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-62 - 屯監\三と 1 1, TJ-二二岬-】 、 一二二二:ン了 .虹1-1・ I 乱J瓜 I・- -I 写央8 昭和42年6良寛京都女子団体噸 写f:j9 昭和42年6見右から石凪井田.蔦木選手 63 ること 練習場を持 ニス部と弓道部 そして何よりも、「 格的な弓道場建設の足場 崇た.化と会員で嘗んだもの 寄集、 格的な弓道 仮設弓道場があ います。吉田部長 宮地帥範のおかげと感謝 ります¢ 私の弓述部(女子部創生 私が弓道部に入部したのは昭抑 三十九拝四inTT.、クラブ抑介の.Tで す÷同時に<学した同じクラスの 岩崎起久子さんt底1 8、)と二人で 申し込みましたo岩崎さんの動穀 は細りませんが、弘ははじめて見 た弓道の美しさ(.デモンr<'トレー ションは中村哲雄先巧だったかと 思いますが) にひかれ、それに根 性や機敏性をあまり要求されそう もない通勤部ということで申し込 んだのですU その当時は女子*員 はおらずtその前に!時在播して いた方がおられたとのこJL.でした Jr;"'二・.溝.I.,ます‥こ.:,ってL えって、, i:)つくりされま・.⊥)] 当時 井 田 瑞 枝(草l) は嵯縦のついたちゃんとした弓道 壕はなく'石ころだらけの原っぱ の嫁にあづちとすのこがあるのが 道場でした。不器印で、はじめか ら終りまで的に当たらない弓適で したが、やさしい先輩方や師範の 弘先生のご指導のたまものか、入 学時に入った3つのクラブの中で 唯.?長続きしたクラブとなりまし た<'今思うと、師抱の弘先生は、 個人の力里に銘じた指導で、我々 それぞれがめざすべき理想の弓道 のイメージを明確に与えて下さっ た'すぼらしい教師でいらしたと 患います'・ 春や皮の合宿は'凝川中か免敏 旅館で 時と一二時 いた飴色の野沢 うゆをかけたおやさ たことを思い出しますC で出して下さる旅館なんて今 ありませんよね<.魚触旅館のご 人の弓適をめざす学生に対する心 入れのおかげで楽しい合宿を味わ うことができました.)度合宿では 夜に志簸高原の丸池あたりまで先 鞭方にドライブにつれていって頂 いて、輪の空に雄大に展開するさ そり座を見たのが忘れられない思 い出です。また、春合宿は雪の降 る日に開け放しの遥鳩で練習する 寒さをしみじみ味わいました.そ のせいかこのi年生の春合宿では 畢食いの斉藤浩之(〝学6)先鞭に 負けぬ早さでどんぶりめLを食べ て、合宿期間中になんと三キロも 体重が増えて、以来今日にいたる までその体読以下に下がったこと がないとは、悲しいことでござい ます ′広軌乱にたたず,しカ し、伊 に食べた「 r Ei= n 食べ物の活はさてお 崎さんに加えて雷学の荘 ん、東谷邦江きん (看1 タートした女子劫でしたが、登昭 和四十年には溝口万理子さん 八草 i 9{川起明子さん (肴2)' 年に石原桂子さん (医2 0)、浜田 和栄さん ;有_ 8)、兼子晴美さん ・高木公子さん (学2 0)、城巳智 子さんへ苧2 1.)という具合に部員 が増え、女子だけで教養部で合宿 を行うまでになりました。そのこ ろお茶の水の材餅の敷地内に退場 がありましたが、その庭に「かわ らなでしこ」がどんどん増えて可 憐な花を咲かせているのを見て' 同期の中野雅徳さんが「まるで弓 道郎の女子のようにはびこる」と 悲しそうにいっていたことを思い 出します。これが勢いというもの でしょうか、昭和四十二年六月十 _I--;・・?.:;;・ー. ''・・_.・・・TJFt.I:・・イ予_ムー‥・. ま丁1-・・- - ・号 I ; . % 戦では、r山原はエーさん、心‥川東公子 さんと払の医科茜;<チームかな んと如・琉都で3.位となってしまっ たのです (/写票8・9)O 弓渚郡 の思い拙というとただ禁しかった ことばかりで、試合のことなどあ まり夷剣でなかったということな のか、よく覚えていませんが、さ すがに女子部として武道館で戦っ たその時の試合の柴張慾は記憶に 残っています.上に観客幣のある 試合鳩など初めてのことで、天井 が高いせいかやたらに遊-みえ、 はじめて射場に立った時には矢が 向こうまで編-とも思えませんで した("試合十二射二八四射i でしたが、石原梯子さんが四射皆 中を続け、サ適を.q過したあと、 よたよた挽く他のメンバーを引っ 張って華ヤ決勝、避決勝を勝ち抜 いて、あれよあれよと言う問に決 勝城に進糾してしまいました(華 決僻の相手は日本大学'決彬の相 手は早稲田大学という滋率さeあ やう-東京都代表として京都に行 Jlところでしたか'決勝戦では す㍉かり舞い上がって私はo中と いう情けなさで順当に取れまし た''根性のない弘はなんだかほっ としました、.でも、今から思うと 東京医科梅村大学の運動都が団体 戦で発京都の二位になるとはなか なか大したものです。新田にだっ て結果が鴇徹されたのですから! 石原さんは、二年生でしたが、 前年の麦休みには弘先生のいらっ しゃる道場に通って7日甫射を夏 休み中続け、強-安定した射を金 将した方で、やはり上適の控は強 いlbi.:志と密度の高い紙背、それを 続けられる休力と気力がそろって こそと納得させられました。 弓を手にしなくなってから二十 五年経ちますが.弓道部をふりか える時'昼下がりに、授漣の行わ れている校舎を彼方に見ながら、 大きな木の下でよく練習していた ことを思い=-=しますぐ叫にいるiJ は少なくit授業中ですから撫湖も ありませんかこ あたりは軸か

1 1,jinkyukai.com/img052.pdf · -62 -屯監\三と 1 1, ~ 一 √- 【~'~ 1、 TJ-二二岬-】 、一二二二:ン了 乱J瓜.虹1-1・ I I・--I 写f:j9 昭和42年6見右から石凪井田.蔦木選手

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Page 1: 1 1,jinkyukai.com/img052.pdf · -62 -屯監\三と 1 1, ~ 一 √- 【~'~ 1、 TJ-二二岬-】 、一二二二:ン了 乱J瓜.虹1-1・ I I・--I 写f:j9 昭和42年6見右から石凪井田.蔦木選手

-62 -

屯監\三と

1     1,

~ 一  √-  【~'~   1、

TJ-二二岬-】 、一二二二:ン了

.虹1-1・ I乱J瓜

I・-

-I

写央8 昭和42年6良寛京都女子団体噸写f:j9 昭和42年6見右から石凪井田.蔦木選手

63

ることがわかっていても、学部で

練習場を持っていたのは、当時テ

ニス部と弓道部だけと思いますo

そして何よりも、「よしこれで本

格的な弓道場建設の足場固めが出

崇た.化と会員で嘗んだものです.ノ

寄集、その後、教養部に立派な本

格的な弓道場ができたのも、この

仮設弓道場があったからこそと思

います。吉田部長'浅野先地、弘

宮地帥範のおかげと感謝してお

ります¢

私の弓述部(女子部創生の頃)

私が弓道部に入部したのは昭抑

三十九拝四inTT.、クラブ抑介の.Tで

す÷同時に<学した同じクラスの

岩崎起久子さんt底1 8、)と二人で

申し込みましたo岩崎さんの動穀

は細りませんが、弘ははじめて見

た弓道の美しさ(.デモンr<'トレー

ションは中村哲雄先巧だったかと

思いますが) にひかれ、それに根

性や機敏性をあまり要求されそう

もない通勤部ということで申し込

んだのですU その当時は女子*員

はおらずtその前に!時在播して

いた方がおられたとのこJL.でした

Jr;"'二・.溝.I.,ます‥こ.:,ってL

.

えって、, i:)つくりされま・.⊥)] 当時

井 田 瑞 枝(草l)

は嵯縦のついたちゃんとした弓道

壕はなく'石ころだらけの原っぱ

の嫁にあづちとすのこがあるのが

道場でした。不器印で、はじめか

ら終りまで的に当たらない弓適で

したが、やさしい先輩方や師範の

弘先生のご指導のたまものか、入

学時に入った3つのクラブの中で

唯.?長続きしたクラブとなりまし

た<'今思うと、師抱の弘先生は、

個人の力里に銘じた指導で、我々

それぞれがめざすべき理想の弓道

のイメージを明確に与えて下さっ

た'すぼらしい教師でいらしたと

患います'・

春や皮の合宿は'凝川中か免敏

旅館で行われ、なんといっても十

時と一二時のおやつに山していただ

いた飴色の野沢菜漬けと砂鶴じょ

うゆをかけたおやさが楽しみだっ

たことを思い出しますC おやつま

で出して下さる旅館なんて今どき

ありませんよね<.魚触旅館のご主

人の弓適をめざす学生に対する心

入れのおかげで楽しい合宿を味わ

うことができました.)度合宿では

夜に志簸高原の丸池あたりまで先

鞭方にドライブにつれていって頂

いて、輪の空に雄大に展開するさ

そり座を見たのが忘れられない思

い出です。また、春合宿は雪の降

る日に開け放しの遥鳩で練習する

寒さをしみじみ味わいました.そ

のせいかこのi年生の春合宿では

畢食いの斉藤浩之(〝学6)先鞭に

負けぬ早さでどんぶりめLを食べ

て、合宿期間中になんと三キロも

体重が増えて、以来今日にいたる

までその体読以下に下がったこと

がないとは、悲しいことでござい

 

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し、伊勢神宮の合宿で毎日おやつ

に食べた「赤措T の味も忘れがた

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食べ物の活はさておき、札と岩

崎さんに加えて雷学の荘野礼子さ

ん、東谷邦江きん (看1 6) でス

タートした女子劫でしたが、登昭

和四十年には溝口万理子さん 八草

i 9{川起明子さん (肴2)'次の

年に石原桂子さん (医2 0)、浜田

和栄さん ;有_ 8)、兼子晴美さん

・高木公子さん (学2 0)、城巳智

子さんへ苧2 1.)という具合に部員

が増え、女子だけで教養部で合宿

を行うまでになりました。そのこ

ろお茶の水の材餅の敷地内に退場

がありましたが、その庭に「かわ

らなでしこ」がどんどん増えて可

憐な花を咲かせているのを見て'

同期の中野雅徳さんが「まるで弓

道郎の女子のようにはびこる」と

悲しそうにいっていたことを思い

出します。これが勢いというもの

でしょうか、昭和四十二年六月十

_I--;・・?.:;;・ー. ''・・_.・・・TJFt.I:・・イ予_ムー‥・.

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戦では、r山原はエーさん、心‥川東公子

さんと払の医科茜;<チームかな

んと如・琉都で3.位となってしまっ

たのです (/写票8・9)O 弓渚郡

の思い拙というとただ禁しかった

ことばかりで、試合のことなどあ

まり夷剣でなかったということな

のか、よく覚えていませんが、さ

すがに女子部として武道館で戦っ

たその時の試合の柴張慾は記憶に

残っています.上に観客幣のある

試合鳩など初めてのことで、天井

が高いせいかやたらに遊-みえ、

はじめて射場に立った時には矢が

向こうまで編-とも思えませんで

した("試合十二射二八四射i

でしたが、石原梯子さんが四射皆

中を続け、サ適を.q過したあと、

よたよた挽く他のメンバーを引っ

張って華ヤ決勝、避決勝を勝ち抜

いて、あれよあれよと言う問に決

勝城に進糾してしまいました(華

決僻の相手は日本大学'決彬の相

手は早稲田大学という滋率さeあ

やう-東京都代表として京都に行

Jlところでしたか'決勝戦では

す㍉かり舞い上がって私はo中と

いう情けなさで順当に取れまし

た''根性のない弘はなんだかほっ

としました、.でも、今から思うと

東京医科梅村大学の運動都が団体

戦で発京都の二位になるとはなか

なか大したものです。新田にだっ

て結果が鴇徹されたのですから!

石原さんは、二年生でしたが、

前年の麦休みには弘先生のいらっ

しゃる道場に通って7日甫射を夏

休み中続け、強-安定した射を金

将した方で、やはり上適の控は強

いlbi.:志と密度の高い紙背、それを

続けられる休力と気力がそろって

こそと納得させられました。

弓を手にしなくなってから二十

五年経ちますが.弓道部をふりか

える時'昼下がりに、授漣の行わ

れている校舎を彼方に見ながら、

大きな木の下でよく練習していた

ことを思い=-=しますぐ叫にいるiJ

は少なくit授業中ですから撫湖も

ありませんかこ あたりは軸か

Page 2: 1 1,jinkyukai.com/img052.pdf · -62 -屯監\三と 1 1, ~ 一 √- 【~'~ 1、 TJ-二二岬-】 、一二二二:ン了 乱J瓜.虹1-1・ I I・--I 写f:j9 昭和42年6見右から石凪井田.蔦木選手

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写れ10 平成9各 訂合宿 浅野先#.歳島先生を囲んで

65

で、約度の明るい光の中で気の

あった仲間と余念なく的に向かっ

ている気分、それが私の追憶の巾

の弓道部です。

青春イコール弓道部、万歳!

弓道部の歴史は長-、戦後は昭

和三十五年頃復活との事である

か、私は昭和四十五年に入部し、

それ以降クラブ描動に連続的に係

わって重たということでこの原瑞

を担当する羽目になってしまっ

たoそこで私の入部以降の部活に

関して記憶の糸を手譲りながら弓

道部の歴史をふり返ってみる0歳

のせいの記憶のあいまいさから多

少のずれはあるかも知れないがお

許しいただきたいo

弓道場は過去立回建て替え、移

3・賢帝の変遷があったoそこでそれ

を各節百として現在までの錐活に

ついてたどってみようと患う。

私が入部した昭和四十市4年には

教養部に野天(.崖根が無-下に謂

t・′Tヅ一

JI.・㍉・.L・・∵こ て.:・h・).i..二-.t'二.・1..Jt.I.. ''.:.

ける抄を蘇り上げたものが矢の行

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谷川  省三 (掌24LV

善つく所に作ってある状態)の退

場、そしてお茶の水区別披材研究

所の…部に板敷き、かつ簡単では

あるが屋根の付いた当時としては

立派な道場があった。しかしその

喚すでにこの材研の道場は土地明

け渡しの話があって近々取り壕し

となる予定であり、その代伴えに

と教査都に道場を建てて-れると

いう話が進行中で、先非諸氏はい

ろいろな道場を見学して参考とし

ながら輩望番を作成しておられ

たCその結果昭紬四十六年、戸綿

りの出来る本格的道場がグランド

の江戸川寄り、音兵舎であった縫

物の横の敷地に完成したのであ

る。これは大感激の出来事であっ

た0.

7ヮ・Z..・?..JfT・,J::・・・・呪.R _ -・:・]・:I 7..Jr. ・弓

道部の鎌とも・・.リt<る万i として浅

野義一郎先唾tDGJか和則設間

もなくより今現在迄もいられる他

に'師継という呼称で弓遇の技術

的指導、その他称病に関する柵談

に乗る水場を設けているか、当時

は弘 富雄先銀が師範をしていら

れたe中売公舎oBでタバコが大

好きな方であったと記憶してい

J(i

るo先生は、今現在良-中ってと

ても強いクラブになる事を肖指す

よりもー上事柄中断する事もやむを

得ないが、将来再開したいと思っ

た時、礼金<としてすぐに弓の世

卵にもどれる様なきちんとした弓

を引くよう御指独下さったと聞い

ており、今もその理念は生きてい

ると思う.'私は入部して4ヶ月程

教えを受けたが、先生は肺癌のた

め昭和四十五年卜月に他界されて

しまったo そしてPn r・相川十六年新

道鳩が教養部に完成し、またその

年、弘先生の後任として放鳥正大

先生が師範に就任された。先生は

;;・?.・・'了弓・:91.E・:・'・.・.I..・・・ -t山.=jJ.・こ.I 'エー

L

弓心髄である) 0日で、姥か弓道

部の軟弱さにあきれつつも、クラ

ブの休賓そのものから御指申下さ

り、この頃か,つ識滑ら定期、詫時

に榛力全鼠が集合するようにし、

今蓬の仲良しクラブから体育会風

の多少の厳しさを持つようになっ

てきた。部員も徐々に増え、試合

にも選手を選んで(それまでは遭

ぶというよりかき集めて臨む状娘

であった一参加するという創設時

の先非方が想像もできなかったよ

うなクラブに変身していったので

ある。弓道部のみの特典とでもい

える串だが、弓道場は他のスポー

ツと共同するという事が触!・かった

ため、弓道部のみが使用していた

ことから道場そのものが練習の甥

と同時に部室であり溜まり塙で

あった。貨弼義、実習の合間、あ

るいは最中に道場に集まり、練習

しながら退んで(適か?) いた。

そんな事から部員は縦にも横にも

上下無視して仲良-していたよう

. ・;!梢)焉.'

l一‥IJ:~. I:・..;. ・・,I:・こ)..胤か丁/-.・'

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かなければならないナ弓通報では

試合前には合宿所を使って合約を

し、また他に故化のために審ニ‥

月'隻八月の二回遠征合宿をして

いる.I.合宿場所は、退場のある旅

館ということで使える宿が限定さ

れるため、だいたい同じ所を利洞

しているのであるが、軸から晩ま

で昼食休憩を除いて+!日中弓を引

/)のである.∧p超勤塁は少ないもの

の!日中のせちんはでジワジワと

境界が日毎に募ってくるつらさも

あり、また弓だけで小口が終わる

楽し′\もある石・)練習である

f写轟川)ぅその最終日の打ち上

げコンペは、皆諌習のウップンを

鳴らすか細-飲みま-り'腔代思

い出深い出来事が出来し、世代の

重なった者の染まりがあると鈷範

に(あの時の-・・・」が出て来るれ

失敬有り、泣き笑いもある耗活の

中のi大イベントであるO

昭和五十二年'飯島師範が転勤

のため退任され、その後釜にはや

はりOBが面倒を見るのか一番良

いという許がいづこからか沸き上

がり、当の供に黒羽の矢が立って

しまったのである。覚悟を決め昭

和就十三年、帥職として適職の名

札に位置を占める事になるが、学

牛を指やするというより、や純に

遊ぶというのか収束であった。

稲川の道場は夏・冬'唆・冷帯

完備でもおまけに漠には宍道等で

飼っている蚊とも仲良しであるた

め、蚊取線香が必舗品でもrtた

が'昭和苑十円咋'それが火元と

いわれているのだが人災を起こし

てしまい、道場の内都牧び輔品が

焼けてしまったのである。翌年に

は改修してもらい、また同し所で

活動できたのであるが、以後火気

取締りが厳し-なり、鴨に冬場は

弓道の性格上やればやる指冷え込

むという厳しい状撃で、冬場はあ

る凄味では適賜イコール修行の甥

という感じであ[た∧"ただこの頃

からと思うが'適喝いりぴたりの

成梨が徐々に山て重たのか、全体

的には的中率は良ノ\なっており、

試合として春秋の医塵鵬リーブ、

封公許戦へ仝賊休、虫阪休、部学

辿リーグ戦、全開裏大金、その他

放校との綻珊戦と四月から十州円

まで臼白押しで忙しい・鞍を過ご

すのであるが、そ∃ lぞれ、そこそ

この成績を納めている(写舞I tlh

iF或三時'谷川帥梅坪のせいか

息切れしてしまい'平成El鞍、浦

野 尚帥鞄を迎えることとなり、

谷川は柵性役に退かせてもらっ

た.-今も合宿に参加しつつ、学生

の迷惑も顧みず遊んでもらってい

るのだが、このこ手軽弱の部を眺

めていて時代の変化といえば当然

であるか'学生気質の変化をつ-

づくと慾じる・∴しろん良い、憩い

という哲ではない、ノ いちばん大き

なインパクトは、共用相次試験か

娯まった頃入学してきた学生の変

化であったように思うO LかLい

ずれの時代も_宝船大弓道部の部員

は皆柴前日で'少なノ、とし執行部

を塑っ由隼まで…隻僻見抑部活に取

り組み'なかにはその後も六年を

適して雄藩に学生生活を捧げる者

も警ノ\いたoさすがに牢後定常

的に弓を引-薯は放少ないか'こ

れは仕事柄時間と場所の確保が車

轍の枝であることからやむをはな