ

 ⑱

いた。

 紆明天皇によって、天皇家の仏教受容が始まり、やがて

Jr7 ( 57 )

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国大寺が建立されるに及んで、国大寺の上位僧が、佐官と

して、中央僧官機構の内部に位置を占めることとなった。

佐官は、 「供斎」を通して、宮廷仏教に密着すると同時に、

中央僧官機構に席をもつことにより、僧尼・仏寺統制につ

いての発言権を獲得した。

 それだけではない。その娼発において、諸豪族の私寺と

同列同格であった天皇家の私寺は、やがて、もろもろの豪

族.の氏寺に対する揃導的地位と権威を付与せられることと

なった。すなわち、一寺一佐官の原則によ9、羅大寺の上

位僧が、僧官機構の中枢に位置したことは、天皇家の私寺

が、いまや国大寺として、諸豪族の氏寺を底辺とするヒエ

ラルヒーの頂点に立つことを意味するからである。

 天武天皇によって着手せられた仏寺の再編成、すなわち、

右に見たようた国大寺を頂点とする貸馬の格付け1四大

寺制成立の前提ーーも、遡れば、天智の時代の佐官の創始

に、その発端を見撮すことができるであろう。

、① 大友皇子をはじめ、左大臣蘇我赤兄臣・右大臣中臣金連らの

 大官が、おのおの手に七型を執り、天智天皇の刷了の遵奉を泣血

 誓烈した「内裏山嵐織仏像」は(天禦天皇十年十一月紀)、この

 丈曲節繍欄働勝孟冥みめザつ一り9

⑨ 福…淋口が寺主であったのは、肯梁巾大廓耀のように解されやすいが、

 しかし、,そうすると、天武元年の造高市大寺司の任命、に先立

 って、すでに高市大寺が存在し、寺主も鍛かれていたことにな

 る。思うに橿林が寺主であったのは、省済寺であったのであろ

 う。

③坂本太郎「火化改新の研究ご一九X頁。

④  『令義解』僧尼令、有私事条。

⑤同右。公式令、移式条。

⑥大宝薫至難月廿二三太敗官処分(裂p集解』薬毒令、任贈綱

 条班載)。

⑦「朱云、佐官以上、謂僧綱以上、凡有昌佐官揃{以二二条一可レ

 知者、未レ知、共数丼任体何、答、未レ見γ交」 (懲令集解』僧尼

 令、有私事条)。

⑧『寧楽遺文』巻上所収。

⑨『大日本霜交書』薫の四一頁。

⑩ 同右、閥の四一九買。

⑪ 同右、十一の七九頁。

⑫開右、四の泥一八頁・三の九一頁。

⑬  『七大寺年表唱。 なお「僧綱補任皿によれば、天平十九年の

 僧綱は、大僧翫行基、大寿都行達、小憎都栄弁、律師行信とな

 っているが、しかし、天平+九年以降、行信は大憎都であった

 (門大日本古文書』黛の九一頁、十一の二二七買.薫五九頁.

58 (58)

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肇f イ℃ で・幾 ’汽  iYJ’ (【賀村)

 七四~か]か」憎貝、 九の編ハ(っ一百呂など)o

⑭ 拙稿「鴻縢寺と玄蕃寮鳳 (『日本仏教鳳㎝九号)。

⑮拙稿「僧尼令成立の歴史的背景」論史灘』八四輯)。

三 天武の僧官一僧正・僧都・律師・佐官

 天武天皇元年(六七三)の四佐宮増員に見られるように、

この時期に、国大寺がすくなくとも四箇寺あったことはあ

きらかである。朱鳥元年(六八六)六月に,天武天皇の不予

があり、飛鳥寺(法興尋)で病気平癒の誓願がなされたが、

このとき、 「四寺利上、知事井現有即位僧等」に衣被が施

された。 「和上」は「上座」であり、また「知事」は「寺

        ①    ・、

主」に糖当するが、この四三は、佐官を出している国大寺

の数に網回する。

                 ②

 注尉されるのは、法興寺(飛鳥穿)が、佐宮を出していな

かったと推定されることである。天武天皇九年紀四月条の

勅が、これを暗示して・いる。すなわち、

 勅、凡諸寺春、霞今以後、除℃為晶圃大患三江r、官治莫レ治、

 礁其禽昌食封一膳、先後隈一…三十年嚇若数レ年満二三十一則除之、且

 以為、飛鳥寺不レ町レ衡甲}子司治一然論叢瓢大寺曜薄煙司憤治、復

 嘗有功、是以猶入昌宮治之例{

 この詔によって知られるのは、第一に、これまで、すべ

ての仏寺(若干の濁大寺の禄か、大部分は貴族・豪族の私専であ

った4は、官司によって管理されていたこと、そして第二

に、飛鳥寺は、創建事情からすれば、歴然、官治の列から

除かれるべきであるが、 「大寺」としての栄誉-日本に

                         ③

おける仏法興隆の中心であった…と壬申乱の功により、

とくに国大寺に準ずる待遇が与えわれたことである。

 この詔の発布の動機は、主として経済的埋由に基づくと

解されるが、同時に、國大寺と私子(氏族専)とを区卸し、

国大寺が、もろもろの私寺の上位に位置する体制の樹立を

意図していたことが注昌される。仏寺に上下の格式を設け、

上位の国大寺に指導的な地位を付与することは、いうまで

もなく、 「圏家仏教」成立の一条件であった。しかも、名

実と屯に、二本における仏法興隆の中心的役割を果たして

きた法興寺をさえも、特例として、 「官治之例」に入れる

                          ④

措置がとられた事実は、法興寺が、竜ともと「国大寺二こご

の中にも含まれておらず、従って、天智の二佐官、また天

武二年の四佐官も、法興寺からは出されていなかったこと

を、推測せしめるのである。

59 (59)

Page 19: Title 古代僧官考 Citation 47(1): 43-67 Issue Date URL ......④ 8 狛大法師 都響句麗の大法師の謂である。契仲が狛大 になる。(法興寺)に住した。斉明天皇四年に.中臣加子は山科の三

 さて前掲の天武八年詔に見える「官司しは、何を指すの

であろうか。この官轡は、仏寺の聯繋に当たっているが、

ここで思いあわされるのは、大化の僧官の「寺主」と「法

頭」である。すでに前章であきらかにしたように、改新政

府任命の寺主は、豪族の氏寺ごとに配置されて、各仏寺の

管掌に任じ、法頭は、すべての僧尼・奴碑・実敵を験する

ことと奉った。ところで、豪族の岡寺に彰ける親蘇我氏的

一反改新政府的傾向の払拭排除が実現され、改新政癖の地

歩が確立されてくると、とくに政府任命の寺主を、引きつ

づき豪族の氏寺に鍛くべき理由が薄弱になるのみならず、

法頭の職務の重点も,改新政府による仏法興隆政策の推進、

すなわち仏寺の財政援助の事務処理などに、移行し牝であ

                     ⑤

ろう。大化二年三月号、「於脱レ籍寺、入‘鴇与?出漏れる手

続きがとられ、天武七年四月に、諸寺の食封の検討を命じ

                     ④

て適宜の処置がなされ、また寺名が定められたが、これら

一連の仏寺関係の事務は、法頭によって執行されたと考え

られる。天武八年・四月詔の門官治]は、大化元年に起原を

もつ「寺主」や「法、頭」を指していると解すべきである

,’大化の法頭が、推古の法頭に源流することはいうまでもないが、

しかし爾者の機能には蓋異があうた)。 従って、 ここに見られ

る「窟治恒治」を制度史的に遡及すれば、大化の中央僧官

制度「に到るであろう。

 天武八年四月の詔は、大化以降、各仏寺に配置せられて

きた政府任命寺主の引きあげーー寺主の任命は、大化以前

のように、各仏寺の宙治に任せる  や、また、法頭の所

管仏寺の大幅な翻減  特定の圏大寺、およびこれに準ず

る法昇藤以外の貴族・豪族の私寺の除外  を意味する。

しかし、この事実は、貴族・豪族の私寺が、公権力による

国家統制の蛎外に咀阻かれたことを語るのではなく、ただ国

家の財政的経済的特権の対象から、 一般私寺が’除かれたこ

とを示すにすぎないのである。

 特例により、圏大寺に準ずる待遇と格式を付与せられた

法興寺が、国大寺と並んで、佐宮を出していたとは考えら

れないが、しかし、さらに注目されるのは、僧正(そして

恐らく僧都をも含めて)が、 法興寺の上位僧…によって占めら

れていたことである。すでに言及した朱鳥元年紀の天武天

皇の祈病について、次の記事がある。

 遣昌伊勢等等宮人等於飛鳥寺嚇勅 衆僧}口、近蒋遍身不和、願

60 (60>

Page 20: Title 古代僧官考 Citation 47(1): 43-67 Issue Date URL ......④ 8 狛大法師 都響句麗の大法師の謂である。契仲が狛大 になる。(法興寺)に住した。斉明天皇四年に.中臣加子は山科の三

、ヤ  イkこ f登} 含笠  ジ∫・ (田#KS)

き 僧正・僧都および衆僧が、勅を奉じて法会を修し

たが、前掲の記事により、僧正・僧都は、他の仏寺か

ら屈請せられたのではなく、もともと法興寺に佐して

いた、と解するのが妥当と考えられる。そうであると

すれば、はじめて僧正に任じた観勒、そして二人翼の

恵灌以来、僧正の職は、日本における仏法興隆の伝統

 頼=二宝之雲雨以身体欲レ得昌安和雨是以僧正僧都及衆僧応昌霜野d

 則奉二珍宝於三宝↓

 天武天皇の不予により、伊勢王および官人らが飛鳥寺

(法翼寺)に遣わされ、病気平癒の祈願が行われた。このと

 、

頭の代りに、律師の職が設けられたのである。天武元年の

僧官と、天武十一年の僧官【との移行関係を表示すれば、次

のようになる。

 ⑬ 天武の僧官

i僧lf三

!∫・大

僧僧都都

(僧)

を荷負する法興寺の僧によって継承せられていたことがう

かがわれる(この点からも、佐官は、法興寺以外の岡大寺から選

ばれていたことが推察されるであろう)。

 さて、天武十一年三月に、

                       ⑦

 任(僧正・僧都・律師一因以勅鐵、続=傾僧尼嚇如レ法云々、

の僧官人事が行われたのは、後の僧綱制の実質的な成立を

示している。しかし、ここで律師の職が新設せられたのは、

何を語るのであろうか。

 思・一3に、これまで僧事機構の第三等官の地泣にあった法

(僧)

法頭

(俗)

佐官

    ’剛㌦∵   こご」  一網曽ご= :一=∫πご::

小ノく

i痙

i

(僧) 佐箪繕浮……実武+ 年

 律師は、元来は仏律を解し、これを籍する者に名づけら

れた名称であるが、天武十一年に新しく置かれた律師は、

            ⑨         ⑨

井上光爽薄士の指摘のように、北斉の断事沙門や梁の大徐

  ⑩        ⑪

都沙門、また鴎の断事と同様に、仏律へ内法)によって、

仏教教団内部の事件を判定する任務に服していたと考えら

れる。

 天武十一年の律師創設は、次の二点において重要である。

第一に、これまで俗人の法頭を加えて構成されていた仏教

統制機構から、俗人が排除せられ、その結果、中央僧嘗は、

略1 (6i)

Page 21: Title 古代僧官考 Citation 47(1): 43-67 Issue Date URL ......④ 8 狛大法師 都響句麗の大法師の謂である。契仲が狛大 になる。(法興寺)に住した。斉明天皇四年に.中臣加子は山科の三

単一の僧のみによって組織せられたことである。もちろん

佐官な含む四等官の職制は変らないが、俗人の法頭が除か

れたことは、仏教教団の自治体欄が、制度的に完成したと

いえよう。第二に、律師の新設と時を同じくして、律師の

依拠すべき成文法令が擶定されたと考えられることである。

この成文法は、とくに出世闇の僧尼を対象とすることにお

いて、世閲一般の法令から区別せられなければならないが、

しかし、仏教統制が公権力に帰属する立前からして、この

成文法竜、国家法の枠外に出るものではなかった。

 天武九年二月の、「詔之漏、朕今更欲下定昌律令}七洋法式虹、

故倶修二是事昂然頓就漏是皆納公事有レ闘、分レ人応レ行篇の

  ⑫

記事や、また天武十年八月の、「令箒親王以下及諸臣ハ各偉

                   ⑬

レ申幽輔法式応レ用之事∵…:造二法令一」の~記載は、飛鳥浄御原

雲壌の憂を物難…ぞいると解さか⇔⑳天比熱年の

律師の新任は、僧尼令の制定に対応するのではなかろうか。

そして僧尼令が、唐の道僧格を藍本とするとはいえ、その

条文規定が、小乗の四分擁に基礎をもっていた事実は重要

  ⑮

である。

 ここで想起されるのは、四分律の研究者として著名な道

光にuついてであ眠くw。 叫旭事ルは、 孝徳罪八難黒の白難㎜隔年(六五三)

                  ⑯

に、定恵・道厳らの学問僧とともに入唐し、主として律蔵

を学んだ。道橋の『行事妙』(『四分葎鶴繁補嗣行事亡しの賂名)

は、道光が将来したのであろう。道光の著述である『依四

分律工芸説文』一巻の序に、 「戊寅年九月十九日大倭圏浄

御手天皇大御命勅嘉大儒学問道光律師一選二面行法ことあっ

    ⑰

たと伝える。持統天皇八年に、 「律師道光』としてあらわ

  ゆ                                  ゆ

れるが、もし道光の帰朝が天武七年であったとすれば、僧

尼令の制定、また中央僧官としての律師の創設に、道光が

璽要な役割を果たしたとの推測が支持せられるであろう。

そして、天武十一年に、はじめて律師に任じたのは、ある

いは道光その人であったと考えられる。

 僧正・僧都・律師を中軸とする仏教教団の自治の制度的

成立は、圏大寺の地歩の確立(もともと宮廷の「私寺扁として

        へ   ぬ   ヘ   へ          う   ヤ   ヘ   へ

出発した天武天皇の高市大寺が、大官大寺と寺名を改め、国大寺の

中での最高の地位を占めたことに象微される)、また僧声誉ム叩の制

定などの天武天皇による一連の仏教政策と関連をもつが、

しかし、仏教統制の中枢から、俗人の法頭を排除したのは、

なぜであろうか。

62 (61 )

Page 22: Title 古代僧官考 Citation 47(1): 43-67 Issue Date URL ......④ 8 狛大法師 都響句麗の大法師の謂である。契仲が狛大 になる。(法興寺)に住した。斉明天皇四年に.中臣加子は山科の三

虐f .f陰 f鶉 「蜜ぎ 考”(田村)

 周知のように、陪∵唐の仏教統制制度は、律令法の秩序∵

を貫徹せしめるため、北葺の昭元寺のような中央僧官を設

けず、俗的機構の鴻縢寺による僧尼・仏寺管理方式を立前

    ⑳

としていた。ところが、北斉の新見寺系の中央僧官が消滅

して一世紀後の環本では、逆に、僧正・僧都・律師による

中央僧官制度が完成するのである。

 推古の僧窟創設以来、俗人が占めてきた法頭の職がはず

され、代りに律師を無くことにより、中央蝋型としての体

制を整えるようになったのは、 『仁王経』(鳩廉羅什訳『仁

王般若波羅蜜経』の略名)の賦家的重用の傾向に深く関連し

ていた。

 仏法による.三家の擁護を祈願する『仁王経」の講読一-

仁王般若会一は、日本と新羅・唐との軍事的緊張が高ま

った斉明天皇六年頃からはじめられるが、天武天皇の時代

に入り、 『仁王経』および『金光明経』の国家的受容は、

          ⑳

にわかにさかんとなった。天武の時代、およびそれ以降に

おけるこれら護圏経典の敬重は、「賊来簡レ国」の防遇では

なく、むしろ五穀豊饒・風雨以時を期待してのことであっ

た。この意味での「園家仏教」の中心には、農耕社会の主

                       ㊤

長(11司祭考)としての天皇の立場が貫通しているが、この

圃.

m王経』の所説に、仏家の立場による麟王と仏教教団と

の関係が暗示されている。

 四五濁世、比丘比丘尼押部弟子、天早送翻一切神王、瞠王大臣

 太子王子、調理[高貴↓減=破三法円明作髭刺法一儲二相弟子比丘

 比丘尼↓不レ聴昌串家行Ψ道、照復不レ聴レ造=作仏像愚草搭形↓立繍

 統欝「制・衆、安・手記・僧、比丘地立白衣高坐、兵糧為 比丘蔓晟

 別戸法↓知識比丘、共為乙レ心、親善比丘、為レ作二斎会ハ求レ編

                     ⑳

 如 外道法嚇都非轟本法↓当レ知爾時正法将レ滅不レ久、

 釈迦が波斯匿王に説いた教法の一節として、1/分の滅後

の五濁悪世においては、国王・大臣などの礪家権力の側の

考、および無主権力と結託する特権僧が、みずからの優越

的な地位を侍み、仏法を破滅しようとする。すなわち、制

法をつくって、轟家行道を聴さず、造仏建塔を禁止するが、

とくに統官によって僧尼を統制し、俗人の身でありながら、

みずからは高座に坐し、僧尼を地に立たしめることさえあ

えて辞さ・ない。そして、このような非法が行われる限り、

正法は久しからずして滅びるであろう、と予告せられるの

                        ⑳

であるが、 ここには、 北魏の仏教事情が反映しており、

63 〈63)

Page 23: Title 古代僧官考 Citation 47(1): 43-67 Issue Date URL ......④ 8 狛大法師 都響句麗の大法師の謂である。契仲が狛大 になる。(法興寺)に住した。斉明天皇四年に.中臣加子は山科の三

また羅什訳の『仁王経』は、北朝頃の偽経と考えられてい

⑪る。 

ところで、斉明天皇以降、とくに天武時代における『仁

王経』『金光明経』を軸とする「国家仏教」への傾斜は、

「隔意官制衆、安籍記僧」についての反省を、律令政府に

促したであろう。その統官は、俗人として、仏教統欄機構

の第三等官に位置する法頭であり、従って、もし俗人の法

頭を、僧官の職制か疹除去しさえずれば、制度上、 「比丘

地立、白衣高持」の非難を免れることができるのである。

 中央僧官機構よりの法頭の排除を求めたのは、直接には、

悶、

m王経』の国家的受容の気運であったと思われる。そし

て俗人の法頭に代えて、内法によって僧尼を制する律師が、

第三等官の職を占めることとなり、僧正一僧都…律師一佐

官の四等官は、僧のみをもって構成せられることとなった。

天武十一年に任命を見た僧正・僧都・律師が、 「統領僧尼

如法」と命ぜられたことは、推古以来の僧俗混滑の僧官制

度に終止符がうたれ、僧のみ・による純一な僧官組織の成立

を語る点において、劃期的な意義をもっている。そして、

     も

「如法」の法が、大化の十師の際の「如法」と岡じく、

「内法」 「仏律」を意味するか否かは別としても、このと

き、僧尼統領の依拠となるべき僧尼令、ないしこれに準ず

る法令が成文化されていたと考えるのが妥当であろう。

 なお、 「僧綱」の名称についてこ蒼しておきたい。天武

十⊥年の僧正・僧都・徳師の任命が、僧綱制の実質的な成

立を意味することは、いうまでもないが、しかし、このと

き、 「僧綱」という成語が用いられたとは思われない。

 大宝元年七月四臼玉勅裁により、 「僧綱器物」の基準が

   ⑲

定められ、以後、僧綱に関する法令が施行せられることに

なるが、大宝元年以前における「僧綱」の用例を見出すこ

とはでキ}ないのである。轟轟刀、ふ人宝燈ル年山ハ月に、道君盛名

                   ⑰

が大安寺(大官大寺)で、僧尼令を説いていることから推察

すれば、 「僧綱」の用語は、大宝僧尼令において、はじめ

て現われたと思われる。大宝二年正月に、僧綱補任式が定

      ⑳

められた事実も、この推定を支持するであろう。

 では、大宝僧尼令成立以前において、僧正・僧都の中央

僧宮は、いかに総称されていたか。それは「三綱扁であっ

たと考えられる。

 天武天皇朱鳥元年心月に、 「素量二二綱律師及大官大寺知

64 (64)

Page 24: Title 古代僧官考 Citation 47(1): 43-67 Issue Date URL ......④ 8 狛大法師 都響句麗の大法師の謂である。契仲が狛大 になる。(法興寺)に住した。斉明天皇四年に.中臣加子は山科の三

噴f ヂ℃ イ曽 官 考 (田村)

                       ⑳

蛮・佐窟井九僧{以二俗供養一宇之」うことがあり、同年六

月にも、 「三綱律師及四寺和上・知事井現有繍銀位}僧等、

            ⑳

施二御衣御嵩各一塩一」した。この三綱は、通常、上座・寺

                  ⑳

主・都維那の寺官の意に解されているが、しかし、もしそ

うであるとすれば、第一に、寺官としての三綱が、律師の

上位に記されているのは不可解であるし、第二に、三綱∵

律師につづいて、大官大寺の知事(寺主)や四寺の和上(上

座)が、列記されているのも不都合となる。従って、この

三綱は、寺窟の三綱を指すのではなく、寺官としての三綱

はもとより、さらに律師の上位にあ.る中央僧官を意味する

のでなくてはならない。

 ここで思いあわされるのは、天武天皇元年の「以昌義財

界“為二小僧都牌」 の僧官人事である。天智(または潜艦)の

時代に復活した僧正・僧都・法頭の僧官制度は、国大寺の

増加!佐官の増員一1に促され、天武元年における小僧

都の新設を見た、以後、大僧都・小僧都があい並んで置か

れたことは、「僧綱購物者、僧正灌二正五位{大小僧都律師

潅昌従五位一一之」とする大宝元年七月四艮付勅裁によって

      ⑪

あきらかである。朱鳥元年に見られる三綱が、僧正・大僧

都・小憎都の三者を指すことは、疑いえぬであろう,前引

の朱鳥一院年個麗ゐ早月条の一記衷Ψについて門見、れば、 三綱 (僧…正・

大壷都・小僧都の一二名)・律師(一名)・大官大寺知{崇(一名)・

佐官(四名)の「九僧」となる。

 天武十一年の僧正・僧都・律師の任命は、僧尼令制定に

あい応ずる「三綱」欄の成立を示しており、そして「僧綱」

制の名実ともの完成は、大宝僧尼令の必定を待たねばなら

なかったと考えられる。推古天皇三十二年の僧宮三度創始

以降、天武天皇の時代にいたるまでの中央僧官制度の変遷

を表示すれば、次頁「中央僧宮制度変遷一覧」のとおりで

ある。

① 天平宝字三年の「嬰倉北雑用物出納帳」に、「知事承教」「寺

 主承目蔭」 の署名が見られる 食、大臼太・古文慨官』四の一八九・一

 九〇頁)。

⑧法興寺が飛鳥寺と号した事情については、拙稿「僧尼令成立

 の歴史的背景」 (『史淵』八四輯)参照。

③「按壬申累年大伴連山吹翼抜 高荻王飛鳥寺幽酒興営↓蓋此

畢国有℃援晶窟軍 之功出也」 (『瀞紀集解』天武九年四月条)。

④ 境野黄洋博士は、 「限大寺二三」について、 「此の頃は大寺

 としては、高市大寺あり、川原寺あり、張福寺あり、之を二三

 の大寺と指したので、外に元興轡も大寺として薫染の例による

65 (65)

Page 25: Title 古代僧官考 Citation 47(1): 43-67 Issue Date URL ......④ 8 狛大法師 都響句麗の大法師の謂である。契仲が狛大 になる。(法興寺)に住した。斉明天皇四年に.中臣加子は山科の三

鱗 中央僧宮七度変遷一覧

僧斑

(僧一)

劃li’

法聖

訓1-

 i l ;

 f き

 1 ;

 : i’

十師

N\

A{曽X’・

ohJ

(儲一)

(撤じ

法頭

僧正」

僧都

  bv

(燧齢)

;一:〕匹:一-;:--;-一--t-大化

僧達[=

大僧螂

示僧都

  (俗)

法頭

(揃各一)

大僧都

承僧都

(鱈ケ輩)

  (僧二)

佐官,…-…-…、、三智

法頭

俗v

佐官

ググ.ク

 〆/

容蔚

(髄一)

懸囲(天脳天島朱鳥 編年)

(轍四〉

:-、:…-…~、天武元重

て   佐官

’〃

!7

 ’ん/

 /γ

(繕四)

…-…、一…天皇十二年

圏・大宝一霞年・

圃A読天皇

理笙頃食立

w

 と命ぜ5れて屠る」と達べられた〔隅旋鴨.難本仏教史

 講話』~○閥頁)。

⑤岡.日本書紀』大化二年三月条。

⑥嗣右、.天武八年四月条。

⑦同霜、天武十二年三月条。

⑧井上光頁「購唐以前の中園法と古代日本」(溜石工講

 座日本歴史月報』5)。

⑨⑩ 山崎宏『支邦-中世仏教の展翻』四九〇頁。

⑳岡右、五四九葺。

⑫『日本講紀』天武十年二刃条。

⑬ 同右、天武十一年八月条。

(⑭ 滝田川政次部ド.律令の研究』七八頁。

⑫ 井上薫「古代仏教制度論」 (『宿代抵会と宗教臨)所

 収)・二葉憲香『古代仏教思想史研究』。

⑯㎝、日本書紀』騰雑閥年山月条。

⑯⑧ コ…照仏法砥通縁起』巻下、「律宗」条。

⑱齪.照本轡紀』持統八年閤月条。

⑳拙稿「代鴻櫨寺と玄蕃寮」(….摘本仏教し一九号)。

⑳ 拙稿「困家仏教の成立過程」 (『史淵』九〇輯)。

㊥ 拙稿「神宮寺草創考」 Ω,史淵』八七輯)。

⑧  『仁王畝飯蔚融似馴維蜜経』巻下・、 大正晶蔵経、 滋鶯八、 八廿』

 三頁。

⑳離月信亨臼.灘土教の起原及掩達』~四七斑。

⑳ 塚本碧隆ρ..支邦仏教史研究(北魏篇)転…=G頁。

(66>66

Page 26: Title 古代僧官考 Citation 47(1): 43-67 Issue Date URL ......④ 8 狛大法師 都響句麗の大法師の謂である。契仲が狛大 になる。(法興寺)に住した。斉明天皇四年に.中臣加子は山科の三

⑳⑫ 劇、令集解』喪葬令、職事官条、

⑳  『続日本紀』大宝元年六月条。

⑳  『令集解』僧尼今、任僧綱条。

⑳『日本欝紀』朱鳥元年正月条。

⑳  陶右、朱鳥㎝兀年論ハ月条。

⑧  『書一紀船果解』娠木鳥一兀年六日β条。

(九州大学助教授)

譲f 蓄.鷲 {醤 ’良’ 一考“ (fU季晋〉

(67)67

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Explaぬation of the Wei-chih-wo-1’e”n-ch’uan魏志.倭人伝

             Faithful to the Original

    by

Kenji Maki

  The object of this article is to prove the close relation of the

erroneotls view on Japan(倭)ill Hou-han-s肱一wo-ch’uan後漢賜倭伝

to the difficulty of reading correctly the original sentences and

phrases of Wei-chih-wo一]’2n-ch’uan魏志倭人伝, notwithstanding the

former book has been emphasized as a cardinal resource for the

study of ancient Japan(倭)beside PVei-Z吻魏略and VVei-chih魏

志,and to explaiR the traditional interpretations are wroRg ill the

fundamental points, and then to offer the new interpretation

faithful to the originai sentelユces and phrases of the 顕。-je“n-ch’asan

倭人伝.The士nost important part of our opinions is the new

reading of the words「Lft女王国以北」,“northern district outside of

the Queen State.” The weak point of the former study is lack

of normal recognition about what form was used by the Wo-ie“n-

ch’uan of writing the number of houses ai?d distaltces ancl what

legal principle was taken by it of writing the Japan’s formatioR.

This anci(IXIt Japan(倭)was not a single. kingdom, but a fe4era-

tion.

A Study of the System of Buddhist GoVernment

            Priest in ancient Japan

     by

Ency6 Tamura

  Buddhisin was introduced into Japan froin Korea in 538, but

successive einperors hesitated to accept the exotic religion for

about 90 years. The Soga family took the initiative in Buddhist

ace’ivities and bu圭lt the H硫吻Oi temple that was the finest and

largest. Buddhist temple at that time.

                          (166)

Page 28: Title 古代僧官考 Citation 47(1): 43-67 Issue Date URL ......④ 8 狛大法師 都響句麗の大法師の謂である。契仲が狛大 になる。(法興寺)に住した。斉明天皇四年に.中臣加子は山科の三

 Just as the preceding emperors, the Empress Suifeo had net her

own temple, but she founded the Systein of Buddhist Goveminent

Priest consisting of three pos£s, 1. e. Sの’δ イ酋正, Sδzu イ強都 and

H()z%法頭,and apPointed a person to each of the three I)osts.

Sojo“ and SO2u (both priest) ruled all priests. Hdiz” (layman)

managed all temples and their assets.

  頚st after the downfall of the Soga fam圭ly, the Ernperor-Govern.

!11ellt apPointed, in stead of Sの’δ and Sδzu ten high priests so

called,rushi十界, who constituted the leaders of Buddhism. New

three H{)zus undertook to investigate and eliminate even latent

military powers in family temples.

  Though圭t is not known when the system of 5のδwas revived,

we find the Four Rank System of Buddhist O伍cial consisting of

Sbj’Ol Sδzu, H∂zec and Sallan佐官(two persons)ill tlユe time of the

Emperor Tenchi. The four.rank system of Buddhist o缶cial was

the bas圭。 cons乞ruction in the Japanese codal system.

                               へ  The Emperor Tenchi enacted之he Omiりy6近江令, and his father

the Enユperor/bmei estabilished the且rst royal temPle cailed Ku-

dara-no一δdera百済大寺呈n Kttdara.

 ・Sのδand Sδen were customarily selected from among the high

priests of the 1ヲ∂んの’i temp玉e which was the head temple keep量ng

the honorable trad呈£ion and lead圭ng Buddh圭sm on a grand scale.

S罐α%was selected from among the high pr呈ests of some roya正

temples.

  The four rank systeln of Buddhist of丑cial, which included the

pQst of a layman, was condemned by priests,、because the Buddha

sa三d in b玉ame of the eru玉e of a Iayman (govermment of丑cia五) over

priest短仁王般若経which was hlghly esteemed at that time. The

Emperor 7吻窺跡replaced HOgu(1ayman)byノ~isshi律師, and then

a11 the four posts of Buddhist of丑ciai carne to be occupied by

priests. εの阜δ, SO2u and.Risshi in the time of Tenmu was the

origill of the S嬉δ僧綱in the 1)aihδryδ大宝令: Hδen was trans-

formed圭llto Genbano死yδ玄蕃寮ilユthe time of the Empressノ髭δ.

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