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Title <論説>平安時代宮廷社会の〈土器〉 Author(s) 吉江, 崇 Citation 史林 = THE SHIRIN or the JOURNAL OF HISTORY (2006), 89(6): 789-816 Issue Date 2006-11-01 URL https://doi.org/10.14989/shirin_89_789 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

Title 平安時代宮廷社会の〈土器〉 Citation 89(6): 789-816 … · 圏史の視角」(糊講座日本荘園史1 荘園入門臨吉川弘文館、 一九八九

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Title <論説>平安時代宮廷社会の〈土器〉

Author(s) 吉江, 崇

Citation 史林 = THE SHIRIN or the JOURNAL OF HISTORY (2006),89(6): 789-816

Issue Date 2006-11-01

URL https://doi.org/10.14989/shirin_89_789

Right

Type Journal Article

Textversion publisher

Kyoto University

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平安時代宮廷社会の〈土器〉

平安時代宮廷社会の〈土器〉(吉江)

【要旨】 平安時代における宮廷社会の饗宴儀礼は、勧盃者の飲酒が伴い土器を用いる旬薄型と、勧盃者が飲酒せず朱器などを使用

する節会型に大別できる。日常的な儀礼形態である旬儀型では様器の盃から土器への変更が頻繁になされたが、様器は土器の延長

線上に位置する器とみるのがよく、使用の背景には饗宴主催者の装飾の意図が窺える。~方、様器から改められる土器の多くは春

日土器であり、それは黒色土器に相当すると推測され、土器を必要とする社会構造の起点を春日土器の登場に求めることができる。

このような点からも、八世紀後葉から九世紀前葉にかけてのく土器〉の変容は、律令官僚制の展開に関連づけるのが適当で、律令

官人の常食制の崩壊が須恵器生産の解体に影響し、公卿制の成立が土器を用いる薄儀型の饗宴儀礼の活況を引き起こしたものと考

える。                                      史林 八九巻六号 二〇〇六年一一月

は じ め に

都城から出土する〈土器〉

は① .

八世紀後葉から九世紀前葉を境に大きく変貌する。生産の開始以来、主要な食膳具であ

り続けた須恵器は、土師器に凌駕されて主体を鉢や壼・甕といった貯蔵・調理具へ移行し、また、多様な器種から構成さ

れていた土師器は、器種の減少、製作技法の簡略化を通じて、大量生産を志向することとなる。他方、土師器に炭素を吸

着させた黒色土器や、二塁陶器・豊強陶器といった国産施柚陶器など、技術の進展に由来する〈土器〉が登場することで、

(789)ユ

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多彩な食膳具の様相が現出する。これらに白色土器・輸入陶磁器を加えた複合的なあり方が、一〇世紀後葉から=世紀

前葉にいたるまでの宮廷社会における〈土器〉を規定することになるのである。

 こうした〈土器〉の展開を歴史的に位置づける試みは、文献史学と考古学の双方から多くの蓄積があり、研究史の整理

も様々な局面でなされてきた。それゆえ研究動向全体の概観はもはや必要ないとも考えるが、本稿の視座を明確にするた

                                               ②

めにも、今日まで影響力を持続する浅香年木と西弘海の論考については、簡単にでも触れておかざるをえない。

 手工業史研究の{環として窯業生産を考察した浅香は、律令制期の窯業の特質を在地の生産物を調として収奪する形態

に求める。そのうえで、貴族的領有の進行によって須恵器生産集団が解体した畿内と、後進性ゆえに貴族の需要と国衙機

構の関与によって施紬陶器生産へ移行した尾張というように、上記の変化を律令制崩壊の地域的二面性のなかで位置づけ

た。浅香の研究は、〈土器〉生産の場である在地社会の動向に着目した分析であり、〈土器Vの変容を、調制・交易制の推

③               ④

移や荘園制・供御管制の展開に引きつけて論じる考察は、こうした視角を継承し、深化させたものといえる。

 浅香の問題意識が〈土器〉供給の場に立脚したものだったのに対し、西の論考は、考古学的見地から需要・使用の側面

に焦点をあてる。西は、湯量の規格性、多様な器種分化、土師器と須恵器の互換性、といった点に七世紀後半以降の〈土

器〉の特質をみる。そして、その前提に大量の官人層の出現があったことを推測し、そのうえで、このような〈土器〉の

                 ⑤

様相を「律令的土器様式」と概念化した。惜しむらくは、律令制期の〈土器〉の特色に主眼があったために、変質過程に

はさほど注意が払われていない点で、「律令的土器様式」の創出を官人層の出現にみながら、その転換を官人とは直接関

係のないインフレの進行や工人の自立化に求めたことは、一貫性を欠く議論であったとの批判もできよう。その意味では、

緑粕陶器の出現を平安初期の儀礼整備や唐風化といった宮廷社会内部から説明しようとした高橋照彦の論考が、西の問題

                                    ⑥

提起を正面から捉え直した分析として、研究史上の重要な位置にあるものと考えたい。

 このように浅香と西の研究は、〈土器〉の変容に関わる研究の対照的な二つの方向性を示唆する。もっとも両者は弁別

2 (790)

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しうる立場ではなく、相互補完的になされるべき視角であろうが、研究動向を顧みるならば、後者のような需要・使用に

関する分析が相対的に立ち後れている観は否めない。そこで本稿では、宮廷社会における〈土器〉の使用という観点から、

前述の〈土器〉の変容を跡づけてみたい。それは、一つには上記のごとき研究の不十分さを感じるからであるが、一方で、

中央集権的な国家形態においては、在地社会の動向は宮廷の意向・趣向に左右されざるをえず、ならば、前者のごとき生

産技術や流通といった社会経済史的な様相を理解するためにも、その前提に存在する宮廷社会、ひいてはその中枢に位置

する儀礼構造を把握することが、必要不可欠な視座になると予測するからでもある。

平安時代宮廷社会の〈土器〉(吉江)

①出土遺物としての土器が焼き物総体を示すのに対し、史料上にみえ

 る土器が土師器を指す事例が多いことに鑑み、本稿では焼き物として

 の土器を〈土器〉と表記して史料用語の土器と区別する。

②浅香年木門平安期の窯業生産をめぐる諸問題」(『B本古代手工業史

 の研究臨法政大学出版局、一九七一年)、西弘海「土器様式の成立と

 その背景」(西弘海選稿集刊行会編凹土器様式の成立とその背凧濫真

 陽社、一九八六年、初出一九八二年)。

③ 近年の古尾谷法言の研究は、こうした観点からの考察を整理したう

 えで、調およびそれと連動した交易が調達の主流だった須恵器と、交

 易が主流の土師器との甲屋があることを、奈良時代初めに遡らせて指

 乱する。古尾谷身為門文献史料からみた古代における土器の生産・流

 通」(義江彰夫編魍古代中世の社会変動と宗教庄内州弘文館、二〇〇

 六年)。

④戸田芳実「山野の貴族的領有と申世初期の村落」(『日本領主制成立

 史の研究輪岩波書店、 一九六八年、初出一九六=ヰ)、網野善彦「荘

 圏史の視角」(糊講座日本荘園史1 荘園入門臨吉川弘文館、 一九八九

 年)など。

⑤「律令的土器様式」については高橋照彦の批判が存在する。高橋の

 議論は、主として広範な地域におよぶ門様式」の斉一性を疑問視した

 ものであり、適切な批判であろうと考える。しかし、臼常的な食事を

 含む宮廷社会の饗宴儀礼こそが、律令国家を成立させる上での基盤に

 位置したとの認識に立つならば、都城に限定された「土器様式」であ

 っても、門律令的」と冠したところで問題はない。むしろ、それを意

 識的に避けることで、中央集権国家における宮廷社会の位置づけを、

 過小に評価することにつながりかねないものと危惧する。「律令的扁

 という語に再考を早る高橋の批判は、ややもすれば「律令体制」なる

 概念の是非にも関わるものであり、性急過ぎる議論ではなかろうか。

 高橋照彦「「律令的土器様式」再考」(森黒門先生還暦記念論文集刊行

 会編『瓦衣千年盛~九九九年)。

⑥高橋照彦門平安初期における鉛馳陶器生薩の変質」(『史林駄七七一

 ⊥ハ、 一九九四[年)。

3(79ユ)

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一 富廷における饗宴儀礼の二類型

4 (792)

 豊楽院を儀場とする国家的な饗宴儀礼が後退し、饗宴の主体が内裏内へと移行した平安時代中期において、その頂点に

                   ①

位置したのは紫雲殿で開催された節会と旬儀であった。節会と旬儀とは、天皇出御のもと公卿が参入して饗撰が設けられ

る点で共通するものの、天皇の出御形態や公卿の座の配置など基本的様相を異にし、それは臨時的で壮麗な節会と日常的

                      ②

な政務に付随する旬儀との本質的な差異に起因する。食膳具についても相違が窺え、天皇が銀器を用いた点は等しいが、

                                           ③

饗饅に預かる公卿の場合は、節会では朱器、薄儀では土器というように、異なる種類の器を使用した。宮廷社会における

〈土器〉の様相を分析するに際しては、使用された食膳具が明確な節会と旬儀の性格をいかに位置づけるかが重要になる

と推測され、儀礼形態から窺える両者の特質をあらためて整理することからはじめたい。

                                      しきいん

 まず注目したいのは、配膳を担当した官司・官人の様相である。節会では、内弁の「侍座」との言葉に従って公卿が参

入し、大膳職・大炊寮が朱器を用いて食事を供し、造酒司が朱器の盃で酒を催す。ここからは節会の特徴が律令官司の関

与にあるといえるが、彼らに対して配膳を促すごとき命がだされた形跡はなく、参入した公卿からみると、なかば自動的

                             おものたま

に供膳されることとなる。}方、旬儀においては、出居次将の「御飯給へ」との指示の後、内豊が進物所から索餅などの

下物を受けて公卿へ授け、酒番侍従が造酒司の準備した酒を土器の盃を使って勧める。内竪は南廟西第}聞で「朱細土」

(荏下階)を用いて下物を受け、日華門外に戻って分け盛った後に公卿のもとへ持参するのであるが、公卿が使用した四

種の狙が土器だったことに照らすと、内竪が分け盛った器も土器だった可能性が高い。受盃役となる酒番侍従に関しては、

次侍従とともに番をなして天皇に仕えたことが『延喜式』中務省の記載から窺え、節会とは異なる旬儀の特質を、出居次

将・酒番侍従といった侍従的な組織による供膳にみいだすことが可能である。

 宮廷儀礼一般において、官人が天皇から酒盃を給わった場合には、酒を銀盃から土器に差して飲むのが通例で、飲酒後

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平安時代宮廷社会の〈±器〉(吉江)

             ④

に庭中に降りて拝舞をおこなった。上気で下物が朱器の下器から分け盛られることや、土器の酒盃が用いられることも、

このような土器の盃に馴して飲む所作と類似の意味を有するのだろう。『古事談』巻二には、「旬紫雲黒革寄也。主上御ヲ

ロシヲ次第取下之故、用二酉貝一也。尋常節会ニハ、依レ無;取下秘儀ハ以レ箸可二引二一早言愚存」との言説が載る。この理

                                         〔匙〕

解をどれほど}般化できるかは検討の余地があろうが、旬儀における「御ヲロシ」の存在と「浄貝」なる清浄な食器とを

結びつける点は注目され、「清しと見ゆるもの」として「土器」を掲げる『枕草子』の著名な史料も、こうした理解に通

熾する意識かもしれない。食膳具の違いの背景には、律令官司によって自動的にもたらされた節会と、侍従的な組織を通

じて配膳された食事を天皇からの下物と認識し、清浄な食器を用いるべきと理解された旬儀との、観念的な相違があった

ものと理解する。

 一方で、公卿にとってそれ以上に直接的でかつ関心が高かった差異は、勧盃における作法の違いであった。旬儀におけ

る勧盃の作法は、=献之者唱レ平。大臣指。思者脆飲、盆立唱レ平。大臣執レ盃飲」と記されることや、「先例呼レ平勧レ盤。

貫首人平。勧者脆、起旭蟹レ平勧」とか、「執二土器一参上、入レ主唱レ平。予小弓。脆傾、又応唱レ平。薄曇傾返レ盃。次第唱

           ⑤                 ⑥

レ平及二出居ことの記載から、勧盃者である酒番侍従の下平↓公卿の揖↓酒番侍従の飲酒・唱平↓公卿の飲酒、という形

でなされたことを知る。他方、節会における勧盃作法はというと、旬儀ほど明瞭ではないものの、勲業と同様な所作をと

                                    〔飲〕

つたことが判明する朔旦冬至に際して、「先例、勧盃侍従唱レ平献。第一人相揖。寒湿飯、夢更起唱レ平舘レ之。而無二其事訥

              ⑦

宛如二節会殉失也」との記述がみえ、ここでいう「油画篇其事↓宛如一撫即会」とは、節会においても造酒司の豊平が儀式書

で確認できることからすれば、唱平の有無とは関係ない所作、すなわち勧盃者の飲酒がなかったために節会のごとき儀礼

形態であった、ということを意味するのだろう。節会の勧盃に関して具体的な記載が少ないのも、旬儀に比して関心が薄

かったからというわけではなく、造酒司の唱平↓公卿の飲酒、という単純な所作であったことによるものと考える。

 直営の作法上の相違は儀礼の 部分に過ぎず、それゆえ些末な問題とも映りやすい。しかし、公卿の立場からみるなら

5 (793)

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ば、それは見過ごしがたい相違となる。すなわち、造酒司から給わった酒を単純に飲むだけの節会に対し、旬儀では自ら

が飲む前に勧盃者である酒番侍従へ飲酒を促す役割を果たさねばならないのであり、そのためその差異を十分に承知して

おく必要があった。勧講者に飲酒を促すことがもつ意味について明確には示しがたいが、被勧講者の勧盃者に対する謙譲

や遠慮の表現をそこから読み取ることも不可能ではない。そして、長和五年(一〇一六)の重石旬においては、酒番侍従

が持参した盃が「節会酒盃」であるのをみた摂政藤原道長が、「献レ盃者非レ可レ飲レ酒。聖母日用二土器門島飲」と上卿藤原

                                    ⑧

青光に示しており、ここからは、勧覇者の飲酒が土器使用と不可分だったことが窺える。勧盃者の飲酒の有無は食膳具の

相違とも連動したのである。これらを勘案すれば、勧盃の作法の相違を些末とみるのは適当ではなく、むしろ儀礼全体に

通底するような節会と旬儀の本質的な性格の差異を示す所作として評価するのがよいと考える。

 勧盃作法からみた節会と旬儀のあり方は、様々な儀礼のなかで一驚及がなされた。例えば、『北山抄』巻一、二宮大饗事

は「於二小門前石階壇上[取レ盃、二人相対酌レ酒唱レ平擬。把人揖レ之。突目左腕一飲了、起又酌レ即下レ平。次々唱レ平行レ之、

如二男儀一也」と記し、『北山抄瞼巻一、釈奨事でも「所司設二百度食司毛蚕百造酒正以下相酌献レ盃、如鋲即会規」と述べ

⑨る。また、寛仁三年(一〇 九)の皇飾罫元服儀においても、「一献。唱レ平筆二節会4但彼是云、可レ用罵旬儀一欺者。専大

                ⑩

臣指、執レ盃者跳飲、又起唱レ平」とされ、節会と旬儀との勧盃作法の相違は、饗宴を伴う種々の儀礼の基準とされた。な

かには節会型の勧盃作法と旬儀型の所作とを組み合わせた儀礼も存在し、仁寿殿でなされた内宴では、「初献、内蔵頭執

レ盃。三献以前、錨鎖節会儀一用二所司事績以二銅三猿一撮レ杓。四献以後、公卿従レ上身盛行酒。其儀如レ旬。蓋用二土器ハ杓

畏テ這「三献以上侍臣行嚢畿獅題(露)羅無毒乱離輔蟹罫5のごとゆ三献以前は内蔵

頭・侍臣が飲酒せずに造酒司の盃を用いて酒を勧め、四献以後は公卿どうしが土器の盃を使って飲酒しながらおこなった

らしく、儀礼途中での節会型から旬儀型へと作法の変更が窺える。

 このような観点でみるならば、太政官庁を盛場とした列見の次第は興味深い。列見は成選人を点検する儀礼で、庁での

6 (794)

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平安時代宮廷社会のく土器〉(吉江)

政務終了後に饗宴が催された。設けられた饗僕は、儀場や座の配置を異にする三種類から構成され、庁から朝所へ移動し

てなされた朝所饗、朝所から庁へ戻り催される庁宴、庁宴の延長線上の穏座の三つが存在した。定論も同様の三種の儀礼

を有しており、大学寮における釈璽でも、百度食という東西堂での儀礼を挟むが、庁でなされる寮饗が列見の朝所饗に対

応し、野饗と百度食の後には庁で宴座と連座が催された。そして、長元元年(一〇二八)の定考では、政務と朝所饗は通

常どおりなされたものの、庁宴と害草が「今年殿下御重喪之中、女院又如レ此。官中起行二遊興事}哉」との理由で停止さ

れ、それは「有レ定斎レ止二宴・穏座一」た数日前の融業とも関連した。こうしたことからは、庁宴と穏座は遊興と捉えられ

                                       ⑫

るものであり、かつ政務に付随する朝所饗とは明確に区別しうるものだったことが判明する。

 それでは、管見における勧盃はいかなる形態をとったのだろうか。朝所饗では、勧盃者が上卿へ酒を持参↓上卿の揖に

従い勧実者が飲酒↓勧害者が上卿へ酒盃を献上↓上卿が次人に目す↓次人が上卿のもとへ進む↓上卿が飲酒して次人へ盃

                                              ⑬

を渡す、といった行為の繰り返しで酒宴が進んだ。盃が渡る巡業がみえる点は無視しえないものと考えるが、勧盃者の飲

酒が存在することは旬儀の作法と等しい。これに対して当無では、銀盃者が酒を盃に入れて唱平↓上卿が飲酒↓響岩者が

次人へ酒を勧める、というように勧盃者の飲酒が介在しない。また、盃は予め参加者の前に設置されており、次人以下へ

の伝盃の必要も存在しなかった。穏座における作法は明瞭ではないものの、盃の鷺流が記されることから推すと、朝所饗

と同じく勧盃者の飲酒が存在した可能性は否定できない。

 用いられる盃も朝所饗と庁宴とで異なっていた。すなわち、朝所饗で使用される盃は、三献以前が様器、四三以後が土

器だったのに対し、庁宴は『西宮記』に「参議以上大盤中居二白銅壼・盃弔弁・少納言座用二朱漆魂外記・史座用二黒盃ゆ

以上包有レ壺」とされ、『知信記』天承二年(二三二)三月二六日条では「朱器盃」を使用したと記す。様器なる食膳具

については次章で述べることにしたいが、土器が使用されて勧話者の飲酒がある点で朝所饗を旬儀型に、白銅盃や朱捨盃

などが用いられて勧愚者の飲酒がないという点からは庁宴を節会型に、それぞれ区分することが可能である。そして、前

7 (795)

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述のように庁宴が遊興と認識され、朝所饗が政務と一体であるという相違は、節会と旬儀との性格の相違にも対応する

ものであり、食膳具と勧盃作法とに基づく節会型と旬儀型との違いは、饗宴儀礼の本質的な差異と不可分な要素として

一般化しうるものと考える。

 先行研究をみるならば、高位者が用いた朱器に対して土器はそれよりも低い地位の人が使用したというように、食膳

具の利用形態を身分差に還元することが多い。「新嘗会貰食料金二前件幻其雑器、親王已下三位已上朱漆、四位已下五位

已上鳥長井土器」との繭延喜式』大膳職上の記載からは、こうした側面も否定はできないだろう。しかしながら儀礼全

体をみるならば、身分差・階層差は節会型・旬儀型の範購における差異として捉えねばならない。日常的な場面では土

器が使用され、遊興的な儀礼では土器以外の食膳旦ハが用いられたという上述の基本的な傾向は、身分差よりも上位に存

在した概念と考える。

8 (796)

① ここでいう旬儀とは具体的には旬宴を指すが、旬宴と表記することで宴

 が政務と別に存在するかのごとき印象を与えかねず、本稿では旬儀として

 論じていきたい。

②拙稿「律令天皇制儀礼の基礎的構造-商御座に関する考察からi」

 (『史学雑誌㎞一一二一三、二〇〇三年置。

③儀式次第については『西宮記幽州北山抄戸田江家次第睡などの儀式轡を適

 宜参照し、以下、それらに基づく場合には、煩雑となることを避けて基本

 的に典拠を記さないこととする。なお、逓常、銀器を使用する天皇の場合

 でも、御厨子所による首鼠は土器を用いて供せられた。

④『西宮記㎞臨時四、古座事など。

⑤『小右記軸長徳元年(九九五)一〇月一日条、万寿三年(一〇二六)四

 月一日課、長元二年(一〇二九)四月一日条。

⑥門唱平」の具体的な所作については不明であるが、『建武年中行事騙元

 日節会が「平をとなへてをのくす・むる也」と訓じており、また

 『江次第抄』巻一、元日宴会が「愚案、芸者称レ寿之意鳳」と記して

 いる。なお、『江家次第』巻一九、臨時競馬事、長和一二年(一〇一

 四)土御門殿競馬次第に「此問随二勝負肝行二罰酒㊨勝方近衛次将勧レ盃。

 用二造酒司酒ゆ働呼レ平虫レ常」とあることを考えると、唱平の所作は

 造酒司の酒の使用と対応するようである。

⑦『小右記無正暦四年(九九三)二月一日条。

⑧『御堂関白記輪長和五年(一〇一六)七月一六日条。

⑨『吉記隔寿永二年(=八三)二月二日条が記す釈奨百度食におい

 ても、「造酒司勧レ之。奥端二行。唱レ平如二節会ことある。

⑩魍小右記』寛仁三年(一〇一九)八旦天日条。

⑪噸北山抄睡巻葉、内宴事、噸小右記』三豊四年(九九三)正月二二

 酒蒸。

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⑫鯛友経記睡長元元年(一〇二八)塁壁二日条。なお、この時の釈

 奨では百度食も停止されたが、これについて明同晒八月五日条は、

 門宴・穏座依二故殿御事一振レ停駄。華箋二百度座一事、是非二先例噸上卿

 失錯所レ被レ行」と記す。

⑬三流は酒宴で多くみられる所作であるが、被勧只者(腱尊者)が次

 入へ盃を放したところで勧盃者が復座することから考えると、勧盃者

 によって直接酒を勧められる立場の人と次入以下との差を明確にし、

加えて、盃を流す上位者と盃を渡される下位者との恩恵的な関係を象

徴的に表現するものだったと推測する。なお、朝所饗に対応する釈婁

の母堂では・「漂白如正壮齢唱レ平・余揖而不総猶勧レ盃・示二気

負令聴次唱勧・鍍レ誌馳というように・康平の存在によって

朝所饗と比較してもより旬儀に近い作法となった。魍小右記』覧弘八

年(~〇一~)八月~六日条。

二 旬儀型の饗宴儀礼と様器

平安時代宮廷社会の〈±器〉(吉江)

 前述のごとく、宮廷における饗宴儀礼は、勧盃者の飲酒が伴い土器を用いる難儀型と、塁砦者が飲酒せず、里桜など土

器以外の器を用いる節会型の二つに大別しうると考える。しかし、平安時代の史料を通覧するならば、旬儀型の饗宴儀礼

の事例の方が節会型に比べて圧倒的に多く、宮中から貴族の邸宅にいたるまで広くおこなわれたと推察することはたやす

い。また、前章で触れたように、黒雲型の朝所饗においては、三献以前で翼翼の盃を、四献以降は土器を使用した。儀礼

                                               ①

途中における様器から土器への変更は、饗宴儀礼のうちで最も研究の蓄積が厚い大臣大饗でも同様で、中宮大饗において

                                      ②

も、三献以前の様相は明確ではないが、四献から土器の盃へ改めた事例が存在する。確たる証拠はないものの、平安時代

に広く催行されたと思われる旬儀型の饗宴儀礼においては、こうした様器から土器への変更が頻繁になされていたのかも

しれない。

                                       ③

 一〇世紀以降の史料に散見する専心については高橋照彦の詳細な分析が存在する。高橋は、『執政所抄隔に「栗栖野鼠

器」とあること、『うつほ物語』蔵開上の「かく墨つきて汚なげなるは伝へじ。これこそ白けれ、とて御机なる万富を取

りかへて」という記述や、『江家次第匝巻一七、東宮御元服の「用二様器殉皆無」との記載から、白く綺麗な器と予想され

ること、などを根拠とし、様器を栗栖野で焼成された可能性の高い白色土器に比定した。概ね首肯しうる見解と考えるが、

9 (797)

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様器の語麺や特殊例とした漂逸物誕宿木の鎮の鶏しなど・検討すべき余地はなお残っている・

 様器が異なる名称で呼ばれたと解しうる事例は管見の限り二例存在する。一つは、天暦四年(九五〇)八月五日越おこ

なわれた皇太子憲平親王百日儀に関する史料で、この日の次第を記す『吏部王記』によれば、「東宮供二進百日餅刈以二尋

常上膳大盤一供二院菓子・木菓子・餅・干物各八種⑩盛二様器花盤一」のごとく、唐菓子以下を盛った器は「様器量盤」とさ

れた。これに対して同日の『九暦』では、「留日、儲宮降誕之後当一百日↓依 世俗例一封二六御膳↓心外鞠儲鰍港置衝審鵬民鍋

器劃組難確喉欝碁器r匙鰭壮年」と、唐菓子以下を「銀平盤」に盛ったと記す。両者を比較すれば「様器花盤」が「銀平

 〔木〕

盤」と同一であることは明白で、なおかつ四種などの「銀器」と区別されていた可能性も読み取れよう。

 もう一点は、藤原道長の任摂政大饗において、その先例とされた道長の父兼家の事例である。藤原実資の指摘に従う形

で庇饗での濫行を決めた道長は、「但用三密饗一者、不レ可レ用一朱黒↓故殿未レ度二朱器【之問、被レ行二庇饗一権二様器一欺。以二

朱器一用二大饗}之人、用二様器[如何。欲レ見下貞信百重二曲太政大臣一之日記とと実資に述べるのであり、道長は兼家が「様

                  ⑥

器」を使用したと認識していたことがわかる。しかし、里家の先例に該当すると推測される寛和三年(九八七)の臨時客

については、マ天界公卿前肇折敷高論纏糠無用墾器形こと碧記』が述べてお⑫道長が述べ・「様器」

                   〔贋力〕

とは、『小右記』が記す「銀土器形」のことを指していることとなろう。

 様器を他の名称で示したと推定しうるのは以上の二例のみだが、道長が様器と同一とみた「銀土器形」については、

「銀盃阯器」「土器形」「銀土器」「銀土器代」「銀土器様器」など類似の呼称を抽出でき、すべて同一のものを指すと考え

       ⑧

るのが自然である。また、その具体的な様相を示すものとして天暦三年(九四九)の藤花宴があり、『西宮記』は「御意、

四種・生物・干物・窪杯、以レ銀作二土器総説甥鑛穿供了」と述べ、『花鳥余情』二七、寄生は同じことを「型置土器様銀

器 供二陣肴・薄畳ことする。さらに、欄御堂関白記』寛仁二年(}〇一八)九月一八日条には「如二春日器一以レ銀作レ之」

なる表現があり、春B器が春日土器とも称されることからすれば、『西宮記』の記載と類似するといえよう。憲平親王百

10 (798)

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平安時代宮廷社会の〈土器〉(吉江)

日儀における「様器常盤」が「銀平盤」と同じものを指し、兼家が用いた「銀土器形」が「様器」と一致すること、そし

て『西宮記』や『御堂関白記』などの具体的な記述を考え合わせれば、様器の語義はもはや明自といわざるをえない。す

なわち様器とは、「銀を用いて土器の形(様・代)に作った器」を意味するのであり、それは「銀土器様器(銀ノ土器様ノ

器)」や「土器様銀器(土器様ノ銀ノ器ごなどとも表現されたが、略されて「様器」なる名称に固定したとみるのがよかろ

う。このように捉えるならば、「銀の様式」も特殊例とせずに解釈でき、また、銀土器形およびそれと類似の呼称が=

世紀中葉以降にみえなくなることからは、様器なる名称の定着はその時期と推測することも可能である。

 重器の語義に関する筆者の理解は以上のとおりだが、これが妥当ならば、次に問題となるのは「銀を用いて土器の形

(様・代)に作る」ということが示す具体的な内容である。伊野五爵は、先の「以レ銀作二土器代殉勤旗注ことの記載から、

「銀器に黄土を塗り土器代として雅を楽しんだ」とし、別に「如二春日器一介レ銀作レ之」との記述を引き、「春日器の形に

                ⑨

似せた銀製のものであった」と説明した。このように銀製の器と捉えることは、ごく自然な史料解釈とも思われるが、子

細にみればいずれの解釈も必ずしも不動なものではない。まず前者であるが、黄土が建築物や調度品の装飾用の顔料であ

ることからすれば、「土器代」となることを目的としたとはみずに、塗布すること自体が華麗な器の演出と理解すること

もできる。すなわち、「以二黄土}塗レ之」なる割書は、「土器代」の必要条件を示したとするのではなく、「土器代」に黄土

                                     ⑩

を塗ったというように、その時特有の事例を記したと解することも文章上は可能であろう。後者に関しても、銀器が様々

        ⑪

な器種から構成され、土師器もいくつかの演練が存在したことを考えれば、土器の銀器への模倣ならまだしも、銀製の器

が春日器という土器の形体を模したことが一見して認めうるものだったかは慎重にならざるをえない。たとえ認識できた

としても、模倣だけで銀器と明確に区別されねばならない必然性も想定しがたいのではあるまいか。

 結局のところ、銀土器形を銀製の器と理解する以上、種々の史料から確認しうるような銀土器形と銀器とを弁別せねば

ならない必然性をみいだしがたい。ならば、銀製以外の可能性をも視野に入れねばならず、また土器形にしても、幅下や

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色合いの模倣といった枠組みを離れ、「土器らしい質感」など、より抽象的な側面を考慮してみる必要もあろう。本稿で

は、様器や白色土器に関して高橋が提示した理解が説得的であると考え、それと前述の磁器の語義とを整合的に理解した

いとの立場から、様器(銀土器形)を「銀のごとき色の素材を用いて、土の器らしく作った器」と解釈し、そうすること

で、様器を白色土器に比定した高橋の見解を継承したいと思う。いくぶん拡大解釈の嫌いがあることも十分承知してはい

るが、現時点においてはこれよりも適切な理解を提示しがたいのではなかろうか。

 さて、本稿にとって重要な点は、様器が「土器淫心」や「土器形」、「土器代」とも称された事実である。このことは、

様器が銀器や有畑などではなく、土器の延長線上に位置する器であったことを明確に示している。こうした観念こそが、

五器の盃から土器の盃への変更を可能にした理由と思われ、翻ってみれば、様器は土器を使用する儀礼を壮麗に演出する

ために案出された、装飾性の強い食膳具だったとみることも可能と考える。大臣大饗における四献時の盃の変更は、『江

                                        〔客力〕 〔所力〕

家次第』巻二、大臣家大饗の頭書が「三献盃自二酒部所一献レ之。転用二様器↓四献以後自二上充料理等}献レ之。運用二土

器ことするように、三献終了後に本来酒を用意するはずの酒部所が退出して、料理担当の上客料理所が四号以降の酒を

    ⑫

設けた点や、四青目から勧盃者が大臣や家司といった主催者側の人間から参加公卿へ移って、大臣自身も飲酒に参加する

ことと密接に関係するものであり、様器の使用に主催者による装飾の意図を読み取ることができる。また、鳥羽天皇の大

嘗祭において、小安殿儀の二種が「公卿菊鹿素麺。不レ用二様器}用二土器己とされたのは、これと対極の状況を示してい

 ⑬

よう。他にも、賀茂祭使や春日祭使の出立儀、賭弓後の大将邸での還饗など、貴族の邸宅における儀礼のなかで様器の頻

                                     ⑭

繁な使用を確認でき、これらも装飾という主催者側の意図で理解することは可能と考える。

 ところで、東宮初参の無憂に際しては、幽居が出居となることで朱器を用いた饗宴がなされ、東宮元服儀でも同様の事

     ⑮

例が存在する。周知のごとく、大饗で朱器を使用できたのは「大饗井御節供朱器」を伝授された藤氏長者のみで、店舗渡

                                                 ⑯

で長者が大饗に用いる「尊者朱器二枚」を覧じたことは、朱器継承と朱器による大饗催行との繋がりを象徴している。藤

12 (800)

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平安時代宮廷社会の〈土器〉(吉江)

氏長者以外の大饗では様器が使われたのであり、鶴野型の饗宴儀礼における朱器の使用は主催者の特権的な地位と結びつ

     ⑰

くといえよう。また、緑粕陶器に比定しうる青盗は供御薬や精進の際に使用され、乞巧婁で璽物の器としても用いられた

                                                  ⑱

し、請雨経法で「抑行二此法之時、古測高甕器。若元レ思者、白姿器塗二金青目如二丁伽蚤無用レ之」いたことなど、仏具

としても頻出する。ここからは宗教的な性格を読み取るのが穏当で、青姿を僻耳や土器と同じ意味での儀礼的な器とする

          ⑲

ことは正確とはいえない。銀器に関しては、藤原実資が娘千古の裳着にあわせて銀器を打たせた事例や、産養における新

生児の食膳具に銀器が用いられたこと、死去に伴い仏像へ鋳直した事例が散見することなど、個人の利用に主眼をおいた

       ⑳

様相を呈している。

 これらに対比して様器をみるならば、その特徴が訪れた客をもてなす饗宴儀礼のなかで頻繁に使用された点にあること

が明瞭となる。様器は、「土器代」や「土器形」とされるごとく、土器の延長線上に位置する器として、土器を伴う儀礼

を壮麗なものにしようとする主催者の意図のもとで用いられたと考えたい。平安時代における宮廷社会の特徴は、公卿の

家政機関が朝廷儀礼の一翼を担ったことにみいだすことができ、こうした様相の~端が貴族の邸宅での饗応に窺える。そ

して、実例をみるならば、そこでは勧盃者の飲酒を伴う旬儀型の饗宴儀礼としてなされるのが~般的だったことを推測し

うる。これらが旬墨型を採用した理由の一つには、家政機関による運営が侍従的な組織が中心となる旬儀の様相に対応し、

逆に律令官司が関与する節会とは相容れないものだったという事柄を推察することも可能かもしれない。その当否はしば

らく措くとしても、そうした儀礼形態が宮中だけでなく貴族の邸宅にまで拡大していくのと並行して、儀場を飾る様器の

地位が確立していったとみることに大過はないと考える。

①倉林正次「大臣大饗」(『饗宴の研究儀礼編歴桜楓社、}九六五年、

 初出~九六二年)、川本重雄「東三条殿における正月大饗の装束とそ

の次第」(『寝殿造の空間と儀式隔中央公論美術出版、二〇〇五年、初

出二〇〇四年)など参照。なお、大饗に用いる食器については、野場

ユ3 (801)

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 喜エ丁「大饗の食器」(『国立歴史民俗博物館研究報告蝕七一、一九九七年)

 に詳しい。

②『小右記盛寛仁三年(}〇一九)正月二日条。

③高橋照彦「「甕器」「茶椀」「葉椀扁「様器」考」(門国立歴史昆俗博物館研

 究報告』七 、~九九七年)。

④高橋は仮説としながらも、様器の語義を「本来「様扁、つまり薄様など

 の紙を載せて使う器、あるいはそのような使用が主に行われる肴や菓子を

 盛る器の意味扁と理解した(高橋照彦前掲③論文、五七六頁)。しかし、

 根拠となった魍執政所抄輪御節供奉の「空様黒髭端」なる記載は、「居ウ

 ル様ノ図会端二在リ」と訓むべきであり、噸長秋記瞼保延二年(一一三

 六)正月五日条の「土高圷居様事」についても、「土豪杯ノ居ウル様ノ

 事扁と訓むべきで、「薄様を載せる」との解釈は史料の誤読である。

⑤噸うつほ物語臨蔵開中にも門白銀の様器扁なる表現がみえる。

⑥槻小右記臨長和五年(一〇[四)三月三日条。

⑦一二右記㎞寛和三年(九八七)正旦百条。なお、長和五年三月三日条

                           〔対力〕

 では「西短庇為二公卿座…見二暦記一」とされ、これは当該条の「東日南唐廟、

 南向公卿座」と矛盾しており、ここから道長が依拠した兼家の先例とは、

 摂政に任じられた寛和二年六月からこの正月の間になされた事例とみるこ

 ともできる。しかし、『小右記睡に寛和二年が現存しないことから不明確

 なものの、四達白目録画を見るかぎりでは寛和二年六月の任摂政から翌年

 正月までに大饗開催を窺えず、「見鑑暦記【」とした事例が『流記目録睡に

 全く記されなかったとは想定しにくいことから、いずれかの記載が誤記で

 あるとみるのが穏当ではなかろうか。

⑧「銀盃公器」については『小右記撫永延二年(九八八)=月七日条、

     ぢ

 「土器形」は『大鏡駈裏書、紫野子日事と『御堂関白記』寛弘元年(~○

 〇四)五月二七日条、「銀土器」に関しては『太上法皇御受戒記幽と『御

 堂関白記㎞寛弘三年(一〇〇六)三月四日条、「銀土器代」は『下部王

 記臨天暦三年(九四八) 一二月中〇日曜および天暦六年(九五二) 一

 一月二八条、門銀土器様器」については糊吏部王記㎞天暦四年(九五

 〇)一〇月四日条にそれぞれ記載がみえる。

⑨伊野急難「平安時代の諸儀式と土器・陶磁器」(中世土器研究会編

 『中世土器研究論集ll中世土器研究会20周年記念論集…睡二〇〇

 ~年、三〇三・四頁)。なお、伊野は門銀土器五器」を「銀土器」と

 「様器」とに分けて捉えたが、そうした区別は、「様器」と「銀土

 器」との並記が他見しないごとや、これが承子内親王着袴儀の史料で

 あり、二年後の鼠子内親王着袴儀では門銀器」と「銀土器代」を用い

 たこと、「銀ノ土器様ノ器」としても十分解釈できることなどから賛

 同できないと考える。

⑩様器においても、敦康親王主催の藤原定子忌日法要の際に、臨時的

 に鈍色に染めた事例が存在する。『権記』寛弘八年(一〇=)一二

 月一六目条。

⑪差響・立太子に際しては、御器として飯椀・馬頭盤・水塊・汁物

 圷・盤・窪杯・四種・三蓋といった銀器の食膳具が用意されるのが一

 般的であった。『山嶺記魅久寿二年(一一五五)九月二一二日和など。

⑫『長秋記㎞大治六年(一工三)正月一九日建にも同様の記載がみ

 える。

⑬『江日輪天仁元年(一一〇八)=旦=日取。

⑭賀茂祭使出立儀については『吏部王記臨承平四年(九三四)四月一

 六日条や『長秋記蝕保延元年(一一三五)四月一七日条、春日祭使に

 関しては『玉葉』治承二年(=七八)~○月二九日条、賭弓後の遼

 饗については『西宮記』賭弓所引承平七年(九三七)正月}九日条に、

 それぞれ量器の使用が認められる。

⑮『西宮記㎞恒例三、十月旬裏書所引延喜一六年目九一六)四月条、

 『春記』・水承一壷年(~〇四六) ~一}月一九日条。

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⑯『吉記隔寿永二年(=八三)~二月~日影、『葉黄記魅寛元四年

 (一二四六)正月二八日粂。

⑰なお、服喪中の重明親王に関して「わたくしの衣装に綾羅美色を着

 せす、食器も朱漆をもちみ侍らぬ」という記述があり、また退位後間

 もない円融院は、節供において「先例以二朱器学供レ之。蔵人所衆伝取

       〔卒爾〕

 供レ之。而事依二藍卒一用二様器こいた例も存在する。ここからは皇親

 間での朱器の日常的な使用を垣間みることも可能であろう。『花鳥余

 情臨}一三、幻、呵小右記』永観二年(九八四)九月九日条。

⑱『覚醒紗隔請理法下。

⑲高橋照彦前掲はじめに⑥論文は、三節御酒の供御に際して青盗が用

 いられた点や、そのことについて『江家次第臨が「不レ給二臣下こと

 記すことを重視して、緑紬陶器を儀礼的な食器と規定するが、三節御

 酒の供御は天皇の個入的な飲酒とみるべきであり、饗宴儀礼としての

 節会と直接結びつけるわけにはいかない。緑玉陶器の多量の出土から

 は、精進などに限定されない通常の飲食での使用も否定はできないが、

 青姿を食膳具として利用したのは噸時制記㎞窮保元年(一〇九陽)六

 月二五日条の南所知が「汁用二土器}湯用二二度器ことする程度であり、

 文献史料のうえから裏づけることは難しい。

⑳『小右記睡万寿元年(一〇二四)=}月一二窪・=二日条、隅権

 記匝寛弘八年(~○~~)八月一~日条など。なお、天皇の朝夕御膳

 の食膳具が銀器である点に着目した佐藤金敏は、そうした食事のあり

 方を「階唐様式の正格な食法」とみる。佐藤全敏「古代天皇の食事と

 賢」(『日本史研究暁五〇}、二〇〇西年)。

三 春日土器の登場

平安時代宮廷社会の〈土器〉(吉江)

 食膳具の変容を艶書型の饗宴儀礼の展開に結びつけて論じるならば、様器とともに注目すべき素材として春日土器なる

器が浮上する。春日土器は春日野とも呼ばれるもので、「今日巡見也。(中略)次着二朝所過(中略)岩蓼、少納言信康。紙

器不レ加二人屠如何。今度可レ用二春日土器一也。予此旨示二大理一」とか、「大納言殿令レ任二右大将一掬。(中略)三献以前用二

                                 ①

様器盃司(中略)次四七。(中略)今度已後用二百B器盃このごとく、列見の朝所饗や大饗といった旬轡型の饗宴儀礼にお

いて、土器から変更された器としてみえる。様器から改められる盃は土器と記されるのが通常だが、寛治二年(一〇八

八)一二月一四日の藤原如実任太政大臣大饗では、『為房卿記』が「次四献。鰍顧翻爆管器tと記すのに対し、『寛治二年記』

が「次二言。遡嬬麟剰麩駄難縢翻鋤雪兎ごとすることからも、春日土器が相当量含まれていたと推測することもかたく

                   〔日脱ヵ〕

はない。様器と対になるような事例以外にも、『西宮記』春日祭裏書所引「佐忠私記」応和二年(九六二)~一月六日条の

ユ5(803)

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「差二氏人一喚レ之。座定五二春日坑 」を初見として、春日土器は平安時代の種々の史料に登場する。

                                                    ②

 春日土器に関しては、一般に深草を生産地とした深草土器から類推する形で、春日で焼成された土器と解されている。

『垂範記』保元二年(一一五七)八月=日条の定考朝所饗では「次四献。灘報顯」とし、八月一九日条の藤原基実学右

大臣大饗で「次四献。今度以後用一 料理所深草土器ことあることも、深草土器と春日土器との互換性・対等性を予想させ

るものであり、深草と対比される春日という地で焼成されたとの理解と矛盾するものとはいえない。しかし、様器から変

更される盃を「土器」以外に明記する場合、春日土器とするのが圧倒的に多く、深草土器への変更を示す事例はわずかで

                               ③

ある。それが『毒素記』に集中するという傾向も看過するわけにはいかず、春日土器と深草土器とを安易に同列に扱うこ

とには躊躇せざるをえないものがある。

 建保二年(一二一四)に催された『東北院職人歌合』の一二番本には、「深草」なる職人を作者とする二首の歌が掲載さ

れる。その~つ(恋)が「ひとめみしかはらけ色のきぬかつぎ我にちきりやふかくさのさと」で、「深草」が「かはら

け」生産地の「ふかくさのさと」に由来した職人の呼称であることに疑いはない。しかし、「深草」以外の作者は「医師」

「壁塗」など具体的な職掌を記しており、「深草」も土器造という職掌をこの表記のみで示している。また、鯛庭訓往来』

は「鍛冶」「鋳物師」などと並列に「深草土器作」をあげる。これらを考えれば、少なくとも一三世紀以降においては、

深草土器なる語は深草所産の土器というだけではなく、一般名詞的に土器を指す用例が多く存在したといえる。つまり、

深草土器は必ずしも深草という土地と不可分とはいえないのである。ならば、春日土器の春日を地名とみる必然性も自ず

と減じることになろう。加えて、『執政所抄』が「深草四寸盤」「深草六寸盤」などとともに「深草小春日杯」を掲げるこ

とをも想起すると、春日土器は盤と対になるような、深草土器の一つの器種とみるのがよいと推測する。

 それでは、春日土器とはどのような形体の土器と理解すべきだろうか。前掲の『西宮記』「佐忠私記」の「春日境」は

                                ④

儀礼内容から酒盃を指すことが確実で、他にも盃として用いた事例は多い。}方、長和五年(}〇一六)の忌火御飯では、

16 (804)

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平安時代宮廷社会の〈土器〉(吉江)

「次簸盃鷺御汁物盃欝」璽・き飯や汁を入れ・器として機能⑯他に繁A・昔物語集』巻二八-五、

越前守為盛付二六衛府宮人}語に、「菓子ニハ吉ク添上ル李ノ紫色ナルヲ、大キナル春日器二十許ヅ・盛タリ」と、異物を

盛る大きな器としてみえる。時代が下ると「八春日(器)」なる器が史料上散見し、これは「八」とあることからおそら

                                    ⑥

くは大きな器を指すのだろうが、「ヤツカス(ガ)」と呼ばれた可能性があることからは、上賀茂神社において三王用に使

           ⑦

用されている「ヤツカサ土器」に連なるものとみることができよう。用途からみれば、春日土器は酒や飯・汁を入れるの

に相応しいといえ、ここからは、ある程度の器高を持ち容量の大きな器を想定するのが自然である。ならば、皿などでは

なく杯や椀の類の可能性が高いものと考える。「春日境」や「小春日圷」なる表記はあっても、「春日盤(皿)」などと記

した例がないこともこの推測を補強し、「大キナル春日器」や「八春日」もここからの派生と捉えることはできよう。「春

日」を冠した意昧については判然とはしないが、『西宮記』恒例一、内宴には「当二子旦 一二献言、女蔵人等以二若菜華

盛二土蚤就二王卿座㎝相分」と「若菜菱」の器(汁椀)として土器がみえ、これに春二野が若菜摘の著名な歌枕だったこ

     ⑧

とを考えると、「若菜の受用の土器」という象徴的な意味合いを含有する用語と憶測することも可能かもしれない。

 さて、春日土器を酒や飯・汁を入れるのに適した杯や椀の類とすれば、類似したあり方をする土器として黒土器・黒器

                                ⑨

が注目に値する。黒土器はその色から服喪時の食膳具としても用いられたが、『醍醐雑事記』巻一には「大豆飯盛二干薪黒

土器一蓋レ之」とあって「大豆飯」を盛ったことが確認でき、『山塊記瞼応保元年(二六~)一二月一四日条に「下家司

                          ⑩

盛二粥於黒器」とあるように粥を盛る器としての事例も多い。また、『宇治拾遺物語』巻三一一、大太郎盗入の事には

「黒き土器の大きなるを盃にして」とみえ、例は多くないものの、酒盃として利用された様子も窺うことができる。黒土

器の実態は、…般に理解されているとおり黒色土器およびそれを継承した瓦器と思われるが、食膳具としての黒色土器・

瓦器の器種が椀を主体とすることも、これらの記述に対応している。

 ところで、黒色土器の本格的な生産は、内面のみに炭素を吸着させたA類から始まる。それは内面を緻密にみがいて光

ユ7 (805)

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沢を持たせ、廻文によって加賦することに特徴があり、こうした製作工程は上等品生産を目指したことに起因するもので、

                                    ⑪

黒色土器A類の誕生の背景に朱器への志向を読み取る安田龍太郎の見解も蓋然性は高い。一方、黒色土器の登場と前後す

る形で、多様な器種から構成されていた土師器は、みがきや三文を省略しておさえとなでだけで仕上げるようになり、器

高も減少して皿を主体とするにいたる。上等品志向の黒色土器の出現と土師器の技法簡略化とは、別個な論理による展開

とも捉えられようが、『梁塵秘抄』巻二には、「楠葉の御牧の土器造、土器は造れど娘の顔ぞ好き」との著名な今様が載っ

ており、時期的なことをも考慮に入れると、ここにみえる土器とは京都に流通していた楠葉産瓦器を指す可能性が高い。.

ならば、土師器と黒色土器・瓦器とは同じ土器の範躊で把握すべきものとなり、上記の変容も不可分な動きと位麗づけね

ばならない事象となろう。つまり、土師器のうちの杯・椀が分化して上等品の黒色土器へと移行し、土師器は杯・椀を切

り離していくなかで簡略化が進んだとみるのがよく、それによって土師器の皿と黒色土器の椀が対になる様相が現出した

ものと考える。

 こうした変容を前提として、土器は〈土器〉のなかで中心的な位置を占めることになる。深草は、土器造の代名詞だっ

たごとく土器生産の拠点的な存在だったが、それゆえに管轄権は錯綜し、内蔵寮配下の供御人が設置されたのをはじめ、

                  ⑫

醍醐寺や長福寺、摂関家の作手が存在した。楠葉についても、大同三年(八○八)の「禁レ葬二埋於河内国交蓼藍徳山⑩

以レ採下造僻「供御罫之土上灘」との記事を筆頭に、内膳司が用意する御歯固の土器が「楠葉御園作手所レ進」とされ、摂関家

が「下知楠葉御嘉して璽…量を準備した事例もみえ緬・作手を掌握するまでにはいたらなかった貴族に関しては・

                         ⑧

『直幹申文絵巻臨が橘直幹邸へ出入りする土器造の姿を描き、『古今著聞集』に「坊城三位入道雅隆のもとに、正月朔B、

                         ⑮

ふか草かはらけ持てまいりたりけるに」との記載があるなど、土器造が家々を訪問した様子が垣間みえる。また、『東北

院職人歌合瞼の前掲以外のもう一首(月)が、「月ゆゑにうちへもいらてとにたてはやうのものとや人の見るらん」と詠

むのも、土器を担いで貴族の邸宅の前に立つ土器造の姿を示唆している。さらに『栄花物語』巻三九、布引の滝では、藤

ユ8(806)

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平安時代宮廷社会の〈ltee>(吉江)

原頼通の麗去に際して「土器造りなどいふ者さへ、年ごろ幾年か参り仕まつりて、かくて今はいっちとてかは参りさぶら

はんずるとて、声も惜しまず泣くもいとあはれなり」と、土器造の悲嘆が表現される。これらからは、土器造と貴族との

密接な奉仕・従属関係が読み取れ、それと表裏関係にある土器を必要とする社会構造をも看取できると考える。

 春日土器に話を戻そう。平安時代に筥中や貴族の邸宅などで頻繁になされたと推測される旬儀型の饗宴儀礼は、勧三者

の飲酒が伴い土器を食膳具とすることに儀礼的な特徴があった。そうした儀礼にとって不可欠だったのが土器の酒盃であ

るが、春日土器が杯や椀といった器種を指すならば、その多くが春日土器であった可能性は高いと考える。土器の呼称と

もなる「かはらけ」が本来的には酒盃を意味した点からも、盃となりうる春日土器の登場を軽視すべきではなく、土器造

と諸権門との密接な繋がりに端的に示されるような土器を必要とする社会の隆盛は、旬儀型の饗宴儀礼の展開に伴う春日

                      ⑯

土器の登場と不可分であったとみるのがよかろう。加えて、土師器が皿を主体としたのに対して、杯・椀は上等品を志向

する黒色土器が担ったという事象や、用途における春日土器と黒土器の類似性などを総合的に捉えるならば、春日土器の

実体とは、平安時代に限ってみれば黒色土器だったと推察することもあながち誤りではないと考える。こうした理解が妥

当ならば、黒色土器の本格的な生産がはじまり、土師器における器種の減少が進む八世紀後葉から九世紀前葉の時期に、

このような宮廷社会の変容の起点を求めることも可能なのではなかろうか。

①  噛山肥類洞瞼仁{女二年(~一六七)ふハ月二五n口条、 『知信記隔長承四

 年(=三五)二月八日条。

②春田を地名とみる場合、大和のそれと考えるのが通常だが、梅川光

 隆は尾張瀬戸の旧郡(二部郡)にちなむ名称とし、春日器を古瀬戸の

 ブランドと理解する。興味深い見解ではあるが、「土器」と表記され

 ることとの関係など検討の余地はあろう。梅川光隆糊平安京の器 そ

 の様式と色彩の文化史蜘(白沙堂、二〇〇一年、六二~七〇頁)。

③『兵範記』には他に、長承元年(二三二)コ月二一日条、仁安

 三年({一六八)八月二三日条、一一月二日条に州深草土器」「深草

 器」がみえるが、「春日土器扁の記載があるのは保元二年(一一五

 七)三月=西条の一例に過ぎない。

④酒盃の事例は①で引在した他に、一二世紀に限っても『知信記訟天

 承二年(} 一一二二) 笥百月二山ハ[口悪、『兵範記㎞保元二年(一一五七)

 三月一一日条、噸玉葉臨治承二年(=七八)一〇月二九日条、『猪隈

 関自記』建久九年(}}九八)正月 九日条がある。

⑤咄咄経記』長和五年(一〇 六)六月一日条。『七仏薬師法代々日

エ9 (807)

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羅長竺年(=〇五藺二月δ日にも「七仏前各賞二四跡春」と

 ある。

⑥中井敦史「土器の名前-中世土師器の器名考証試論1」(嘗本史研

 究』四八三、二〇〇二年)参照。

⑦上賀茂神社の「ヤツカサ土器」は、中央を内側に窪ませた形体に特徴が

 あり、径六寸高さ~寸の門ヤツカサ」、径二寸七嵩高さ六分の「大ヤツカ

 サ」、径二寸二分高さ六分の「小ヤツカサ」が存在する。『日本料理歳時大

 観 傳承十二月』(主婦の友社、一九八○年)、建内光儀『上賀茂神社(賀

 茂別雷神社)臨(学生社、二〇〇三年)参合目

⑧たとえば『古今和歌集蝕巻一、春歌上に載る「春日野の若菜摘みにや白

 妙の袖ふりはてて人のゆくらむ扁との紀貫之の歌など。

⑨噸吏部王記隔承平元年(九一一二)一〇月七日条、凹兵範記晦久寿二年

 (=五五)九月二三日条。

⑩ 他にも『長秋記盤元永二年(二一九)五月三〇日賦、『兵範記』保元

 元年(二五六)四月ニニ日条のなかで粥の器としてみえ、『古事談首巻

                        〔薯蹟〕

 二でも「雑色黒器ト云物ニミソウツノ毛立タル一盃ト、暑預ノ焼タルニ筋

 トヲ持来与之」とある。

⑪安田龍太郎璽…い色の食器」(奈良国立文化財研究所創立40周年記念論

 文集刊行会編『文化財論叢H㎞同朋舎出版、一九九五年)。

⑫浅香年木前掲はじめに②論文、網野善彦前掲はじめに④論文、脇田晴子

 「中世土器の生産と流通」(申世土器研究会編㎎概説 中世の土器・陶磁

 器臨難論社、一九九五年、初出一九八六年)など参照。

⑬噌類聚国史翫政理 禁制、大同三年(八○八)正月庚戌(二八日)

 条、『類聚雑芸抄㎞巻一、供御御歯固、『執政所全一。戸田芳実前掲は

 じめに④論文参照。

⑭藤原良章「絵画史料と〈職人>1絵巻物に描かれた土器造

 り一二(噌中世的思惟とその社会翫吉川弘文館、一九九七年、初出 

 九九一年)参照。

⑮『古今著聞集』巻㎝六、坊城三位入道雅隆正月朔日餅鏡の事。

⑯凹源氏物語㎞をはじめとする文学作品では、酒宴のことを「かはら

 けまいる」や「かはらけはじまる扁と表現することが多いが、『うつ

 ほ物語』内侍のかみに「白銀のかはらけ」とあることからも、必ずし

 もすべてが土器を指すというわけではない。康和六年(一~〇四)正

月青の藤原忠実臨時斧おいて、灘魔が「蔽。土取・之。襟

幕内歎盈羅去来。」とする「カハラケ」も壽だ・たとは考

 えにくく、他の例を勘案すると、日工ないしは朱器とみるのが自然で

 ある。なお、土器の酒盃のなかでも臨時祭にみえる重杯は、『明月

 記』承元二年(ご一〇八)三月一三日条に「器ひとつづ・三度伝レ之。

 残三ヲ座下二蔵入、ヘシワリテ立」とあることからも器高の低い土師

 器を想定するのがよく、後代に主流になったのは、あるいはこのよう

 な酒盃かもしれない。重杯の作法は『山塊記』仁安二年(……六七)

 三月二〇日条にも詳しい。

20 (808)

四 〈土器〉の変容と律令官僚制の展開

 冒頭で触れたごとく、西弘海は法量の規格性、多様な誹種分化などから「律令的土器様式」なる概念を導きだし、その

出現の背景に大量の官人層の登場が存在したことを推測した。この見通しを文献史料から裏づけることは困難であるもの

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平安時代宮廷社会のく土器〉(吉江)

の、説得力に富む見解であることに代わりはなく、その蓋然性は高いものと考える。西の見解が妥当であるならば、都城

における〈土器〉の変容も律令官僚制の変遷過程を考慮に入れて論じる必要がある。ここまで、春日土器と黒色土器との

類似性や、様器が白色土器に比定しうるだろうこと、両者の登場が端的に示すことになる土器を必要とする社会の活況が、

旬儀型の饗宴儀礼の展開に結びつけて捉えられること、などを述べてきたが、こうした事柄も食膳具の様相が宮廷社会の

動向と不可分な関係にあったことを十分予測させる。本章では、より直接的に律令官僚制の変容に関連づけて〈土器〉の

展開を描きだしてみたいと考える。

 こうした観点に立つならば、官司名を記載した墨書土器は好個の材料となろう。平城宮出土の墨書土器を集成・検討し

                                                ①

た巽淳一郎によれば、その圧倒的多数は須恵器の食膳具で、官司名記載の〈土器〉もこの範疇で捉えられるとする。土師

器の出土が須恵器の約五倍に達する長岡京太政官厨家跡においても、「弁」「外記」「史」などと記したものの大半は須恵

   ②                  〔務力〕                            ③

器が占め、平安宮中務聖跡出土資料でも「□省」「内舎人」「監」といった墨書土器は須恵器であり、平城宮の状況と大差

はないといえる。須恵器の食膳具が消滅した段階では、「右馬」「内舎人所」と記す緑粕陶器、「斎宮」関連の下舵陶器な

どがみや宮司名を記す墨書土器は・土師器ではなく緑粕陶器炭紬陶器へ移行したようである・

 こうした傾向からは、土師器と須恵器・緑紬陶器・灰粕陶器との問の差異を読み取ることが再能である。その成因を実

証的に論じることは容易ではないが、須恵器生産が宮内省に管掌された薫陶司の下でなされ、甘粕陶器・受認陶器も官営

工房からの貢納だったことを考えると、交易が調達主体の土師器に比べて、調として収納され、官司に分配された須恵器

                                   ⑥

の方が、律令官司の食膳具としては正統的な位置にあったとみることは許されよう。このことは、「土師女」などによる

自家生産品であろう土師器が、須恵器に比して多く出土した長屋王鳥跡と対照的であり、須恵器は官司といった公的機関

          ⑥

における食事と結びつく。長岡京太政官厨家跡の宮司名須恵器は、厨家が用意した官人の常食に使用された可能性が高い

資料群だが、曹司における政務と食事とが一体的に機能したとの見解に従えば、そうした食膳具と常食との関係は太政官

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                ⑦

以外の宮司でも同様だったとみてよい。そこでは、政務後に催された列冤の朝所饗のごとき儀礼形態がとられたと推測す

ることも可能と考える。

                             ⑧

 しかし、こうした常食の様相は九世紀初頭を画期に大きく変貌する。令制では年始春米を「送二大炊寮一充二諸司常食一」

てたが、養老三年(七一九)に劇官に企業銭が付加され、平安時代初頭の大同三年(八○八)には、官司の統廃合によって

閑官がなくなったとして、要論銭を「普給二衆司一」うこととなる。翌四年には、米価変動を考慮して日別二升という現物

支給へ変更され、同時に三位以上および観察使への支給が除外された。弘仁三年(八一二)に再び銭へ復されたものの、

米と銭の併用は続いたらしく、それからおよそ七〇年を経た元慶五年(八八一)には、春米の不足および米と銭との不均

衡を理由として、諸司官田を設置して要点料支給を諸司に委託する形態へ移行する。そして翌元慶六年には、太政官およ

び出納の所司の要劇料、弘仁九年(八一八)以前に要菜料から戻された大学寮の月並のみが、大炊寮からの給付を許され

るにいたる。

 以上は職事宮の常食に関する変遷であるが、史生・雑任といった番上官はというと、「承前諸司番上及雑色人、劇的以

外不レ給一 衣食」とあることから、本来的には常食の支給はなく、劇官のみに資根が給されていたようである。列島や定

考では穏座の段階で史生が召され、大臣大饗においても三献の後に史生が参入したという事実も、番上官の饗饅が付加的

な要素だったという事柄と合致していよう。大同四年には、職事官の要劇料変更に伴い「定下賜二諸司史生以下雑色人以

よ時服井月露之法上」め、元慶五年に官田が設置されることで、大炊寮からの支給を数種の番上官に限定し、それ以外

の番上根については、基本的には諸司官田で賄う形態が確立するのである。

 さて、こうした常食の変遷のなかでも、大同年間の変革は看過できないものと考える。制度が確立した時点での支給方

法を示す『延喜式』太政官の規定を次に掲げよう。

  凡親王以下月料井諸司要立憲大旱等、毎月申レ索出充。其月獲物者、録二来月数(毎月十日申一天政富ハ十七日官符下二宮内省↓廿

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平安時代宮廷社会の〈土器〉(吉江)

  五日出営。要劇者、録二前月応レ高官入及物数ハ毎月四日申レ富。即加二官要劇}造二惣目↓同日申一一太政官納五日頃棚下二宮内省↓十

  三日出軍。但給レ田者、下一一符勘解由使幻大根者、毎月十六臼申二太政官↓廿日官符下二民部ハ廿二日出給。若逢二雪雨}臨時改レ日。

 ここからは、毎月支給される親王や官司の食料が、「甘心来月数一」して太政宮から宮内省へ申請する月料、「録二前月応

レ給官人及物数こして宮内省へ申請し支給された要四折、月料と同様に翌月分を民部省から与えられた大根、の三つに区

分されており、官田を有する一般的な官司の要撃料の場合は、国司から直接収納したことが判明する。注目したいのは月

料と要溺料との単坐請求の違いである。すなわち、翌月分を前月二五日に支給することが月料の基本だったのに対し、要

望料は前月分を給付するのが原則であった。その支給基準は、大同四年太政官符で「宜下細蟹王日一依レ実申送上」とされ、

諸司官田を設置した元慶五年太政官符においても「凡腰上日毎月申レ宮、一如二旧規【勿レ失二前燭己ともあるように、前月

の上日に由来するものだった。つまり、要劇料は上日と不可分の俸給的性格が強いものということができる。その意味で

                                  ⑨

は、実態が米であっても本質的には養老三年以来の銭支給と代わることはない。このような平米支給の差異を考えると、

大同年間における呈上料への変更とは、政務終了後に全職事官へ給した令制以来の常食制度が、上日に基づく職事官の個

人的俸給へ変更されたことを意味するのである。

 こうした常食の俸給制への移行が、官司における日常的な饗宴儀礼そのものに影響を与えたことは推測しやすく、その

ことで一堂に会して食事をとる共食の意味は減少せざるをえない。もっとも、このことで官司内での日常的な饗宴が消滅

したことにはならないが、法制上はそうした饗宴が個人の要思料から支弁される原則が生じたであろう。須恵器を中心と

する思欲された食膳具は、宮内省-上北司を通じて年料として諸司へ配分されたと思われるが、食料が俸給的なものに変

更されたのであれば、食膳具のみが上質と無関係に分配される必然性は想定しがたい。官司で饗饅が設けられる場合には、

その多くは交易で入手するのが一般的な器、すなわち土師器に依存せざるをえなくなったと推測する。こうした俸給制へ

                                        ⑩

の移行という事柄こそが、調納を基本とする須恵器の生産・貢納を崩壊させた要因と考える。奈良時代末の「七月要劇銭

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                                 ⑪

五貫五百[」なる木簡からは、すでにこの段階で多額の要劇銭支給が確認でき、詩劇料に頼る官司運営のあり方が須恵器

の生産を次第に落ち込ませていき、大同年間の変革によって須恵器生産は壊滅に帰したとみるのがよい。それと前後して、

大同三年には筥陶司が大膳職へ併合されるにいたるのである。

 須恵器の食膳具の消失には、こうした官司制の変容が影響したと考えるが、一方でこのことは、前に示した重器型の饗

宴儀礼の展開に伴う土器の隆盛という問題を説明したことにはならず、一面的な理解とせざるをえない。これを考えるに

あたって重視すべきは、要衝米支給を規定した大同四年制が、同時に三位以上と観察使とをその対象から除外したことで

ある。この原則は、諸司官田設置後においても「八省卿・弾正サ・秘府大将・四府督、或徳高皇子猶在一童ハ官ハ二身貴公

豆蒔居二聖職4如レ此重責元来不レ給。除レ此之外例車田給限」とあるように変化はない。前述したように、ここで除外され

た公卿たちは、紫震殿で開催された政務に参入し、侍従的な組織を通じて天皇の下物を土器を用いて与えられた。また、

太政官庁での政務の後には朝所饗があり、外記政後には南所で饗があった。さらに、釈璽の寮饗は大学寮官人自らが飲食

する儀礼ではなく、公卿に対して寮の官人が供果する形態をとり、御斎会聖日でも公卿は右近陣座に着き、陣官が「居二

            ⑫

謡物 」えたことが確認できる。公卿の重要な職掌は、さまざまな儀礼に参入してその儀礼を運営することにあったが、

そこでは諸司から食事を供給されるのが通常だったのであり、彼らはわざわざ要劇通や月料に依らずとも実質的には宮中

で供膳されていたのである。

 他方、そうした公卿の特権的なあり方と不可分なものとして、公卿自らが・王催者となって財を供出し、中下級官人を饗

応する立場となったことも忘れてはならない。その典型的なものが大臣が太政官官人に滑動を設ける大臣大饗であり、近

衛官人をもてなす大将大饗も同様な意味を持つ。こうした儀礼がいつまで遡るかは慎重に検討せねばならないが、大臣大

                                   ⑬

饗に関しては『大鏡嚇に藤原垂死の大饗がみえることから九世紀中葉には存在し、『江家次第』二二、大臣家大饗の「藤

氏長者計器・台盤、閑院左大臣冬嗣公御物」なる記事を重視すれば、九世紀前葉まで遡る可能性がある。大饗以外の公卿

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平安時代宮廷社会の〈ニヒ器〉(吉江)

の邸宅における饗宴については、古記録が残る一〇世紀以降にならないと判然とはしないものの、貢使出立儀の饗は九世

                 ⑭

紀末には確実に存在したことが判明する。

 大同四年に除外された三位以上と観察使は、翌五年に観察使が廃止され参議が復活することで公卿制として再編される

こととなる。ここに成立する公卿制は、『延喜式』中務省の「凡慮侍従員百人為レ限。慨鋤灘弘鉱愉絶謬鯉tとの規定など

                           ⑮

から、侍従的な性格を本質的に有する組織形態とみるのがよい。すべての官司・官人が一体となり専制君主的な支配構造

を支えるのが律令天皇制・律令官僚制の本来的な姿であったが、平安時代の初期には上級官人の侍従的性格が強調される

ようになり、同時に中下級官人は彼らに率いられる存在へと変質する。こうした変化に伴う天皇制・官僚綱の再構築とし

て、この時期に儀礼整備がなされるのである。前に、貴族の邸宅における饗宴儀礼が旬昇平を採用したことに対する原因

を、家政機関によって供膳される形態が侍従的な組織による旬儀と類似していたという点から説明したが、ここにいたっ

てより根源的な理由をみいだすことが可能となろう。すなわちそれは、貴族の邸宅での饗宴が、官司で日常的になされて

いた饗応の代替および発展として確立したことに起因するのである。大臣大饗が太政官官人を饗応するのが本質であった

ことも、これに対応するとみるのがよかろう。

 八世紀後葉から九世紀前葉にかけてのく土器〉の変容とは、このような律令官僚制の展開という潮流のなかで理解すべ

きものと考える。律令官司の常食制度の解体が、調として収納され、諸司に分配される食膳具としての須恵器の存在価値

を低減させた。一方で、侍従的性格を色濃くした公卿が国家機構の一翼を主体的に担うようになり、中下級官人はそうし

た公卿に従属する存在へと変化していくことが、公卿が主客となる旬儀型の饗宴儀礼の展開、および黒色土器や白色土器

の登場などに窺える土器の隆盛を呼び起こしたものと考える。

①巽淳一郎「都城出土墨書土器の性格」(奈良文化財研究所㎎古代官

 衙・集落と墨書土器一墨書土器の機能と性格をめぐって一睡二〇

 〇二年)。

②向日市教育委員会編「長岡京跡左京第13次発掘調査報告」(『

?日市

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 埋蔵文化財調査報告書 第四藩閥一九七八年)、『長享京木簡一 向日市埋

 蔵文化財調査報告轡 第十五集臨(一九八四年)。

③京都市埋蔵文化財研究所謂『平安京-京都市埋蔵文化財調査報告第13

 冊』(一九九五年)。

④京都市埋蔵文化財研究所編『平安京跡発掘調査権報昭和56年度』(一

 九八二年)、『平安京右京三条二塁十五・十六町1「齋宮」の邸宅跡一

 京都市埋蔵文化財調査報告第21冊』(二〇〇二年)、京都市文化市民局編

 『京都市内遺跡試掘調査概報 平成12年度撫(二〇〇一年)。

⑤土師器と須恵器の調達方法については古尾谷知浩前掲はじめに③論文、

 緑粕陶器・灰紬陶器は高橋照彦前掲はじめに⑥論文参照。須恵器生産が篁

 陶司の管轄下でなされたことは、筥陶司を吸収した大膳職が和泉国陶山に

 「陶器寄人」を有していたことから窺える。戸田芳実前掲はじめに④論文

 参照。なお、巽淳一郎前掲①論文は、官司名墨誉土器の出現が天平期に下

 ることから、調納制弛緩に伴う官司の直接注文に由来するとみる。

⑥奈良国立文化財研究所編凹平城京左京二条二坊・三条二坊発掘調査報告

 -長屋王邸・藤原麻呂邸の調査一鰍(一九九五年)。吉野秋二「食器の

 管理と饗応」(平川南厚編『文字と古代日本4 神仏と文字隔吉川弘文館、

 二〇〇五年)参照。もっとも、ここでいうところの須恵器の公的機関にお

 ける使用という性格は、あくまで認識上の事象と捉えるべきであり、その

 まま出土量に反映されるとみる必要はない。このことは、平城宮内では窟

 内に比べても土師器の畠土が卓越するという玉田芳英が指摘する状況と、

 必ずしも矛盾するものではないと考える。玉醗芳英「平城宮の土器」(古

 代の土器研究会編刷古代の土器研究一律令的土器様式の東西⊥一九

 九二年)。

⑦吉川真司は、南所申文が外記政終了後に侍従所でなされた食事の場での

 儀礼であることから、外記政と南所申文が一体なものであることを指摘し、

 そのうえで、門政務と食事の関係は、太政官以外の諸司でも基本的に

 は同様であったろう」と述べる。吉川真司「左経記」(『律令官僚制の

 研究職塙書房、一九九八年、初出一九九三年、二七三頁)。

⑧以下の記述は、早川庄八「律令財政の構造とその変質」(『日本古代

 の財政制度睡名著刊行会、二〇〇〇年、初出一九六五年)によるとこ

 ろが大きい。史料の典拠は早川論文のなかに明記されていることから、

 煩雑となることを避けて出典を示すことはしない。

⑨ただし、元慶五年太政官符には「賜二自墾者全僧帽ハ斗轍との文誉

 もみえ、活劇米支給に関わる旗日が機械的に三〇日(日別二升)と算

 出された可能性も捨てされない。

⑩官司における食事の様相を捉えるためには、仕丁などへの大租米支

 給も無視してはならないと考えるが、大根が民部省管轄であることか

 らすれば、宮内省系統で配分される藩論・要講料および須恵器とは一

 応切り離して理解するのがよかろう。

⑪奈良国立文化財研究所編『平城宮木簡三輪(一九八○年、三五四

 四号)。なお、当時の米価を升別一〇文と見積もるならば五五石以上

 となり、大同四年制の日別二升をあてはめると、隔日三〇日としても

 九人以上を要劇料で賠っていたことになる。当時の物価については、

 関根真隆『奈良朝食生活の研究撫(吉川弘文館、 一九六九年)参照。

⑫『江家次第臨海三、御斎会寛日など。

⑬『大鏡駈太政大臣基経。

⑭『類聚三代格』巻~九、禁制事画引昌泰三年(九〇〇)四月二五日

 付太政官符。

⑮拙稿「荷前別貢幣の成立-平安初期律令天皇制の考察1」(『史

 林』八四-一、二〇〇一年)。

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おわりに

平安時代宮廷社会の〈土器〉(吉江)

 以上、都城で出土する〈土器〉の変容を、律令官僚制の変質、それに伴う密儀型の饗宴儀礼の展開に引きつける形で論

じてきた。冒頭で示した八世紀後葉から九世紀前葉における変容のうち、緑粕陶器・灰粕陶器といった国産施紬陶器の出

現についてはほとんど触れることができず、また、貯蔵・調理具の様相や木製品など〈土器〉以外の食膳具についても今

後の課題とせざるをえない。これらを踏まえて検討する必要があるものの、本稿では先行研究が注視してきた技術の展開

や生産の推移などとは異なった観点から、〈土器〉の変遷を描きだしうる可能性を提起してきたつもりである。結論は前

章の末尾にも記したのであらためて述べることはしないが、こうした変容が、宮廷社会における饗宴儀礼の二つの類型の

うちでも、日常的な旬十型の儀礼形態から説明できることには若干の注意を払っておきたい。すなわちそのことは、大臣

大饗のごとき上級貴族層の自邸での饗宴が、節会など国家的な饗宴儀礼の代替として成立したのではなく、あくまで官司

の日常的な饗宴儀礼の延長線上にあることを示している。平安時代初期における宮廷社会の展開とは、日常的な政務や天

皇の個人的性格と密接に関係するような儀礼における変容と結びつくものではあっても、律令国家が本来的に有したよう

な節会などの壮麗な儀礼、ひいては、そこに示される価値体系そのものに大きな変革をもたらしたものではないとみるの

 ヘ

  へ       む

カよカろう

 こうした展望に妥当性を認めうるのであれば、次に問題とすべきはそのような律令国家の価値意識の変遷となる。もっ

ともこうした事柄は、多角的に検討すべき性格のものであろうが、都城出土の〈土器〉の様相を主軸に据えるならば、一

〇世紀後葉から一一世紀前葉という時期が、本稿が考察紺象とした変革期に匹敵するほどの転換点であったことには注意

されてよい。緑紬陶器の生産が終焉を迎え、灰粕陶器が無粕の山茶碗へ転換して圏産施紬陶器は大幅に減退し、黒色土器

も内外面を黒色処理するB類が主体となり、その後、瓦器椀が出現する。また、散在的だった輸入陶磁器の出土に一定度

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の増加が認められるようになるのもこの時期以降であり、新たな〈土器〉の様相が現出したことは間違いない。出土遺物

の大半を占める土師器にそれほど大きな変化が窺えないことからは、こうした変質は土器に基づく旬儀型の饗宴儀礼とは

別の論理に起因するものかもしれず、生産地の変容に配慮すると同時に、宮廷社会の価値体系の展開など、より広い視野

から検討を加えねばならないだろう。

 従来、ともすれば〈土器〉を高級品と安価なものとに区分し、それを階層差に還元する傾向が強く存在した。しかし、

都城なるものが律令制と不可分であることを想起するならば、律令制期の都市において純粋な庶罠を想定することは不可

能に近く、平城京・平安京、さらには中世都市京都の住人は、なんらかの形で国家機構との繋がりを有していたとみるの

が適当である。都城で使用されるく土器Vのあり方とは、そうした宮廷社会を頂点とした儀礼的・文化的な様相の広がり

を示しうるものと推測され、翻ってみるならば、〈土器〉を検討の狙上に載せることは、宮廷社会を考えるうえでも、平

安京および京都といった都市構造を考察するうえでも、不可欠な素材となりうるだろう。こうした若干の展望をとおして

みても、本稿が論じえた内容はきわめて僅少な事柄であると認めざるをえない。機会をあらためて議論を深めることがで

きればと考える。

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[付記] 本稿は科学研究費補助金(若手研究(B)

  究」)による成果の 部である。

「古代・中世移行期における宮廷儀礼の変容と平安京出土土器に関する総合的研

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The Pottery used at the Court during the ffeian Period

by

YoslE Takashi

  Banquets held at the Court in the Heian pertod can be divided into two basic

types. One is the shung 2’type典儀i型that is character1zed by toasting and the

d血k血gof liquor by the toaster and the use of earthenware vesse墨s. The second,

sechie type節会型, is characterized by the absence of dhnldng by toasters and the

use of lacquer ware. ln the shungi type banquet, which was the standard ceremo一

翻飴㎜,yoki ware聴器was frequently replaced by earthenware. Yoki ware can

be seen as being in same category as earthenware, aRd its use reveals the hosYs

intent to embe-sh the ceremony. On the other hand, earthenware that replaced

the yoki ware㎞this variety of banquet was usually called Kasuga-doki春日土器,

which is surmised to have been the equivalent of the variety 1〈nown as smoked

Haji ware黒色土器. The appearance of the Kasuga-dold type of pottery marks

the beg麗ng of society in which the de皿and fbr earthenware was great. From

this standpoint,辻 has been noted that the change 面 the sty正e of pottery that

occurred in the later half of the eighth century to the early ninth century is related

to the development of the Ritsuryo bureaucraljc state, as the cessation of daily

meal service for bureaucrats irifluenced the extinctioR of Sue ware productioR, and

the formation of Kugyo system公卿制stimulated the rise of the shungi type ban-

quet that was characterized by the use of earthenware.

Hier wird die franzOsische Besetzung der linksrheinischeR Gebiete zwischeR

Die 6ffentliche Meinung im Rheinland unter der franz6sischen Besatzung

                            (1794-97)

von

SoNoyA Munel〈azu

1794 umd 1797 unter dem folgendek Gesichtspunkt untersucht: IR der bisherigen

Forschung wird zwar auf die Moblisierung der Volksmeinung in der cisrhenanls一

(906)