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Title 支那生祠小考 Author(s) 長部, 和雄 Citation 東洋史研究 (1945), 9(4): 229-243 Issue Date 1945-11-25 URL https://doi.org/10.14989/145832 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

Title 支那生祠小考 東洋史研究 (1945), 9(4): 229-243 Issue Date … · ⑩ に生祠0事貿ありしことを披露して置いた。の代病の事蹟と其の師資開係に就きて』の・中にも代病

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  • Title 支那生祠小考

    Author(s) 長部, 和雄

    Citation 東洋史研究 (1945), 9(4): 229-243

    Issue Date 1945-11-25

    URL https://doi.org/10.14989/145832

    Right

    Type Journal Article

    Textversion publisher

    Kyoto University

  • 226

     

     

     

     

     

    に祀る風あり、之を生祠と云つてゐる。私の知り得た

    限りでは雨漢時代より明代に至る迄バ其の例賓に五十

    三箇祠を枚挙することが出来るが、今旧迄に之を主題

    とせる研究の登表あφしを寡聞にして未だ聞き及んで

    ゐない。件し其の事賓を指摘し、且つ之に對し一家の

    言を寄せられし學者は古来絶無とは云ひ難く、古くは

    北宋の朱翌撰『椅畳寮雑記』(四皿類)さハにヽ

    生祠始于定國之父。郡中生立予公祠。後漠潜山人

    生立。白馬陳従事。祠陳衆。廣都章祠。巴郡王

    堂‥九沢任延。武威張臭。1 之廣4  丁緋。池陽令

    杜珍。梁何遠令武康。守宣城。及新興内史。皆立生

    祠。斉新安。伏叫。唐義新軍袁滋。潭馬殷。呉越

      

    銭鏝。塞州韓逃。

      

    0父に由来することを脆破してゐる

    紹の誤記たること、章祠とは章義の生祠の謂ひであ

    る。次

    に南宋の程大胃撰『演繁露』(謔四本)巻五にも生祠

    の項ありて、

      

    于定國篤東海軍決曹。決獄平。郡中篤立生祠。生

      

    而況祠。此似無謂。人已死乃須立廟而血食。誰富

      

    享之。然而于公聴之。不附者習見。時事以埓富然

      

    也。秦始自立極廟。漢諸帝生自立廟。故買誼對文

      

    帝而目。顧成之廟。‐凱焉太宗。則生祠殆例此也。

    ― 35 ―

    支,

    那に於(-)

    ては古来地方民政の功努者を生き乍ら祠

    鎧延判と

    iRiRLt

    遜莫難

     

    の・い後十,丁⑦0流四縮での箇

     

     

     

    生,杜②る

     

    山祠珍が人を

     

     

     

    と畢何④于①斉げ遠公の

    Jjふ縮贈

    の嘔衆と

    jJ ioふ福のを滋義た苧馴如加)j1

    縮于殷堂墟学説ふ嶮辻

  • 230

    と云ひ、予定國0父の予公祠を于定國の祠と誤認して

    ゐるが、生祠の意義に對し甫めて誕を成せるは聴く可

    きである。

        

     

    次に明0張鼎恩の『邸郡代酔篇』巻十五に。于定國

    印父・陳衆・章義・王堂・任延・張具・丁紹・杜6 。

               

      

    袁滋゛馬殷゜浅膠‘韓遜■蜀易心状仁傑0十四箇生祠

    秋石○を’

    仁慶阜

     

     

      

    ■■

      

      

    此後世生祠始。今代無官不建生祠。然有去『任。未

      

    幾而毀其像。易其主者。萄唐書秋仁傑鳥魏州刺史。

      

    人吏鳥立生祠。及去職。其子限鳥魏州司功參軍貪

      

    暴篤人所悪。乃毀仁傑之祠。則唐時已有之矣。

    と云ひ、石慶・于公・槃布・秋仁傑の一四生祠を畢げる

    と同時に今代生祠の起因及その本質に就きて論及せる

    の十五箇生祠を掲出し、遣の趙翼o『駄駄叢考』秀二

    『牧民心書』谷四十八にも、

      

    は心して聴く可き言説である。

     

             

    ・皿弁義砂王堂9 輸・纏7

     

    私も嘗つて大阪府女子専門學校國文國史學會編輯

    ・張綸・高賦・徐九恩・陳錨

      

    『國文國史』創刊琥誌上に『生祠に開する二三〇史料』

                       

       

       

      

    肯り趙巽か『咳除叢考』巻三

      

    と題して、程師孟・趙句寛・劉航・李復圭0四箇の未

    十二にもノ槃布・石慶・任延・王堂・章義・陳衆・秋

       

     

     

                  

    仁傑・呂謹・李穀・張几・韓魏公0十一箇生祠を掲出

    せるは加藤玄智博士の『本邦生祠の研究』巻頭に紹介せ

    られてゐるが、其の大部分は巳に朱翌、程大昌の雨Å

    が夙に指摘せる所に係つてゐろ。

     

    獅ほ趙翼と弁び稀せられてゐる清初の碩學顧炎武O

    『日知録』巻二十二にも生祠0一項ありて、

      

    漢書萬石君傅。ヽ右慶焉斉相。斉人焉立石相祠。于

      

    定閥傅。父于公篤鵬獄吏。郡中篤之立生祠。銃曰

      

    于公祠。湊紀絹布篤燕相。有治建。民焉之立生祠。

    知0生祠を紹介せしことあり、亦近くは高野山大學筆

    教研究會編輯0『密教研究』第八十五琥所載の・拙稿『唐

                            

    の代病の事蹟と其の師資開係に就きて』の・中にも代病

    に生祠0事貿ありしことを披露して置いた。

     

    併し共の後私の手許に蒐集し得た生祠の賓例は此O

               

            

    小論を中心となつてゐる董昌を始めとして、淳于蓼・

       

     

    いに頑

     

    ・。⑩

       

       

      

     

    載溥鋼・王源・湯紹恩・薦徳秀・宋遊道・劉徽柔・脱

      

      

       

       

      

      

       

    脱・羅適・王重盈・魏忠賢・張蒙・孫遇・王回顧・劉

    秩・四域の十七簡生祠に及んでゐる。けれども以上五

    十三簡生祠の中には典櫨不明の者もあり、姓名の誤.o>

    -36

    ・槃⑩`王⑩布李

     

     

     

    蜀⑩O

     

     

    韓⑩・

     

    魏童⑩鏑公恢撰

  • i31

    傅へられし者もあり、生祠ではなくして生碑の事賓を

    筆者が誤解せる者もあって悉くを詳にすることは出来

    埋い。而乍ら之を以て観れば生祠の事貿は支那此會史

    上決して稀有ではたいと云ふことが明かとなったので

    ある。

        

        

        

     

    今より支那生祠の一般的性格を究明する段となった

    が、先づ最初に右の五十三箇祠の賓例・比就き其ヽ0典櫨

    を明か。にして置かう。

    (昌)・P

       

      

    (J)・韓魏今(作

    宋史泰四百出

     

    大循嗇)

     

    ニ薯唐書巻百八

    謹新唐書倦百四

    栄史泰三百二

    {十四、張尤傅}.

    義W

     

    繋録

    一子一

     

    吏良

    j!こ、傅吏

    十宋`傅

    (鯵・P(J)・四

    r(昆

    六史`-゛鸚ふ

    傅百

     

     

    -いへJ十宋.ニニ史

    黄経盤員)・響圭

    ’二十六ご

    螢二十八、鱒信傅巻八代病傅

    詔二)・

    不典

    明線

    心ノ

    (宋史倦二百九・即病(宋高

     

    十一李復圭傅

        

    信傅

    訂(朧詰苔写詣

    京子

    阻悦服

    0 

    (同

    排卵L

    八1 0

     

    蜷利行如

    素(詰昌註鋸r囃子具

     

        

    ・雇7£聊唐柵循

     

      

      

    ロμ

            

    姿二十二熹宗本紀天啓六年六月関辛丑

      

    ぽ冬大明一統

    酋゛代史姿亘一士一世襲列傅ヽ新゜作゜如遜昶゛代史巻

      

    及明史藁同上ヽ明史紀事本末巻七十一)・短一志姿十河)・

    纏ら昌‥にリダぬUドフr(J)

    ・賠沓)・ずぜ蓼(皿鈴)

    月齢に

    ・一一

    ‥回報腿づ謔雑

    の如くでW心肺

     

    此0 中典楠不明の生祠九筒祠を除

    傅)

         

    (姿四十六石慶傅

     

       

    (史記姿゛彙布傅)・

        

    き、残る四十四筒祠を時代別に列記すれば左の通りで

    平廣記巻二百九十所引會稽録、金石臍編巻十三苦言

    生祠記、仝唐文巻二百八十一王樗撰命銭膠討薔盲惣

    旦り)・

    r真司回心兄鄙(J)

    甦y蚕亘

      

    巻一価尨

     

    太逆

    37一-

    1・1に1

    森八十宋託二鱗

    臨瀧鮑

    7森゛4参詣?

    号混作

    探訪

  • 232

    ある。

          

      

     

    代-于公

          

          

    槃布

          

      

     

    代―丁紹

     

    北野代

    如堂・即魯・10奥・心慶

    嘔(計二祠)馴

    ども、一先づ右0四十四箇生祠を資として研究を進め

    て見よう。

         

         

         

     

    紙面が極限せられて来た篤め、開係史料・り原文を引

    用することは勿論、その梗概を抄出することすら差控

    心病゛’10昌゜皿于

      

    へねばならなぐなった弧ら、隔靴掻岸0憾みあるは免

              

    れたいが、此の鮎偏へに識者の御賢察を乞はねばなら

              

    ない。

     

      

      

    ・李穀・張几・程師孟・

       

       

    仮圭・貝徳秀・羅適(計

     

    金明

      

    十一祠)

      

    代―劉徽柔(計一祠)

      

      

    代l脱脱・張蒙(計二祠)

      

       

       

      

       

    代I徐九思・舞溥幅・王源・湯紹恩・魏忠賢・

      

      

       

      

      

    孫遇・汪回剛・劉秩・費殯(計九祠)

     

    以上の如く漢・唐・宋・明の様な文献0饒多なる王

    朝に其0遺聞0豊富なるは何等異しむに足りないが、

    碑史紀聞の多きこと浩として潭海の如き支那史上に於

    て拉。乗だまだ此の種0史料は存するものと思ふ廿れ

     

    扨て已に紹介を臍ました如く、『目知録』に云へる

    「今代無官不建生祠。」とは蓋し一代の碩學さすかに顧

    決試の達見にて、以上の諸賓例を一瞥した結果から申

    せば、敢へて今代に限らす生祠に祀られし者は唐o天

    台山の信代病を除き悉く官吏にて、特に地方行政官乃

    至司法官に限られてゐる様である。

     

    例へば郡太守鴛りし者には王堂・任延・何遠・伏謹

    等あり、麻令焉りし者には章義・。杜珍あり、刺史篤り

    し者には袁滋・秋仁傑・董昌・銭膠・苓穀等あり、知

    州篤りし者には高賦・張几・程師孟・趙狗寛・’李復圭・

    員徳秀等あり、知府焉りし者には王源・湯紹恩の用人

    -38-

     

    張⑩韓⑥重劉⑩綸遜盈駝ふ講評

    李⑩賦一七復.丿色

     

     

     

    彭古宇-rRm

    ・・

     

     

      

     

    智言ず)1

     

     

    引一

     

    三素

     

    ぐに;

     

     

      

    戦言口

     

    i-・

      

     

    ゝa■ れr)

    レシ

     

  • 233

    あゆ、節度使焉りし者にぽ葦昌・王重渠0雨人あり、

    轄運使焉りし者には李穀・李復圭の二人あり。制置使

    亦は脅運使焉りし者には張綸あり、経略招討使篤りし

    者には韓綺あり、功曹使焉りし者には杜珍あり、獄吏

    篤りし者には于公・羅適ありと云った有様にて、彼等

    は悉く地方行政特に功罪・決獄・賦課等を已が権限と

    してその掌中に牧めし地方官である。’勿論此0中には

    王堂の如き西莞討伐0勇将、伏嘔の如き翰林學士もお

    るが、共装地方行政官を歴任せし者に限る事賓は特に

    注目すべきである。亦魏忠賢0如きは宦官であるが、

    之亦地方官とは密接な関係に結ばれてゐる間柄であ

    る。執れにせよ百姓庶黎の聚落に於ける日常生活に直

    接開係深き官憲0みである。

              

     

    是に於て私の最も不可思議に感ぜすに措かれない所

    以0者は。支那0様な古来飲會の自洽組織の脅達せし

    國土に於ては民間に於ける自治功努者も隨分斟くなか

    ったと察せられるに拘はらす、此の種の者にて生祠に

    祀り上げられし資例は私の管見の及ぶ限りに於ては、

    猫り彼の代病を除き他に一人も見営らないと云ふ事貰

    である。此の事貰は支那生祠の酸生を稽へ、其の性格

    を理解する上には極めて肝要であると思ふのである。

    畢竟官憲烏りし者にて且つ地方民0生活と密接なる関

    係を結ぶ者に非ざれば生祠に祀られた賓例なしと云ふ

    ことは。支那此會に於ては庶民と地方官との利害闘係

    の裡に特殊事情が介在し、之なくしては生祠は成立し

    ないと云ふことを意味する者である。隨って此0間の

    事情を賢察するに非ざれば、支那生祠の賓醍に関し正

    確な知識を得ることは困難であると云はねばならぬ。

     

    併し或は論者あって、生祠の如き政治史上の正面に

    非ずして翫會史0一側面を物語るに過ぎない事柄に関

    しては、罠間側の史料は他0幾多の同種0例に漏れ

    す、之を逸して傅はらないのであると云はれるかも知

    れない。けれども敢へて私は主張するが、巳に明白な

    如く生祠?一般性から稽へて、将叉以下論究する如く

    純然たる民間人の生祠の如き者が成立する筈なき官民

    相互間の特殊開係に想到せば、蓋し之亦富然ではある

    まいか。故に彼の代病のI例の如きは寧ろ例外と云ふ

    可く、賓に単文孤燈である 0隨って私は支那生祠の大

    多数は依然地方行政官に多く見る所であると考へ大誤

    ながらんと恩ふ者である。果たして鄙見が’正鵠を得た

    -39-

  • 214

    りヤ否や、左に愚考を開陳し以て博雅の是正を仰ぐこ

    とxする。

     

    扨て然らば茲に謂ふ地方官と庶民との開係0裡に存

    する特殊事情とは如何なる者なりや。之を開明するに

    は官憲及庶民の雙方側より考察する必要がある。便宜

    上先づ官憲作より考察を試みて見よう。

     

    最初に支那官吏の品防特に所謂良吏とか循吏とか扨

    揚せられる者の資質を檜罷する必要がある。周知力如

    く支那官僚には古来貪官汚吏の多きを以て聞えてゐる

    故に縦令歴代0正史が概ね酷吏の傅を立て、之に對比

    せしめて良吏若しくは循吏の傅を立て、之を讃嘆せる

    も。吾人は之を無條件に所傅の値信憑することは致し

    炭ぐないのである”

     

    抑々良吏若しくは循吏と酷吏との相違が奈逡に存す

    るやと云ふに、先づ『史記』巻一百十九循吏傅を観る

     

    に、

      

    太史公日。法令所以導民也。刑罰所以禁姦也。文

      

    武不瘤。良民催。’然身修者。官未曾貳也。奉職循

      

    理。亦可以鴛治。何必威厳哉。

    と云ひ、循吏篤る者は先づ身を修むる有徳の士でなく

    てはならぬことを強調し、同時に法令刑罰は民を導き

    姦を禁する所以0者であるが、之りみにて文武備はら

    ざれば良民は唯1 れるのみにて賀の治を致したとは云

    へないと膳し、畢竟法治政治を施行する者は民催れて

    獣するも循吏に非ずと云ふ。隨つて『索隠』が注して、

    「謂本法循理之吏也。」と云へるは司馬貞の謬見にして、

    循吏の本義yはないのである。

     

    之に對して同じく『史記』巻一百二十二酷吏傅を観

    るに、

      

    孔子曰。導之以政。斉之以刑。民免而無恥。導之

      

    以徳。斉之以檀。有恥且格。老氏梱上徳不徳。是

      

    以有徳。下徳不失徳。是以無徳。法令滋章。盗賊

      

    多有。太史公印。信哉是言也。法令者。治之具。

      

    而非制治清濁之源也。昔天下之綱嘗密矣。然姦鴎

      

    萌起。其極也。上下相遁。至於不振。」云云

    とあり、此處に於ても徳治政治を謳歌し、法治家たる

    酷吏の不可なる所以を醇々と誕いてゐる。

     

    故に法令に依る巌罰主義を以て民に臨みし者が酷吏

    にて、然らざる者が循吏若しくは良吏たることは極め

    て明白であり、亦此の見解は漠代以後と雖も概ね不腱

    -40-

  •    

    であることも『漢書』以下b歴代の正史政循吏若しく

       

    は良吏の傅が『史記』循吏傅の主旨を冠頭に掲げるを`

       

    以て明かであり。之亦終始徳治政治を謳歌せる支那帝

       

    國としては営然の結果であちう。

        

    かるが故に治績の大小如何に拘はらす。概ね徳治家

       

    を揚揚し、彼等を循吏若しくは良吏に列し、之に反し

       

    て法治家を酷吏に鵬げてゐる支那正史の筆法には注察

       

    せねばならないのである・例へ。ば孫叔放他四名は『史

       

    記』循吏傅に専傅ある代表的循吏であり、詐都他十一

       

    名は同酷吏傅の代表者であっ7、散の上に餐ては後者

       

    が超かに前者を凌駕し、徳治政治を標榜せる漢代に於

       

    て法治家o多かりしは一見奇異の念を抱かせしめすに

      

    、は措かたい。而し之は苛斂誄求分僻ある法治主義政治

       

    家を筆誄せんが焉め’に春秋の筆嘱を以てせる者と考へ

       

    られないこともないが、『史記』酷吏傅には太史公も云

       

    へる如く其0廉者は以て儀表とするに足る者もあった

       

    ○である。

        

    是に於て私は支那官吏の遼有性から推測して、彼等

       

    が俗悪貪慾0程度は所謂良吏酷吏雙方共に大部分の者

    235

      

    に就いては大差なかりし者と稽へてゐる。

     

    或は論者あって更に鄙見を以て正史上に歴然と狐則

    されてゐる良吏と酷吏とを同一硯する暴論なりと反駁

    される。や、も測り難い。けれども私見に依れば巳に開陳

    せし如く、此の両者は施政方針の相違から私利を替む

    にも、一方は徳洽政治を標榜せるため、之が圓曲穏密

    の裡に行はれ、他は法治主義を施行せるため、之が端

    的露骨に崩はれてゐる。に過ぎないのであって、雙方固

    より大多数は同質の俗吏なのではなからう歎。猶隆徳

    治政治を以て治世の極どなせる歴代取廳は之を表看板

    えなして民に臨みし者を特に推賞し、然らざる者に筆

    誄を加へざるを得なかった焉め、一見両者0品陥迄も

    著しく異れる如く観取されるのではなからう賦。故に

                        

    支那官吏を評價する場合は、仮令それが良吏傅に阜げ

    られてゐる人物と雖も、一座之を疑はざるを得ないと

    同時に、酷吏傅の人建も直ちに劣悪の官吏なりと白眼

    脱することは出来ないと愚考致す次第である。

     

    是を以て観れば、良吏傅に‘皐げられ且つ生祠に祀り

    上げられし人物も果して’正薦正銘の良吏なりや否や

    すら室に疑はしきのみなら挙、私は寧ろ此の種の所謂

    良吏こそ徳治を粧ひ美名に隠れて瞥利虚業に寧日なか

    -41-

  • 236

    りし悪質0官吏にて、彼等こそ一暦樫戒を要する侭善

    的官吏ではだからうかとすら考へてゐる。私の此の臆

    断が的中せるや否や、之を明かに立澄すろには彼等が

    生祠に祀り上げられるに至りし動機及顛末を詳にする

    に如くはない。亦之に依り支那官憲と庶民との特殊開

    係を庶民側より考察することにもたるのである。

     

    先づ第一徳政により風化大いに具り、教導宜しき鴛

    め生祠が立てられたと云ふ者には、張奥・任延・杜珍

    等あり。

     

    次に賦斂を平均し或は之を立替へしためと云ふ者に

    は張莫・伏㈲`・呂譚等あり。

     

    第三には外敵の侵寇するを攻討し、民の軍役を免除

    し、民を農畝に放節せしめたと云ふ者には王堂・秋仁

    傑0雨人あ・り。

     

    第四にぽ陛を築き濤患を除き、肢渠を復疏して榛莽

    地を膏股地となし、飢田を開墾し、良川に溌漑して流民

    を救級し戸数を著しく増加せしめし者には張綸・高賦

    ・程師孟・趙肯寛・湯紹恩等あり。

     

    第五に途巷を開き、道普請を行ひ、民の勝屋を修葺

    し、窃民を済慨し、民利を増加せし者には何遠・徐九

    思の雨人あり。

    ‐第六には賞罰を蔽加しても決獄を公平にし、訟を聴

    くに果断、疆風を観ること仇囃0如く、貧細を観るこ

    と子弟0如く、焉めに牢獄は空虚となったと云はれで

    ゐる者には于公・張莫・章義・何遠・劉徽柔等あり。

     

    外に貪利を除きし者に宋遊道あり、物價を平準せし

    めし者に張几あり、白鹿14 院を復興せし者に欄溥顔等

    あり、亦言はすして両國大いに治ると云ふ石慶0如き

    特殊な例もある。

     

    斯様に彼等は善政の限りを雄してはゐるが、中には

    其0治績の員價曖昧なる者もあり、例へば趙倚寛0如

    ’き其0賓例にて『宋史』の高賦心傅に徴せば、「前守倚

    寛苗墾に力を造らす」云云と云ぴ、趙肯寛0傅とは全

    く正反對の意見を述べてゐる。故に右にI述べた諸治績

    を読んで、直ちに悉く無批判に感佩することは出来な

    い。而し執れにせよ之だけの事は云へ得ると思ふ。即

    ち彼等は例外たく庶民生活0弱鮎を鋭く洞察し、其O

    苦患必せる所を巧に療せし者ではあるが、人心を把握

    するに敏にして、先づ恩恵を前面して而る後に相庶の

    限洲も’らもA.) -^Iji^l象田‐ごこもつ?b5L・。

    42- - ・

  • 237

    `隨つて皮相的見解を以てすれば、彼等は徳治主義の

    師表の如く観ゆるもJ責は決獄に賦課に将又軍役に、

    生祠に祀られんことを像期待望して恩恵を施甘る虚業

    に義れる野心家ではなかりし・耶と疑はざるを得ないO

    である。

     

    之に對して百姓も亦さる者乍ら、如何たる心構へを

    以て彼等官憲に臨みしやと云ふに、官吏の脩悪貪慾に

    慣らされてゐる彼等は坐して題罰を加へられ、苛斂陣

    求を被るより積極的に貪官汚吏に働き掛け、先づ彼等

    を生祠に祀り上げることに依り彼等の徳治的野心を満

    足せしめると同時に、斟くとも彼等をして外面は循吏

    たるの仮面を被らしむろに成功し、彼等より甘受せね

    ばならぬ損害を未然に防止ぜるのみならす、寧ろ彼等

    より相営の利盆を享受せし者ではなからう倣。

     

    斯くの如き内面的事賓を賓詮す・るに足る百姓側の史

    料は、事の性質上今直ちに茲に提示することは出来ぬ

    が、夫れは良吏の性格0反面に百姓をして容易に其の

    間隙に乗ぜしむるに足る所を必ず備へてゐる事責に想

    到すれば、思ひ牛ばに過ぎるであらう。

     

    一例を畢ぐれぱ秋仁傑0如きも1 つて北州0判佐焉

    りし時、吏人より匪告ぜられしことあり。此れ即ち必

    字や彼の性格鈴不純なる反面ありし篤めに外ならす。

                         

    χ-

     

      

    亦大理巫焉りし。時、滞獄者一萬七千人を断ぜしこと

    もい孝友人に絶し、則天武后の殊遇を蒙りし政界0大

    立物たりし彼も意ぴ0外その性格に激しき反面0あり

    しを有力に物語る者であり、之が鵬がては百姓をして

    巧に其の機に乗ぜしびるに十分な短所と忿る者ではな

    らうかと思はれる。-

     

    之等の事賓を凝脱すれば、百姓側に於て常に機先をゝ

    制し、本来の貪官汚吏をして紗くも外面は良吏に仕上

    げ、其の名利虚柴を満足せしむると同時に、彼等百姓

    も亦斟からす民利を享受せ。ねば已またい恐る可き技倆

    を備へてゐたことを認めねばならない。

    ’殊に『後漢書』巻六十七酷吏傅に、

      

    漢承戦國徐烈、多豪槽之民。云云

    と云へるは漠代以来の此の間の消息を鶏政側より観測

    サし有力なる誼言である。。故に雨漢已来柴健の民が邦

    邑間里0間に雄張せるを以て、民に臨むる0職に在る

    者は威断を以て姦軌を族滅せねばならす、民も亦之に

    對庶して機先を制し、酷吏の鉾先を封じる必要かあつ

    "心43-

  • 238

      

    たのである。之則ち生祠殺生の庶民側より考察せし主

      

    と考へてゐる傍澄を散々提出するごとが川来るのであ

    因である。

     

    而し乍ら生祠の殺生には今一つ別簡0原因がある。

    夫れは下級地方官吏が上長官吏に阿設せんがために、

    偶々百姓間に生祠建立の議起らば自ら進んで之に合流

    せる0みならす、寧ろ之が指導的立場に於て此の皐を

    助成せしためである。共の設左として現に任延・王

    堂・秋仁傑・呂謹・董昌・李穀・湯紹恩等の場合は、「吏

    民」・「士民」・「人吏」・「郡人将吏」・「上将佐下絡黄1 

    丈」等が篤めに生祠を立つと云へるを以て官謐するこ

    とが出来る。要するに之等は生祠建立の動機を側面よ

    り物語る者と見倣さればならぬ。

     

    以上が支那地方官憲と其の住民庶黎と0間に介在せ

    る特殊事情であわへ之が臆ては支那生祠員tの主因で

    あると同時に、地方民政0功労者であっても民間人た

    る自治功労者に殆んど生祠の賓例なき喉本的理由であ

    る。

     

    併し論者は或は亦之は診り0曲解に依る牽強なる臆

    溌たらすやと難するかも知れない。けれども私にも斯

    く解しなければ支那生祠の本質を十分に理解し得ない

    る。

        

        

        

     

    先つ第一には已に援用せし如く、宋の程大昌り『演

    繁露』に。

      

    生而立祠。此9 無謂也。人已死乃須立協而血食。

      

    今也生而立廟誰富享之。

    と云へる通り。支那宗廟の法に鑑みれは。生ける者を

    祀ると云ふことは凡そ無意味であると。尤も小柳吸気

    太望釣鐘煙賢悩回國)に『ゼ辞』京九腔

    魂に、宋玉が生存中の屈原の魂か招く「招魂の序」あ

    るを指摘せられてゐるが、博±0没を聴けば、檜ほ其

    の文耐中特に生存者0魂を招くと云ふ意は明白でない

    とのことである。故に支那に於ては古米生存中の者を

    祀ると云ふ不自然なる法は存しな小0みならす、先秦

    時代には亦その賓例も殺見し得ないのである。

    第二には森三樹三郎學士超誤紅斟四P)に

    支那0祭祁は山川五行星辰たると人物たるとを問は

     

    す、生前官僚として國家経済に直接間接寄輿なした功

    -4∠1

    -

  •    

    努者と見倣し、之に官僚的性格を附輿し、國家的祭祀

       

    の對象として祭るのが原則であって、城障廟・土地

       

    廟・生祠0如きも評判良き令名高き地方官吏を祀りし

       

    者であり、狽り國家的祭祀の對象として祀られし祁々

       

    だけでなく。民間信仰の紳々までが著しく官僚的性格

       

    を有してゐる事宣は。官僚的生活に對する支那民族O

       

    憧憬が如何に強烈であったかを物語ると云へようと云

       

    ふ意味の見解を登表せられた。

        

    然るに生祠は已に幾多の賓例に徴し明白だ如く、國

       

    家的祭祀の祠堂には非寸、森學±0云はれる民間信仰

       

    の祁々の一例として之に官僚的性格を附輿し、國家的

       

    祭祀に準じて祭られた者では泌るが、祭祀宗廟の法に

       

    背く祠堂である。即ち坊問聚邑に於ける吏民が上来緋

       

    誕せし理由に因り殺趙し自ら成立せし祠堂たる黙が生

       

    祠と他の諸祠ふ薯しく趣を異にせる所である。

        

    斯様に支那傅統の祭祀宗廟の法に戻りて迄生祠の出

       

    現せし所以は、一応郷関に於ける百姓邑人が祭祀宗廟

       

    の法に暗がりし埓め。良吏を敬愛するの除り其の高徳

       

    を族表せんとし、之を生き乍ら祀りし者と解されぬこ

    t4

      

    ともあるまい。’例へば張莫・杜珍・宋遊道・袁滋・銭

    膠‘・韓遜・韓綺・張綸・趙肯寛・李復圭こ呉徳秀・劉

    徽柔・脱脱。・徐九思・蓄溥幅・王源等0諸生祠0場合

    は、「州牒民」・「邑人百姓」0みに依り建設されたと傅

    へてゐるが、而し彼諮が悉く無學文盲の低劣極まる無

    知なる階級とは惟にれす、必ゆやそ0中には有識の村

    夫子も幾多加入せぶ者と推想され

      

    、斯る解答は仝・

    面的に承服することは出来な

    いWt。

     

    即ち第三節に於て繍々誕這せじ如く、彼等が敢へて

    祭祀0法を干犯して迄も生祠を設立せしは、褐り盛徳

    顕彰0焉め’に非ず、明かに他意ありて此の皐に出でし

    為で声らうと想はれる。目前0利害得失を控へては、

    祭法上回炉集がどは更に意に介する暇なき大衆は、何

    分にも利益吃酬り齢からざらんことを狸測し、地方長

    。官を清濁を問ぼす生祠に祀り上げし者と解する外はな

    い。若し百姓にして薦に高徳廉潔の良吏壹顕彰する意

    圖ならば、必ずしも生祠に依る要はたい筈である。

     

    例へば『漢書』循吏傅の文箭の蜀に於ける、同じく

    朱邑の桐郷に於ける、同じく召信びり南陽に於ける等

    の如く、夫々終焉後に共の任地の邑人達が祠堂七立て

    歳時に之を祀り、永く其の高徳を偲び居るではたい

    -45-

  • a'o

    賦。敢へて生祠でなくてはならぬ理由は毫も蛮見され

    ぬ。彼等こそ官に良吏中の良吏0典型にて、斯くあっ

    てこそ百姓がそ0高徳を泣慕せる0純情が遺憾なく形

    0上に顕はされてゐると云ふ可く、其の間何等不純な

    る動機が包蔵されてゐない。

           

    `ヽ

     

    然るに『後漢書』の循吏傅になると。王奥の安陽に

    於ける、同じく許荊の柱陽に於ける如く、死後その祠

    堂り立てられし例もないではないが、任延0如き生祠

                 

    ―ヽ

    の寞例新たに殺生し、以下『昔書』良吏傅の杜珍、『梁

    書』良吏傅の伏白。『雨唐書』o良吏及循吏傅の袁滋・

    呂謹、『宋史』循吏傅の程師孟・張綸・趙肯寛・高賦の

    四名、『明史掴吏傅の徐九思・瓶溥幅・王源・湯紹恩

    の四名の如きW例相楠ぎ、此處に更めて良吏と生祠と

    の特殊なる関係を稽ふ可きである。

     

    即ち『明史』循吏傅三十九名中死後祠堂に祀られた

    者に陳幼學・題嵩・段堅厄・希正・。李湘・張宗漣2八

    名を算するのであるが、生祠に祀られし者四名と比較

    すれば、同じく循吏とは云ぴ乍ら其の間性質が自ら異

    れる者と想ふ可きであらう。

    者は偽0 的良吏と断する外はない。若し循吏にして正

    身疋銘の術吏たらば、彼の宋の李穀0如く生祠建立を

    懇譲してゐるではない哉。因みに唯が『宋史』循吏傅

    に雄げられす、別に専傅の樹てられてゐる所以の者

    は、彼が並々の循吏に非す、名賓共に屑の循吏たるO

    謐左でなくて何であらう。亦魏忠賢の場合の如き『明

    史紀事本末』巻七十一では、熹宗は最初之を許さたか

    った旨述べられてゐるではない鰍。

     

    第三には顧炎武0道破せる

      

    今代無官不建生祠。然有去任。未幾而毀共像。易

      

    ‐其主。

    ふ云へる事宜である。彼の秋仁傑の生祠が毀損せられ

    しは『雨唐書』0同人0傅に櫨れぱ、其の子暉が不肯に

    て魏州の民に迷惑を及ぼし、4 ‐″fy所であると云ふ

    からに、世に云ふ所のヽ「坊主が悪けりや袈裟迄悪い」

    と云ふ誘言の・筆法に則るのかも知れないが、その畢動

    の除りの軽薄さには唖然たらざるを得ない。

     

    隨って古くは宋代に就いて見るも、例へば『夢梁録』

    (四四討)巻十四祠祭の項にヽ忠節祠゛仕賢祠゜古祁祠゛

    土俗祠・東都隨朝祠・外郡行祠等0諸祠名が見えるが

    -46-

  • 241

    生祠の名将は我見出来す。。亦近くは清朝の賓情を察す

    るも、例へば『清代文集篇目分類索引』雑文之部碑記

    祠慕條下糾専祠中に昭忠祠以下多数の祠名を列記する

    も生祠てふ名将見えす、亦『皇朝文献通考』巻一百五

    祭祀考にも多数祠廟名を列皐せるも生祠の見えないO

    はヽ已に第二項にw論究せし如くヽ一は生祠が國家的

    祭祀0對象でなかったに因る者ではあるが、今一つは

    之が不純なる動機に因り建設されし者多かりしと想像・

    される故、生祠帥が死後忽ち祠堂が毀損せられ、概滅

    に齢せし者多数であったと稽へざるを、得埋いのであ

    る。

           

     

    以上あらゆる角度より考察せる結果を以て観れば。

    支那生祠の殆んど大部分は不純たる動機に因り設立さ

    れし者篤ること疑ひたく、隨って酷吏傅の生祠宋廻

    道。逆ぱ傅の生祠董昌、ブ宦官の生祠魏忠賢等の如き者

    存するも敢へて不可思議とするに足らたいと同時に。

    忠義・孝友・烈女等の傅に生祠の事宣なきも窟に故あ

    る者と云ふ可きである。

     

    併し私は生祠の悉くが斯る不純なる者と云ふ0では

    ない。例へば石慶の如きは父阻傅来の家行孝謹の風卓

    越せしを以て、斉相を焉るに及んで斉國云はすして治

    ると稀せられ、正純至上の生祠0一例であらう。代病

    0如きも身は官憲に非ずして一介の地方邁説の天台國

    清寺より出でし旅惜であつたから、その襟勢を侍んで

    民に恩恵の前責をなし、私利恥誉む旁々生祠に祀られ

    んことを慄期し得る様な立場に雀つたとは思はれな

    い。故に宗敦家鴛りし彼に於ては生祠設立の動機に欺

    応的野心が伏蔵せられてゐたとは考へられないが、若

    し或は他0】般的諸賓例より類推して、彼をして密語

    を誦せしめ、息災所願をなさしめる協めに彼を慄め生

    祠に祀り上げたと云はん獣。之こそ除りの曲解掻滸な

    りと許さねばならぬ。何故たらば彼の呪力を信じそO

    教風に廉きし河南洛陽の民は。比較的無知蒙昧素朴に

    して祠法にも聞き一般大衆に限られたりと想はれるO

    みたらす、河南地方は蜀と共に古来特に直弔の聴え高

    かりし屏0循吏に恵まれてゐたから、同地方の百姓

    も比較的純朴にて他地方の夫等とは著しく異つてゐた

    のである。即ち共の謐左は『漢書』巻八十九循吏傅に。

      

    是時循吏。如河南守災公。蜀守文翁之栃。皆謹身

      

    帥先。居以廉弔。不至於蔽。而民従化。云云

    ¬47-

  • 242

    とあり、河南0民に隠代己来異色ありし者と知る可き

    である。

     

    右の如き一二の例外は格別として、上来桃論せし通

    り、支那生祠の大部分は決して所傅の如き徳治政治o

    旅表とでも評す可き聖者の祠堂には非ずして、官民雙

    方の欺痛に依り支那の如き徳治政治の行はれる祗會に

    。あってこそ成立し得た恢㈲を被りB装を纒へる生4 o

    堂宇である。

     

    此の意味から云へば、酷吏たる北斉の宋遊道、逆臣

    たる唐末o董昌、宦官たる明の魏忠賢の生祠は、轟次・

    言明せし如く寧しろ標準型生祠と稀す可ぐ、就中董昌

    の場合は比較的史料o備はれる鮎から特に詮索に價す

    る者である。

        

        

        

     

    上来四節に亘り論述せし所、或ぱ明誼を訣く場合も

    あり、妄断の誰りを冤れないかも知れないが、而し之

    位の断案は匿史家の見識として許されても宜しいであ

     

    茲に欄筆するに常り、董昌の生祠に開し左の如き論

    澄を試み、生祠の薦相を摘挾し以て1 考に供し度いと

    思ふ0である、。それは己に指一

    八百二十一所収の・『呉越備史べ

    鯵討董昌詔』に、

      

    ………而自覆鼎必折。而逞傾因憑生祠。領有狂

      

    謀。仮陳妖異惑服。邪巫鼓膜・危排鴎億建國不思

      

    理。代徒生大吠之晋。欲就叢祠。妄畢狐鳴之兆。

      

    云云

    とあり、撰文口王樽の言に捷れば、董昌0生祠0正幄

    は妖異惑乱0所産であると云ふ。楢ほ『1 越備史』巻

    一武粛王匹三年春正月の條に依れば、彼の生祠は唯一

    でなく、諸郡に散多起され、そり生祠には土馬を置

    き、流言する者ありて土馬術き登汗せば貧輿せらると

    云ふ。亦彼が僣乱を圖りし際、妖人態智等竟ぴに幻惑

    を以て進み、愚民俗吏にして亀魚の符印を致す者日に

    百を以七散へると云0 、僣琥七立てるを議するに及

    び、客ありて、

      

    使傀徳儒倍唱。中和辰巳問。越中嘗有聖経云。有

      

    羅千鳥。主越人禰禰。敬則顔。複則禰。於是民間

      

    悉岡其形。以・祷之。今観大言

    -

    48-

    原學不Yル

    1ミ

  • 243‘

      

    類。乃圖示昌。昌欣然返以篤独。僣立之際。年月

      

    日時。用卯従妖言也。

    と云ひ、彼が僣立0際の妖言を特筆してゐる。

     

    是を以て観れば、董昌の生祠は明かに妖的存在であ

    ふと云ふ事が出来る。否、董昌若しくは魏忠賢の生祠。

    に依り代表せられたる支那生祠の大部分は畢竟支那此

    京大東洋史學科講義題目

     

    本年十月よS\明年三月までの文學部東洋史學科講義題目は

    次の逞り

    講義

     

    東洋史概況第一部

            

     

     

     

      

    右第二部宋元史概説

           

     

     

     

    m一’

     

    唐代・祀會

      

    支那政治思想

    同同

    漢民族の南方発展史

    太平天國の研究

     

     

     

     

     

     

    田村助数授

     

     

     

    會の妖的信仰0所産であると去み可きである。

     

    籤日私は白衣會に就きても同様の私見を登表して置

    いたが、今日再び生祠に開しても’亦斯る結論に到達し

    た0で、併せて識者の叱正を仰ぐ次第である。(完)

             

    。1昭和十九、四、二十八。改稿I

     

      

    蒙古史

    ず演習

     

    唐代民間文書

     

    躊讃

     

    歴代食貨志(漢書食貨志)

     

      

    廿二史割記(明史.)

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    田村助教授

       

    新卒業生及び卒業論文題目

    本年九月、東洋史學科卒業者及び卒業論文題目は左の通り

    北宋時代の銭荒にっいて

             

    厚。地

     

    照。彦

    唐四宰相張親の政治活動について

         

     

     

     

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