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1 原 注 本書のためのリサーチにさいしては、さまざまな一次資料を広範に当たるよう心がけた。もっとも重 要な一次資料は、ヴァージニア州チャンティリーにあるスミソニアン国立航空宇宙博物館のスティーヴ ン・F・ウドヴァー=ヘイジー・センター所蔵のアーサー・C・クラーク文書、並びにロンドン芸術大 学のスタンリー・キューブリック・アーカイヴの無尽蔵とも思える収蔵品である。その他の一次資料と しては、以下のものが含まれる。まずは『2001年』の研究者デイヴ・ラースンの膨大な個人的保管文書。 これにはフレデリック・オードウェイ、ダグ・トランブル、スチュアート・フリードマンをはじめとす る重要人物からの、かけがえのない個人的な文書等の素材が含まれる。そしてデイヴ、シネフェックス 誌のドン・シェイ、ダン・リクター(〈月を見るもの〉)、クラークの伝記作家ニール・マカリアーが親 切にも提供してくれた、価値の測り知れないオリジナルで未編集のインタビュー素材。さらにいえば、 スリランカ在住のイギリス人ジャーナリスト、リチャード・ボイルの個人的な保管文書のおかげで、50 年代と60年代を通じてクラークのパートナーだったマイク・ウィルスンと作家の関係について理解を深 めることができた。 クラークとキューブリックに関する膨大な保管文書をデイヴ・ラースンとリチャード・ボイルの所蔵 品で補完したおかげで、わたしは「大総合年表」という大げさな題名のついた、シングル・スペース 313ページにおよぶ文書をまとめることができた。これには主要人物のあいだで交わされた、さまざま な書簡、電信、テレックス、電報からの引用がぎっしりと詰まっている。多くの点で、それは本書の背 骨となってくれた。ここに提起された推論の大部分の論拠となってくれたのはまちがいない。 察しがつくかもしれないが、『2001年宇宙の旅』は長年にわたり多くの注目を浴びてきたので、おび ただしい数の二次資料も折に触れて参照し、引用した。特筆に値するのは以下のとおり。クラーク自身 の『失われた宇宙の旅2001((New York: Signet, 1972/邦訳:ハヤカワ文庫SF,2000)、ジェローム ・アジェルのかけがえのない、図版豊富な『メイキング・オブ・2001年宇宙の旅』(New York: Sigent, 1970/邦訳:ソニーマガジンズ,1998)、ダン・リクターの好著Moonwatcher's MemoirA Diary of 2001A Space Odyssey (New York, Carroll & Graf, 2002)、ヴィンセント・ロブロットの明快な『映画監 督スタンリー・キューブリック』(New York: Donald I. Fine Books, 1997/邦訳:晶文社, 2004)、ニール ・マカリアーの詳細かつ配慮の行き届いた伝記 Visionary: The Odyssey of Sir Arthur C. Clarke (Baltimore: Clarke Project, 2010)、その旧版 Arthur C. Clarke: The Authorized Biography (Chicago: Contemporary Books, 1992)、クラーク本人のキャリアを総括した555ページのエッセイ傑作選 Greetings, Carbon-Based Bipeds! (London: Voyager, an imprint of HarperCollins,1999)、そして最後に、美しい図版に彩られた、入 念な調査の産物である、この主題に関するピアース・ビゾニーの二冊の大冊、『未来映画術「2001年宇 宙の旅」』(London: Aurum Press, 1994/邦訳:晶文社, 1997)The Making of Stanley Kubrick's 2001: A Space Odyssey (Cologne: Taschen, 2014)以下の注は、大半が直接の引用を典拠としている。さまざまな推論は、当該ページにおいて引用符の 4 に提起されており、したがって個々にあげられた出典とはかならずしもリンクしていない。とはいえ、 この場合、引用の不在を不在の証拠として受けとってはならない。引用符で囲まれていない事実や所見 は、わたし自身が行ったインタビューを含め、ここにおさめられた出典にわたし自身がそのつど当たっ て引きだしたものである。執筆しながら、さまざまな推論と意見に関して、一種の自問自答を定期的に 行ったといえば足りるだろう。その狙いは、一次資料(2000年代初頭、三度にわたりアーサー・C・ク ラーク本人を訪ね、長々と話し合ったことを含め)だけではなく、『2001年宇宙の旅』でじっさいにキ ューブリックやクラークと仕事をした人々の多くを相手にさいわいにしてつづいている──ときには活 発につづく、つまり何週間にもわたる執筆のあいだ、毎日のようにたくさんのeメールが飛び交ったの だ──やりとりにも当たって、それらを引きだす努力を怠らないことにあった。 1964年と1968年のあいだにニューヨークと、ロンドン北方、ボアハムウッドにあったMGMの英国ス

Odyssey原注 CC2018...ブラモフによる1970年のインタビュー、Andrei Tarkovsky: Interviews (Jackson: University Press of Mississippi, 2006)に収録、36頁。35 「心を鬼にして大なたをふるう」:レイ・ブラッドベリ、アーサー・C・クラーク宛1968

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    原 注

     本書のためのリサーチにさいしては、さまざまな一次資料を広範に当たるよう心がけた。もっとも重要な一次資料は、ヴァージニア州チャンティリーにあるスミソニアン国立航空宇宙博物館のスティーヴン・F・ウドヴァー=ヘイジー・センター所蔵のアーサー・C・クラーク文書、並びにロンドン芸術大学のスタンリー・キューブリック・アーカイヴの無尽蔵とも思える収蔵品である。その他の一次資料としては、以下のものが含まれる。まずは『2001年』の研究者デイヴ・ラースンの膨大な個人的保管文書。これにはフレデリック・オードウェイ、ダグ・トランブル、スチュアート・フリードマンをはじめとする重要人物からの、かけがえのない個人的な文書等の素材が含まれる。そしてデイヴ、シネフェックス誌のドン・シェイ、ダン・リクター(〈月を見るもの〉)、クラークの伝記作家ニール・マカリアーが親切にも提供してくれた、価値の測り知れないオリジナルで未編集のインタビュー素材。さらにいえば、スリランカ在住のイギリス人ジャーナリスト、リチャード・ボイルの個人的な保管文書のおかげで、50年代と60年代を通じてクラークのパートナーだったマイク・ウィルスンと作家の関係について理解を深めることができた。 クラークとキューブリックに関する膨大な保管文書をデイヴ・ラースンとリチャード・ボイルの所蔵品で補完したおかげで、わたしは「大総合年表」という大げさな題名のついた、シングル・スペース313ページにおよぶ文書をまとめることができた。これには主要人物のあいだで交わされた、さまざまな書簡、電信、テレックス、電報からの引用がぎっしりと詰まっている。多くの点で、それは本書の背骨となってくれた。ここに提起された推論の大部分の論拠となってくれたのはまちがいない。 察しがつくかもしれないが、『2001年宇宙の旅』は長年にわたり多くの注目を浴びてきたので、おびただしい数の二次資料も折に触れて参照し、引用した。特筆に値するのは以下のとおり。クラーク自身の『失われた宇宙の旅2001』((New York: Signet, 1972/邦訳:ハヤカワ文庫SF,2000)、ジェローム・アジェルのかけがえのない、図版豊富な『メイキング・オブ・2001年宇宙の旅』(New York: Sigent, 1970/邦訳:ソニーマガジンズ,1998)、ダン・リクターの好著Moonwatcher's Memoir:A Diary of 2001:A Space Odyssey (New York, Carroll & Graf, 2002)、ヴィンセント・ロブロットの明快な『映画監督スタンリー・キューブリック』(New York: Donald I. Fine Books, 1997/邦訳:晶文社, 2004)、ニール・マカリアーの詳細かつ配慮の行き届いた伝記 Visionary: The Odyssey of Sir Arthur C. Clarke (Baltimore: Clarke Project, 2010)、その旧版 Arthur C. Clarke: The Authorized Biography (Chicago: Contemporary Books, 1992)、クラーク本人のキャリアを総括した555ページのエッセイ傑作選 Greetings, Carbon-Based Bipeds! (London: Voyager, an imprint of HarperCollins,1999)、そして最後に、美しい図版に彩られた、入念な調査の産物である、この主題に関するピアース・ビゾニーの二冊の大冊、『未来映画術「2001年宇宙の旅」』(London: Aurum Press, 1994/邦訳:晶文社, 1997)とThe Making of Stanley Kubrick's 2001: A Space Odyssey (Cologne: Taschen, 2014)。 以下の注は、大半が直接の引用を典拠としている。さまざまな推論は、当該ページにおいて引用符の外4

    に提起されており、したがって個々にあげられた出典とはかならずしもリンクしていない。とはいえ、この場合、引用の不在を不在の証拠として受けとってはならない。引用符で囲まれていない事実や所見は、わたし自身が行ったインタビューを含め、ここにおさめられた出典にわたし自身がそのつど当たって引きだしたものである。執筆しながら、さまざまな推論と意見に関して、一種の自問自答を定期的に行ったといえば足りるだろう。その狙いは、一次資料(2000年代初頭、三度にわたりアーサー・C・クラーク本人を訪ね、長々と話し合ったことを含め)だけではなく、『2001年宇宙の旅』でじっさいにキューブリックやクラークと仕事をした人々の多くを相手にさいわいにしてつづいている──ときには活発につづく、つまり何週間にもわたる執筆のあいだ、毎日のようにたくさんのeメールが飛び交ったのだ──やりとりにも当たって、それらを引きだす努力を怠らないことにあった。 1964年と1968年のあいだにニューヨークと、ロンドン北方、ボアハムウッドにあったMGMの英国ス

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    タジオで起きた出来事に関するわたしの解釈に賛同するにしろ異を唱えるにしろ、その映画でじっさいに仕事をした者に勝る立場にある者は、いまこの世にはいないと思われるかもしれない。これはおおむね真実だが、例外がひとりいる。このプロジェクトのコンサルタント、デイヴ・ラースンだ。執筆の過程を通じて価値の計り知れないリアリティ・チェック役を果たしてくれたことを別にしても、親切にも原稿を最後まで読み、事実や解釈の誤りを探すことに同意してくれた。そうはいっても、本書に誤りがあれば、もちろんわたしの誤りであり、わたしひとりの誤りである。 

    第1章 プロローグ──オデッセイ

    27 人生が無意味:エリック・ノーデン、“Playboy Interview: Stanley Kubrick”、プレイボーイ、1968年9月号、195頁。

    30 「出立─イニシエーション─帰還」……「単モ一ノ神ミ話スの中核単位と名づけてもよい」:ジョゼフ・キ

    ャンベル、『千の顔をもつ英雄』(Princeton、NJ: Princeton University Press, 1949/邦訳:ハヤカワ文庫NF,2015,他)、原書30頁。

    30 ジョイスから借用した用語:ジェイムズ・ジョイス、『フィネガンズ・ウェイク』(New York: Viking Press, 1939/邦訳:河出文庫,2004,他)、原書581頁。

    30 「サルから天使」:A・H・ウェイラー、“Kazan, Kubrick and Keaton”ニューヨーク・タイムズ、1968年4月28日。「サルから天使」という表現がロバート・アードリーに由来することはまちがいない。アードリーは『アフリカ創世記』(New York: Dell, 1961/邦訳:筑摩書房,1973)、原書354頁で同様の言葉遣いをしている。

    33 〝NASA東イ ー ス ト支部 〝 :フレデリック・I・オードウェイ三世&ロバート・ゴドウィン、2001: The

    Heritage and Legacy of the Space Odyssey (Burlington, Ontario: Apogee Prime, 2015)、35頁。33 クラークが一九四五年に……発表した論文:アーサー・C・クラーク、“Extra-Terrestrial Relays:

    Can Rocket Stations Give World-wide Radio Coverage? ”、ワイアレス・ワールド、1945年10月号。34 「地球は人間のゆりかご」:コンスタンティン・ツィオルコフスキー、Vestnik vozdukhoplavaniia (航空学ジャーナル)、1911-12年。

    35 「多くの点でまがいもの」……「映画の感情的基礎」:アンドレイ・タルコフスキー、ナウム・アブラモフによる1970年のインタビュー、Andrei Tarkovsky: Interviews (Jackson: University Press of Mississippi, 2006)に収録、36頁。

    35 「心を鬼にして大なたをふるう」:レイ・ブラッドベリ、アーサー・C・クラーク宛1968年6月3日付に記された本人の評言を引用。

    35 「目を皿のようにして注意を払う」:ジェローム・アジェル編『メイキング・オブ・2001年宇宙の旅』(New York: Sigent, 1970)、原書7頁。

    38 あちらに知的生命がいるもっとも確実な証拠:アーサー・C・クラーク、著者によるインタビュー、2001年12月19日。

    38 「これを最後に、大型宇宙映画は」:クラーク、ジョゼフ・C・ジェルミスによるインタビュー、CBS-TV、カメラ・スリー、1969年1月3日。Creative Arts Television、www. dailymotion.com/video/x3ilajz で視聴可能。

    40 「だれが書いたと思う4 4

    んだね?」:クラーク、著者によるインタビュー、2001年12月19日。

    第2章 未来論者

    43 専門家ひとりにつき、同等の力をそなえている立場が逆の専門家がひとりいるものだ:アーサー・C・クラーク、『未来のプロフィル』(London: Victor Gollancz, 1999/邦訳:ハヤカワ文庫NF,1980,他)、原書143頁。

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    原 注

    44 身勝手きわまりなく、言語道断だという……ハーシェルにはまだアーサー・クラークの度量が欠けている:ハリー・ペレイラからアーサー・C・クラークへ、1964年4月4日。

    46 はいってきたアシスタントのポーリーンに向きなおった:1960年代なかば、コロンボでクラークの秘書を務めていたのはポーリーン・デ・シルヴァだった。ロアン・デ・シルヴァから著者へのeメール、2017年10月20日。

    46 彼女の弁護士は……ニューヨークの裁判所に彼を訴えていた:クラークからレン・J・カーターへ、1964年3月26日。

    47 「ボートの建造……にまつわる話で」:クラークからR・レイヴン=ハート少佐へ、1964年2月18日。

    48 クラークに譲歩を迫っていた:クラークからスコット・メレディスへ、1964年4月8日。48 そのほとんどは……注ぎこんでいると説明しても無駄だった:マイク・ウィルスンのプロジェクトとライフスタイルにクラークが資金を出していたことは、多数の手紙に書き記されている。その一例がクラークからウィルスンに宛てた1971年2月27日付である。

    49 「これらの変パラメータ数は、わずかに知られるのみである」:カール・セーガン、“Direct Contact Among

    Galactic Civilizations by Relativistic Intersteller Spaceflight”、プラネタリー・アンド・スペース・サイエンス、第11巻第5号(1963年5月)。

    49 ちなみに、セーガンはその会合に出席していた:リー・ビリングズ, “The Alien-Life Summit”、スレート、2013年9月27日、www.slate.com/articles/technology/future_tense/2013/09/green_bank_conference_seti_frank_drake_s_equation_for_estimating_the_extraterrestrial/html。

    50 「電磁波によるコミュニケーションでは……成り立たない」:セーガン、“Direct Contact Among Galactic Civilizations”。

    50 可能性がないわけではない:同上。51 あなたの示唆には、とりわけ興味を惹かれました:クラークからカール・セーガンへ、1963年11月

    12日。52 「現在の仕事の線に向かう刺激を」:セーガンからクラークへ、1963年12月2日。52 「隠者」:ロジャー・キャラスからクラークへ、1964年2月17日。52 ゲイ、バイセクシュアル、ストレート、アングロサクソン、アジア人のグループ:クラークはゲイだった。ただし、公表はしなかったが。ジェレミー・バーンスタイン、著者によるインタビュー、2016年9月17日。クリスティアーヌ・キューブリック、著者によるインタビュー、2016年9月26日。

    53 「恐ア ン フ ァ ン ・ テ リ ブ ルるべき子供との仕事には興味津々」:ステファニー・シュワム&マーティン・スコセッシ編、

    The Making of 2001: A Space Odyssey (New York: Modern Library, 2000)、15頁。53 「今日スタンリー・キューブリックと話をした」……逃れられると主張するきみだから:キャラスからクラークへ、1964年2月17日。

    53 口汚い、 性根の腐った自己中心主義者: トマス・ フラナガン、“Ray Bradbury's Fearsome Encounter with Film Director John Huston”シカゴ・トリビューン、1991年5月31日号。

    54 「あいかわらず……もっとも成功した作家だ」:クラークからサム・ヨウドへ、1963年10月24日。54 手堅い仕事をした:ハワード・コッチからクラークへ、1958年8月1日。クラークからコッチ宛、

    1958年8月13日付。コッチからクラーク宛、1961年2月2日付。クラークからコッチ宛、1961年3月6日付。コッチからクラーク宛、1967年9月21日付。

    54 『博士の異常な愛情』は、ひとことでいって傑作だ:ヴァル・クリーヴァーからクラークへ、1964年2月12日。

    55 「キューブリックは、まちがいなく驚くべき男のようだ」……「検閲を通過し」:クラークからキャラスへ、1964年2月22日。

    55 「結婚にまつわるトラブル」……「まず申しあげておきますが」……「ポリオ……で完全に無能力になる」……いつ飛びこんできても不思議はありません:クラークからロバート・ルビンジャーへ、1964年2月26日、および1964年3月11日。

    57 百万を超える観客を動員した:ナラカ・グナワルデネ、“From Great Basses Reef to Ran Muthu

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    Duwa”、セイロン・トゥデイ、2012年8月12日。57 マイクが「リラックス」するため早めにセットをあとにした……「彼はこんな風に書きはじめるんだ」:ティッサ・リヤナスリヤ、著者によるインタビュー、2017年2月24日。

    59 「語り草になるような、いいSF映画を作る可能性」:スタンリー・キューブリックからクラークへ、1964年3月31日。

    60 「わたしはこの地で大きな会社を経営しており」……あなたのお手紙の本筋について申せば……「わたしたちの会社がこの地にあり」:クラークからキューブリックへ、1964年4月8日。

    62 地球のあらゆる宗教のなかで、すくなくとも仏教とヒンドゥー教は:クラークとの数度にわたる議論から、2001年から08年にかけて。

    62 マイクと妻のリズ:マイク・ウィルスン──サタジット・レイからアンドリュー・ロビンスンへの1984年11月2日付の手紙のなかで「クラークのボーイフレンド」と記されている──は、1950年から70年にかけてクラークの相棒にして被保護者だった。彼がバイセクシュアルであることは明白であり、クラークからサム・ヨウド宛1958年10月21日付によれば、1958年にエリザベス・ペリエラと結婚した。

    63 オープニング。スクリーンいっぱいの星々……サウンドトラックが、ある探検隊を選びだす……「すばらしいオープニングを考えつきました」:クラークからキューブリックへ、1964年4月9日。

    第3章 監督

    65 代金を払ったものが手にはいるとはかぎらない:アンソニー・フリューイン、「スタンリー議長の格言、座右の銘、警句」、フリューインから著者に宛てた2016年9月22日付のeメールで送られた日付のない覚え書き集。

    65 その名前は監督にとって魅惑の源泉だった:1990年代の初頭、キューブリックのアシスタントだったアンソニー・フリューインはその題名について尋ね、そもそものはじまりは「ラヴジョイ」という言葉を監督がアナグラム的にもてあそんだことであり、キューブリックが「そういう風変わりな英語の名前に魅惑されている」ことを確認した。アンソニー・フリューインから著者へのeメール、2017年7月24日。

    66 「試写を考慮されておられるなら」:レイ・ラヴジョイからシネラマ社の「ミスター・フェンスン」へ、1964年4月13日。

    67 質問に答えるなら:「オランダの雑誌のためのメモ」、1964年4月13日ごろ(日付はないが、ロンドン芸術大学〔以下UALと略す〕のキューブリック・アーカイヴでは、その日付のあるほかの文書に囲まれている)。雑誌名は不明。

    68 「長ければ長いほど」……「艦見ゆ艦沈む」:フリューイン、「スタンリー議長」。68 十一通の手紙を書いた……一週間後の四月六日:すべての書簡は、UALのキューブリック・アーカイヴに保管されている。

    69 その年の興行収入第二位の映画:ヴィンセント・ロブロット、『映画監督スタンリー・キューブリック』(New York: Donald I. Fine Books, 1997)、原書244頁。

    69 仕切り魔:キャラスからスタンリー・キューブリックへ、1966年11月3日。69 キューブリックは……フォーブスが……自作を称賛してくれることを喜んでいた……「緑のこびとが出てくるもの」:クリスティアーヌ・キューブリック、著者によるインタビュー、2016年10月22日。

    70 「おいおい、スタンリー、噓だろう!」……「そんな恰好で歩きまわっちゃいけないよ」……「きっとイギリス流なんだよ」……「いいえ、スタンリー」……のちに、彼女はフォーブスとの仲たがいを:クリスティアーヌ・キューブリック、著者によるインタビュー、2016年6月5日。

    71 それは人間を寒さに対して鈍感にする:「太陽面の影」に関する情報は、BBCのラジオ・タイムス、1979号、1961年10月12日、ジョン・ロンスン、“Citizen Kubrick”、ガーディアン、2004年3月27日より引いた。

    71 よい本は悪い映画になる:フリューイン、「スタンリー議長」。

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    原 注

    72 「不気味な、頭がたくさんある」:『博士の異常な愛情』の脚本、1963年3月31日付。UALのキューブリック・アーカイヴ。

    73 「わたしは嫌でたまらなかった」:クリスティアーヌ・キューブリック、著者によるインタビュー、2016年9月22日。

    73 ショウもまたSFファンであることが判明した……「クズとみなされない最初のSF映画」……ショウはアーサー・C・クラークを読むように勧めた:クリスティアーヌ・キューブリック、著者によるインタビュー、2016年6月5日。ショウがクラークを勧めたことは、クラークがライフ誌に寄せたが未発表に終わった草稿“Son of Dr. Strangelove”のためにクラークが用意した時系列メモ(1966年9月22日付)が、さらに裏付けてくれる。ヴァージニア州、チャンティリー、スミソニアン国立航空宇宙博物館、スティーヴン・F・ウドヴァー=ヘイジー・センターのサー・アーサー・C・クラーク文書。

    73 「ぜひこいつを読んでくれ」……「わたしたちは交代に起きていなくてはならなかった」:クリスティアーヌ・キューブリック、著者によるインタビュー、2016年6月5日。

    74 「心の底では、スタンリーは田舎者だった」……「きっと笑われる」……『映画を作りたい』:キャラス、ダン・リクターによるインタビュー、1999年9月7日。

    75 「すばらしい。じつは」:キャラス、ニール・マカリアーによるインタビュー、1989年9月19日と10月21日。

    75 「なんでひととおり読むんだ?」……『なるほど、でも、たしか頭のおかしいやつだろう』……『じつはちがうんだ、彼はセイロンに住んでいる』:キャラス、リクターによるインタビュー、1999年9月7日。

    76 「いやはや、連絡をとってもらえないか?」:キャラス、マカリアーによるインタビュー、1989年9月19日と10月21日。

    76 フライトは数時間ではなく二日遅れたのだった:クラークからメレディスへ、1964年4月11日。77 「その印象的な技術的名人芸」:アーサー・C・クラーク、“Son of Dr. Strangelove”、未発表の草稿、1967年1月23日。

    77 そこで……常連客たちとつき合った:ニール・マカリアー、Visionary: The Odyssey of Sir Arthur C. Clarke (Baltimore: Clarke Project, 2010)、143頁。

    77 「三十二階にあるすてきなオフィス」:クラークからヨウドへ、1964年6月19日。77 「ニューヨークへ帰ってくると、 なんだか不思議な気分になる」: クラーク、“Son of Dr.

    Strangelove”。78 キューブリックは時間どおりに到着し:ロブロット、『映画監督スタンリー・キューブリック』、原書261頁。

    78 「かなり物静かで、平均的な身長のニューヨーカー」:クラーク、“Son of Dr. Strangelove”。78 「なんとなくボヘミアンな外見」:ジェレミー・バーンスタイン、“How About a Little Game”、ニューヨーカー、1966年11月12日号。

    78 「純粋な知性」……「キューブリックは新しい考えをたちまち理解する」……「ヴェルナーに伝えてください」:クラーク、“Son of Dr. Strangelove”。

    78 「わたしは伝えなかった。なぜなら(a)その言葉を信じなかったから」アーサー・C・クラーク、『楽園の日々──アーサー・C・クラークの回想』 (New York: Bantam Books, 1989)、原書183頁。

    79 キャラスの言葉を借りれば、ふたりは「非イン・カメラ公開」だった:キャラス、マカリアーによるインタビュ

    ー。79 「スタンリーにはものすごい集中力があったの」:クリスティアーヌ・キューブリック、著者によるインタビュー、2016年6月5日。

    80 「少々悔しいことながら」 ……「これはちょっと狭量だし」: クラーク、“Son of Dr. Strangelove”。

    81 「スタンリーははじめから」……はじめてスタンリーに会ったとき:アーサー・C・クラーク、『失われた宇宙の旅2001』(New York: Signet, 1972)、原書29頁。

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    81 八時間も話をつづけ :クラーク、“Son of Dr. Strangelove”。81 「ひょっとしたら、あれほど知的な人物には」:Stanley Kubrick: A Life in Pictures、ヤン・ハーラン監督のドキュメンタリー映画 (Burbank, CA: Warner Bros. Home Video, 2001)。

    82 屋上に設けられた焼却炉の煙突:ピアース・ビゾニー、The Making of Stanley Kubrick's 2001: A Space Odyssey (Cologne, Germany: Taschen, 2014)、17頁に基づく情景。

    82 キューブリックの書斎は……足の踏み場もなく:ジェレミー・バーンスタイン“How About a Little Game”に基づく記述。

    82 「ハイファイ機器……に夢中なのは」:ジェレミー・バーンスタインがニューヨーカー誌1966年11月12日号に発表した記事“How About a Little Game”の注釈つきバージョンの草稿にキューブリックが付した欄外のメモより。2016年9月8日にバーンスタインから著者へ送られた。

    83 「スタンリーと打ち合わせをするたびに」:アジェル編、『メイキング・オブ・2001年宇宙の旅』、原書136頁。

    83 「わたしはあっさりと折れたりはしない」:アーサー・C・クラーク、マカリアーによるインタビュー、1989年11月25日。

    84 「アーサーはなんでも知っている大おじみたいに話をするのが大好きだった」:クリスティアーヌ・キューブリック、著者によるインタビュー、2016年6月5日。

    85 「昼間はタイム・ライフ社で仕事をして」:ジェレミー・バーンスタイン、“Out of the Ego Chamber”、ニューヨーカー、1969年8月9日号。

    86 身悶えしながらこう叫んだ。「ぼくになにをしようっていうんだ?」:クラーク、“Son of Dr. Strangelove”。

    86 「せっせと剽窃している」……「あいかわらず時間があくたびにスタンリー・Kと過ごして」:クラークからマイク・ウィルスンへ、1964年5月14日。

    86 「非常に優れたプロットは、ささやかな奇跡です」……最初の穴居人が焚き火を囲んですわっているとしましょう……「映画という形式……のおかげで」:ヘラーとキューブリックの対話の書き起こし、1964年5月14日、UALのキューブリック・アーカイヴ。

    88 「レストランとオートマット」:アーサー・C・クラーク、Repor t on Planet Three and Other Speculations (London: Corgi Books, 1973)、247頁。

    88 その件をかなり長く話し合ったことがあり:ロブロット、『映画監督スタンリー・キューブリック』、原書289頁。

    88 クラークも同意した:アーサー・C・クラーク、“Rocket to the Renaissance”、イアン・T・マコーリー編 Greetings, Carbon-Based Bipeds!, Collected Essays, 1934-1988、(New York: St. Martin's Press, 1999)、211頁。

    88 しかし、彼の見解では……惑星間旅行だけなのだ:同上、37頁。89 「わたしたちの頭にあったのは……セミドキュメンタリーのようなものだった」:クラーク、“Son of Dr. Strangelove”。

    89 「いまだに海の生きものであると考えずにはいられない」:クラーク“Rocket to the Renaissance” 216頁。

    89 「人間が道具を発明したという古い考え」:同上、218頁。90 「言葉の霧から」:クラーク、“Son of Dr. Strangelove”。91 「生きている生物の小宇宙」: アーサー・ C・ クラーク、「未踏のエデン」、The Collected

    Stories(London: Victor Gollancz, 2001)所収。91 話を始める前に、ひとつ指摘しておきたいことがあるんですよ:アーサー・C・クラーク「ゆりかごから」、デュード、1959年3月号。

    92 「地球は人間のゆりかご」:ツィオルコフスキー、Vestnik vozdukhoplavaniia。92 いま信号が止んだからには:「前哨」、アジェル編、『メイキング・オブ・2001年宇宙の旅』、原書

    15-23頁。93 「夜明けを待っている未開のいとこたち」……「上昇する長い光のすじ」……「これから一千世紀

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    原 注

    以上の時を隔てて」:アーサー・C・クラーク、「夜明けの出会い」、初出アメージング・ストーリーズ、1953年6-7月合併号。

    94 「そんなばかな」 ……「偶然の一致にしてはできすぎている」: クラーク、“Son of Dr. Strangelove”。

    95 はじめから終わりまで、十分以上はつづかなかった:スタンリー・キューブリックからアメリカ空軍ジャックス大佐へ、1964年6月17日。

    95 「いちばんの見ものだった」……「こうしてスタンリーは、はじめて人工衛星を目撃し」……「これが〈タイムズ〉に記載されていなかったことだけだ」:クラーク、“Son of Dr. Strangelove”。

    97 クラークはそうした交渉に深入りするのを好まず:クラークからコッチへ、1961年2月26日、並びにクラークが2002年に著者に語った言葉が根拠となる。

    97 彼らが最終的に交わした契約には……含まれていた:契約の詳細は、スミソニアン博物館のクラーク文書に保管された写しより、1964年5月28日付。クラークと、ポラリス・プロダクションズの社長ルイス・ブラウの署名がある。

    98 MGMのような主要映画会社には融通に欠ける基本原則があり:コッチからクラークへ、1961年2月26日。

    98 「交渉は複雑で」……「スタンは火の玉だ」……「もしこの取り引きが彼女に知れたら」……きみにもわたしと同じくらい……わかるだろう……「そのうち金をいくらか送れるようにする」:クラークからウィルスンへ、1964年5月22日。

    第4章 プリプロダクション──ニューヨーク

    101 情報はいくらあってもかまわないし:フリューイン、「スタンリー議長」。101 「スタンは魅力的な人物だ」:クラークからヨウドへ、1964年6月19日。101 「子供が小さいうちは」:クリスティアーヌ・キューブリック、著者によるインタビュー、2016年6月5日。

    102 ふたりが立てたスケジュールは……「こっけいなくらい楽天的」:クラーク、『失われた宇宙の旅2001』、原書32頁。

    102 昼近くにオフィスへ行く途中……「スタンにわたしを推して」: クラーク、“Son of Dr. Strangelove”のための時系列メモ。

    103 一日約千語:クラーク、『失われた宇宙の旅2001』、原書33頁。103 「腰を落ちつけて脚本を書くんじゃない」:クラーク、ジェルミスによるインタビュー、カメラ・スリー。

    103 「長篇小説を書くのは、大海を泳ぎわたるのに似ている」:クラーク、『失われた宇宙の旅2001』、原書31頁。

    103 脚本の形でオリジナル・ストーリーを書こうとするのは:ザ・ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙のインタビューを校正したスタンリー・キューブリックのメモから、1965年11月23日、UALのキューブリック・アーカイヴ。

    104 「至難の業です」:クラークからJ・B・S・ホールデンへ、1964年5月23日。104 「もしかしたら機械であって、彼らの目に有機生命は」……「爆笑のアイディアが出てきたが、使う気はない」:クラーク、『失われた宇宙の旅2001』、原書32-33頁。

    105 「自然は、永遠という期間のなかでしばしばそうするように」:クラーク、「夜明けの出会い」。106 「人間の進化史における」……「進歩した地球外生命をはっきりと描写すれば」……「ところで、映画の題名は」……「かなり重要なプロット・ライン」:カール・セーガン、ジェローム・アジェル編、『宇宙との連帯──異星人的文明論』(New York: Doubleday, 1973/邦訳:河出文庫,1982)、原書183頁。

    107 「あいつはもう呼ばないでくれ」:クラーク、著者によるインタビュー、2001年12月19日。アー

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    サー・C・クラーク、イエルヴァント・テルジアン&エリザベス・バイルスン編Carl Sagan's Universe に対する書評、タイムズ高等教育別冊、1997年12月12日号。

    107 「キューブリックはすばらしいのひとことです」:クラークからホールデンへ、1964年5月23日。108 このとき、燃料補給のために食べるのは、クラッカーにレバー・パテを塗ったものだった:ピーター・アーサーズ、マカリアーによるインタビュー、1989年5月27日。

    108 「あとで捨てる素材に対するスタンの熱狂にnb」:クラーク、“Son of Dr. Strangelove”のための時系列メモ。

    108 「冒頭の章……を書きおえ」:クラーク、『失われた宇宙の旅2001』、原書32-33頁。108 「時のあけぼのより」同上、原書13頁。109 「おおよそ人間の背丈や体つき」……「ことばは彼自身が生成」:没になった小説の草稿、「ヒトとロボット」の部、日付なし、スミソニアン博物館のクラーク文書。

    110 「これはまちがいなくベストセラーだな」……「彼は夢中だ」……「縫い目のところから裂けている」:クラーク、『失われた宇宙の旅2001』、原書33頁。

    110 「われらがヒーローの名前もとうとう決まった──D・ B」: クラーク、“Son of Dr. Strangelove”のための時系列メモ。

    110 「文字どおり何カ月もあとだった」:クラーク、ジェルミスによるインタビュー、カメラ・スリー。

    110 「オデュッセウスの旅との相似は」:クラーク、“The Myth of 2001”Report on Planet Three 所収、253頁。

    111 「ワシントン=ニューヨーク大複合体」……「自動ハイウェイ」:没になった小説の草稿、「地球よ、さらば」の部、日付なし、スミソニアン博物館のクラーク文書。

    111 「われわれに必要なのは」:クラーク、『失われた宇宙の旅2001』、原書33頁。112 この時期を通じて……「これは尊大に聞こえるし」……ときには、自分たちがとり組んでいるものに……「またしても、創作をしているのはあなただと匂わせている」:クラーク、“Son of Dr. Strangelove”。

    113 「一年近くを費やした」:ホリス・アルパート、“Offbeat Director in Outer Space”、ニューヨーク・タイムズ、1966年1月16日。

    113 「万事絶好調だぞ」……「ロボットの自分が分解修理されている」……「ジョー・レヴィンは、自分のとこの脚本家に」……「俳優がたくさんまわりに立っている」:クラーク、『失われた宇宙の旅2001』、原書34頁。

    113 アカデミー賞候補となったすばらしいモノクロ短篇映画だった:『宇宙』(1960)はYouTube、あるいはより高画質のインターネット・アーカイヴ https://archive.org/details/TheUniverseNationalFilmBoardOfCanadaでオンライン視聴可能。

    114 「サルからヒトへの捕食性移行」:レイモンド・ダート、国際人類学および言語学レヴュー第1巻第4号(1953)。

    114 「啓発的な一節」:クラーク、『失われた宇宙の旅2001』、原書34頁。115 そしてふたりは仮題をまたしても変えた:クラーク、“Son of Dr. Strangelove”のための時系列メモ。

    115 われわれは……成りあがったサルに生まれつき:アードリー、『アフリカ創世記』、原書354頁。115 「英雄は日常の世界から

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    」……「ぶつかり合う岩場」……「奪いかえす力」:キャンベル『千の顔をもつ英雄』、原書30頁。クラークからパーディ(ファースト・ネームは不詳)へ、1968年9月9日付も参照のこと。

    116 「結晶の厚板」……「詮索好きな巻きひげ」:没になった小説の草稿、「人類の夜明け」の部、日付なし、スミソニアン博物館のクラーク文書。

    117 「驚センス・オブ・ワンダー異の感覚」……「荒々しい空へ」……「焼け焦げた死骸」……「ノヴァ──あらゆる恒星

    が」……「輝かしい顕現」……「あかあかと燃える石炭と温度にたいして差はない」:同上。118 「回転する光輪は」:クラーク、『失われた宇宙の旅2001』、原書238頁。

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    原 注

    118 「この海がまた何とも異様」:同上、原書200頁。118 「避難所を見つけてほっとする」:同上、原書225頁。118 「現実とは思えないような出来事」:同上、原書217頁。118 「スタンリー・キューブリックとわたしは」:同上、原書199頁。119 「スタンリーのアイディア。“キャンプ” なロボットたち」: クラーク、“Son of Dr.

    Strangelove”のための時系列メモ。119 「スタンリーのとんでもないアイディア」:クラーク、『失われた宇宙の旅2001』、原書34頁。119 「スタン、きみに知ってもらいたいことがある」……「ああ、知ってたよ」……「教師のような」……「彼はすごく喜んでいた」:クリスティアーヌ・キューブリック、著者によるインタビュー、2016年6月5日と2016年10月22日。

    120 「スタンリーは……異を唱え」:クラーク、『失われた宇宙の旅2001』、33頁。121 〝怠け者のパスポート“ ……「質問しつづけろ」:フリューイン、「スタンリー議長」。121 「彼は善人になりたがって

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    いた」: クリスティアーヌ・キューブリック、チャーリー・ローズによるインタビュー、チャーリー・ローズ、PBS、2001年6月15日。

    122 かつてその国のボクシング・フライ級チャンピオンだった男だ:エカナヤケは1956年にセイロン史上最年少のボクシング・フライ級チャンピオンとなった。ロアン・デ・シルヴァから著者へのeメール、2017年10月20日。

    122 入院するはめになった:リヤナスリヤ、著者によるインタビュー。123 エカナヤケは猛然とツリーに襲いかかった:クリスティアーヌ・キューブリック、著者によるインタビュー、2016年10月22日。

    123 「インスピレーションがわくかも知れず」:クラーク、『失われた宇宙の旅2001』、原書35頁。123 「われわれはSFの領域を広げた」:ロブロット、『映画監督スタンリー・キューブリック』、原書268頁。

    123 「じっさい、われわれは」:クラーク、『失われた宇宙の旅2001』、原書35頁。124 「完成した原稿を届け」:クラーク、“Son of Dr. Strangelove”のための時系列メモ。124 「小説の初稿は」 ……「誤解の元……だれにもわからない」: クラーク、“Son of Dr.

    Strangelove”。125 小さな映画視覚効果会社:「コン・ペダーソンとの対話」、ウィリアム・モリッツによるインタビュー、アニメーション・ワールド・マガジン、4.3号(1999年6月)。

    125 早回しのカメラ:このプロセスの記述は、一部ジョン・オルコットによっている。ドン・シェイがシネフェックス誌1984年6月号のために行ったインタビューの書き起こしの未発表部分。

    126 「真に大激変的なものの多くは」:ウォーリー・ジェントルマン、ドン・シェイによるインタビューの書き起こし、1979年5月3日。

    126 「口に出せないほど厭わしい」……「わたしたち凡人とスタンリーとのちがいは」:クリスティアーヌ・キューブリック、著者によるインタビュー、2016年1月15日。

    127 多数の記事と著書を発表しており:クリストファー・フレイリング、The 2001 File: Harry Lange and the Design of the Landmark Science Fiction Film (London: Reel Art Press, 2015)、22頁。

    128 「たまたまわれわれも……出したばかりなんです」……「なんたる奇遇だ」:同上。ハリー・ラング、デイヴ・ラースンによるインタビュー、2002年9月25日。

    129 「アーサーは出ていき」……「胸が躍るような」……「首まで浸かっていた」:フレデリック・オードウェイ、ラースンによるインタビュー、2003年8月14日。

    130 「ハリー、きみの仕事が金を稼ぐ」……「なるほど、きみより上手いイラストレーターは手にはいる」……「ええ、そのとおりです。たっぷりと見てきました」:ラング、ラースンによるインタビュー。

    131 「返却までの締め切りは三日だった」:ロブロット、『映画監督スタンリー・キューブリック』、原書268-69頁。

    131 美しいが、高度に実験的な映画版抽象画がついている:クラークはこれについて触れていないが、

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    ウォーリー・ジェントルマンの証言によれば、キューブリックのマンハッタン計画のフッテージは、文章の素材とともにMGMに提示された。ジェントルマン、シェイによるインタビュー。コン・ペダーソンも同様の証言をしている。アラディノ・デバート、“2001: A Space Odyssey-A Discussion with Con Pederson,”、ヴィジュアル・エフェクツ・ヘッドクォーターズ、最終更新1998年4-5月。www.vfxhq.com/spotlight98/9840c.html。

    132 陰口のコーラスは高まるばかりだった:同上。132 五〇年代の末までには百五十本を超える作品が公開されていた:ブラッドリー・シャウアー、

    Escape Velocity: American Science Fiction Film, 1950-1982(Middletown, CT: Wesleyan University Press, 2017)、11-12頁。パトリック・ルキャニオ、Them or Us: Archetyapal Interpretations of Fifties Alien Invasion Films (Bloomington: Indiana University Press, 1987)も参照のこと。

    133 キューブリックとクラークにとって:これに関する出典はいくつかある。たとえばフレイリング2001 File:Harry Lange、29頁。

    133 「キューブリックとアパートメントをはじめて目にしたとき」:ジェレミー・バーンスタイン、“Memories of Stanley Kubrick”、スクリブド、https://www.scribd.com/document/220043494/Memories-of Stanley-Kubrick-By-J-bernstein。

    133 現存する『星のかなたへの旅』の……表紙:UALのキューブリック・アーカイヴ。その表紙の件は、モリッツによるペダーソンのインタビューでも言及されている。

    134 「とりあえず『2001年宇宙の旅』という仮題のついている映画」:1月14日という日付は、マカリアーVisionary 142頁の記述による。

    135 「彼はとても用心深く取り引きをした」:クリスティアーヌ・キューブリック、著者によるインタビュー、2016年10月22日。

    135 契約には……注記があり:契約に関するすべての情報は、キューブリックの書きこみのある1965年5月22日付MGMの契約書草案から。

    138 「見る目がないとは思われたくないのですが」:スタンリー・キューブリックからロバート・ショウへ、1965年2月17日、www.telegraph.co.uk/culture/film/3555933/The-letters-of-Stanley-Kubrick.html。

    139 オフィスへ行く:クラーク、『失われた宇宙の旅2001』、原書37頁。139 「彼はニューヨークの変人だった」:オードウェイ、ラースンによるインタビュー。140 「じつに有意義な時間だった」……「すこし陳腐だった」:レスター・ノヴロス、ドン・シェイがシネフェックス誌のために行ったインタビューの書き起こし、1984年8月18日。

    140 それは興味深いか:ペダーソン、デバートによるインタビュー、ヴィジュアル・エフェクツ・ヘッドクォーターズ、1998年4月、www.vfxhq.com/spotlight98/9804c.html。

    141 「彼はその件では口数がすくなかった」:ノヴロス、シェイによるインタビュー。142 右腕を務めた:ローリー・N・エーデ、British Film Design: A History (London: I. B. Tauris, 2010)、

    136頁。142 「もちろん、興味があった」……「ただオフィスにすわって」:トニー・マスターズ、ドン・シェイによるインタビューの書き起こし、1977年4月8日。

    143 「SF映画を作るとなると」……「最ア ン カ ー マ ン後の砦」:ドン・シェイ&ジョディ・ダンカン、“2001: A

    Time Capsule”、シネフェックス、2001年4月号。144 「われわれは白い素材をふんだんに使うことにした」……『さて、どんな色になるだろう?』:マスターズ、シェイによるインタビュー。

    145 「きみを踏みつけるだろう」:ジェントルマン、シェイによるインタビュー。146 「監督を務めた」:シェイ&ダンカン、“2001: A Time Capsule”。147 「とりわけ興味を惹かれました」:フレデリック・オードウェイからウォルター・N・パンケ博士へ、1965年6月7日。

    148 「これまで経験したことのないほど強力な宇宙的帰郷」:ヒューストン・スミス、ジェフリー・ペイン編、The Huston Smith Reader(Oakland: University of California Press, 2012)、73頁。

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    原 注

    148 「色彩の海のなかで洗われる」……「成るために死ななければならなかった」“Tune In, Turn Out, Get Well?”、ジーン・マルムグリーン、セント・ピーターズバーグ・タイムズ (フロリダ州)、1994年11月27日。

    149 「すっかり圧倒」された:クラーク、『失われた宇宙の旅2001』、原書37頁。149 「重要人物」……地球を周回する宇宙ステーションに到着すると……「すぐに届く」:『2001年』プロダクション・ノート、1965年6月1日。

    150 「ある種のTV画面で読まれる二〇〇一年の新聞」:トニー・マスターズからキャラスへ、1965年6月29日。

    151 「ニュースパッドのための用具を作ること」:製作会議No.6ノート、1965年12月11日。152 樫の木に育つどんぐり:ヘヴィー・メタル第10号、1984年1月に引用。アーサー・C・クラーク、『2001年宇宙の旅』 (New York: New American Library, 1968; 新版序文つきの再刊, 1999)、他も参照のこと。

    152 「のちに、わたしは……得がたい経験をした」:クラーク、“Son of Dr. Strangelove”。刊行されたヴァージョンでは、クラークがこの文章を「わずかな代金」という穏当な表現に訂正したのに注意。クラーク、Report on Planet Three 248頁を参照のこと。

    152 「わたしはいったよ、『このろくでなし!』」:キャラス、リクターによるインタビュー。152 「いかにもスタンリーらしい」:キャラス、マカリアーによるインタビュー。153 「やがてある夜」……「『イギリスへ引っ越したいか?』と訊いたんだ」:キャラス、リクターによるインタビュー。

    154 トランクの数は四十八個にのぼった……監督にとって貴重な本:アンソニー・フリューイン、著者によるインタビュー、2016年9月21日。

    154 「スタンリーの取り引き相手で」……彼はいくらでも思慮深くもなれた:キャラス、リクターによるインタビュー。

    155 一カ月ほどのうちに:フリューイン、著者によるインタビュー、2016年9月21日。

    第5章 ボアハムウッド

    156 ひょっとしたら、この惑星におけるわれわれの役割は:クラーク、Report on Planet Three 、145頁。

    156 「映画業界にかかわるなんてご免だよ」:フリューイン、著者によるインタビュー、2016年11月11日。

    157 トニーがいだいていたアメリカ像を粉々に打ち砕いたのだ……「面接を受けに行くしかない」:フリューイン、リクターによるインタビュー、2000年6月29日。

    158 (ここで働いたってかまわない):フリューイン、著者によるインタビュー、2016年11月11日。158 (はたきを持ってどこかに行ってくれないかな)……「やあ、ちょっといいかな」……「ぼくはスタンリー」:フリューイン、リクターによるインタビュー。

    158 「いやあ、すばらしい本のコレクションを」……「そうだね、この映画でかかえている問題のひとつが」……「見るべき画家がほかにいるかな?」……「ええ、長篇を読んできました」……地球外生命に関しては……「使い走りがいる」:フリューイン、著者によるインタビュー、2016年11月11日。

    162 複合施設のかなりにのぼる諸経費は……すでに金食い虫とみなされている:ロブロット、『映画監督スタンリー・キューブリック』、原書271頁。

    163 「大きなパースペックスの品物を作っていただけないでしょうか」……「しかし、作ってみたいですね」……「その形にしよう」……「ひと月かかります」……「よし、見にいこう」……「なんてこった」……「まあ、厚さが六十センチ近く」:シェイ&ダンカン、“2001: A Time Capsule”;マスターズ、シェイによるインタビューの書き起こし。

    165 重さは二トンを超える:重さと現在地は右記のURLによる。http://londonist.com/london/

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    secret/see-the-original-monolith-from-2001-a-space-odyssey。165 「しまってくれ」……「ガラスの板みたいに見える」……「なら、いっそ黒い板にしましょう」: シェイ&ダンカン、“2001: A Time Capsule”;マスターズ、シェイによるインタビュー。

    167 「保険会社がどうやって」:クラーク、“Son of Dr. Strangelove”。167 「信じられないほど優美なヒューマノイド」:『2001年』脚本草稿、1965年6月7日。167 「スタンを必死になって止めた」:クラーク、『失われた宇宙の旅2001』、原書37頁。168 「眠れる美女たち」:『2001年』脚本草稿、1965年12月14日。このいいまわしは、デイヴ・ボーマンとの会話のなかでフランク・プール宇宙飛行士が使うことになっていたが、完成した映画では使用されなかった。キューブリックの義理の弟ヤン・ハーランは、同じことを述べるのに「ポプシクル・ピープル」という言葉を使っている。

    168 「欠点をはっきりと指摘する」……「できるものなら、論理的な理由をひねり出せばいい」……「サスペンスの要素」:クラークからキューブリックへ、1965年8月24日、キューブリックの書きこみあり。

    169 目の前にある答えに気づくのに……「ぼくとしては、結末を特定しないほうが」:同上。171 「それに権威を吹きこんだ」:シェイ&ダンカン、“2001: A Time Capsule”。171 作者を分けられるかぎりにおいて:フレイリング、2001 File:Harry Lange、56頁に引用されたオードウェイの証言を参照せよ。

    171 「おかしな話だが」:シェイ&ダンカン、“2001: A Time Capsule”。172 「われわれの仕事は」……夕方にスタンリーと落ち合い:同上。マスターズ、シェイによるインタビュー。

    173 「それを表現するために、カメラを」……「どうやらわかったぞ!」:シェイ&ダンカン、“2001: A Time Capsule”。

    174 「もう汗だくだったよ」:マスターズ、シェイによるインタビュー。176 「冗談のつもりだった」:フレイリング、2001 File:Harry Lange、32頁。176 V2号ロケットのスケール・モデル:アジェル編、『メイキング・オブ・2001年宇宙の旅』の未編集オリジナル原稿より。1970年2月1日付の訂正で、キューブリックがあえて否定しなかった逸話。アーサー・C・クラークも1967年11月付の『2001年』に関するエッセイや講演のためのメモのなかで、その出来事に触れている。

    178 「ご覧のとおり……複雑さをそなえたコンピュータは」:キャラスからキューブリックへ、1965年7月27日。

    178 「IBMのアテーナの図は……役立たずだ」:キューブリックからキャラスへ、1965年7月29日。180 「かなり大型の、平面で長方形の」:ジョン・ピアース、ベル研究所レポート、1965年6月29日。181 「ほぼ独立した」……「道を見通させてください」……秘密保持のため:オードウェイからユージン・リオーダンへ、1965年8月24日。

    182 「かなり実験的な」……「実験的な研究開発タイプで」:オードウェイからリオーダンへ、1965年10月26日。

    182 頭文字の裏にある用語:オードウェイの推測によれば、ミンスキー自身がその頭字語を考案した。オードウェイ、ラースンによるインタビュー、2003年8月14日。

    182 「発見的とは、もちろん」:マーヴィン・ミンスキー、デイヴィッド・ストークによるインタビュー、 デイヴィッド・ G・ ストーク編、『HAL伝説──2001年コンピュータの夢と現実』 (Cambridge, MA: MIT Press, 1997/邦訳:早川書房,1997)、原書27-28頁。

    183 「望むなら、『事故』を」:クラークからキューブリックへ、1965年10月12日。183 「ある晩(あるいは……いつでもいい)」……「コンピュータは『ノー』という」……「チェスの教本と首っ引きで指すときでさえ」……「不意にコンピュータが……パラドックスについて尋ねる」……「コンピュータはボーマンに話しかけ」:スタンリー・キューブリックによる「ザ・コンピュータ」メモ、UALのキューブリック・アーカイヴ。

    185 「きみがオフィスへ行けば」……「ぼくは……イラストレーターのひとりです」……「願ったり

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    原 注

    かなったりだ」:ダグラス・トランブル、ラースンによるインタビュー、2001年5月7日。トランブル、著者によるインタビュー、2016年9月1-2日。

    186 「当時ぼくは二十三歳で」:シェイ&ダンカン、“2001: A Time Capsule”。188 「ウォーリーはとても科学的で」:トランブル、著者によるインタビュー。189 「ダグはセットへふらりとやってきて」:ジェントルマン、シェイによるインタビュー。189 「ダグは『もっといい方法を編みだせる』といった」:ジェントルマン、著者によるインタビュー。

    189 「いかして見える図表を片っ端から漁って」:ジェントルマン、シェイによるインタビュー。190 「風変わりな頭字語」……「ぼくらは……すわりこんで」:シェイ&ダンカン、“2001: A Time

    Capsule”。190 「自動的に、一日二十四時間」……「じつをいえば」:トランブル、ラースンによるインタビュー。

    191 非英国市民……に対するイーディー・レヴィーの上限は:ロブロット、『映画監督スタンリー・キューブリック』、原書202頁。

    192 「映画会社の経営的干渉はまったくなかった」:トランブル、著者によるインタビュー。193 「土星の環

    リング・システム系の美しさ……を指摘した」:フレイリング、2001 File:Harry Lange、73頁。

    194 「この作品を……仕上げることになっている」:ジェントルマンからレイモンド・フィールディングへ、1965年11月29日。

    194 「わたしはキャリア全体を」……わたしはキューブリックという人間を大いに楽しんだ:シェイ&ダンカン、“2001: A Time Capsule”。

    194 「もしだれかがすこしでも不安そうだと思えば」:ブライアン・ジョンソン、著者によるインタビュー、2017年2月3日。

    195 「激論」の末に:オードウェイ、ラースンによるインタビュー。196 大酒飲みで喧嘩っ早いばかりか:ゲイリー・ロックウッド、著者によるインタビュー、2016年9月11日。

    196 「チェスと暴力が組み合わさっているからでしょう」:ロックウッド、ジャスティン・ボズンによるインタビュー、ショック・シネマ42号、2012。

    197 「ボブ・オブライエンが……とんでもない越権行為だ」:キューブリックからキャラスへ、1965年9月26日。

    198 特務作戦局:デイヴィッド・リスター、“Queen's Tailor Hardy Amies Was a Wartime Hitman”デイヴィッド・リスター、「女王の仕立て屋は戦時中殺し屋だった」、インデペンデント(UK)オンライン、2000年8月23日。

    198 著名な監督とファッション・デザイナーのほかの組み合わせ……ほどには有名ではないものの:エイミスに関する有益な所見のいくつかは、以下の記事に拠った。ローレン・コシャレイン、“2001: A Space Odyssey-The Fashion Power of Designer Hardy Amies”、ファッション・ブログ、ガーディアン(US)、2014年11月28日。 

    198 「われわれは三十三年先の時代をあつかっていた」: ハーディ・ エイミス、Still Here: An Autobiography(London: Weidenfield and Nicholson, 1984)、頁表記なし。

    199 「わたしは懐疑的だった」:ボブ・カートライト、ラースンによるインタビュー、2001年3月4日。199 「茫然として出てきた」……「反対端の俳優たちは」:クラークからウィルスンへ、1965年9月

    10日。201 遠近感の切り替わりが大きすぎるし:セットの記述は、シェイによるマスターズのインタビュー書き起こしに拠っている。

    201 「およそ六週間のうちに」:クラークからウィルスンへ、1965年9月10日。201 「地球は人間のゆりかご」:ツィオルコフスキー、Vestnik vozdukhoplavaniia 。202 「外見だけ見れば」:アーサー・C・クラーク、『幼年期の終り』 (New York: Ballantine Books,

    1953; New York: Del Ray Books, 1990/邦訳:ハヤカワ文庫SF,1979,他)、原書171頁。引用はデル

  • 14

    ・レイ版に準拠。202 「スタンリーからもうひとつの

    4 4 4 4 4 4

    結末の提案」:クラーク、『失われた宇宙の旅2001』、原書38頁。202 「機械生命の時代」……「銀河系の覇者」……「測り知れぬほど短い一瞬」:『2001年』脚本草稿、1965年12月9日。

    203 「ひとつ、ピンと来たものがある──ボーマンが……再度スタンリーから電話があり」:クラーク、『失われた宇宙の旅2001』、原書38頁。

    203 見た目はまさに……未生の赤ん坊だ:著者はこの洞察をロバート・プールに負っている。とりわけ“2001: A Space Odyssey and the 'Dawn of Man'”、タトヤナ・ルジュジュイク、ピーター・クレマー、リチャード・ダニエルズ編、Stanley Kubrick: New Perspectives (London: Black Dog, 2014)所収、182-83頁、ただし、コンスタンティン・ツィオルコフスキー、『幼年期の終り』、レナート・ニルソンを勘案した結果、プールとはちがい、そのイラストだけがスター・チャイルドの先祖だとは考えていない。

    204 「外科手術で除去された」:“The Drama of Life Before Birth”、ライフ、1965年4月30日号。204 監督の注意を惹いた:アイヴァー・パウエルからキャラスへ、1966年5月26日。〈ライフ〉の当該号を請求している。

    204 「小説をあらためてじっくりと考える」:クラーク、『失われた宇宙の旅2001』、原書38頁。206 「スタンリー……状況が変化したという脚本をもらいました」……「トランブル……とっとと出ていけ」……「わかりました、いますぐ出ていきます」:この情景はふたつの証言から構成した。トランブル、ラースンによるインタビュー。およびトランブル、著者によるインタビュー。

    207 「スタンリーの判断で……皆殺しと決まり」:クラーク、『失われた宇宙の旅2001』、原書38頁。207 「わたしは映画界でたたきこまれた」……「耳を貸せ、スタンリー」……「そのあと、彼はとても不機嫌だった」……「すごく気むずかしい男だ」:カートライト、ラースンによるインタビュー。

    209 八十四立方メートルの微細な砂:日付のないホーク・フィルムズのプレス・リリース、1966年1月中旬ごろ。

    210 さまざまな種類の木材が……およそ十四個が作られた……「彼はこんな風に立ちあがって」……「ドサッと音がして、それは塵で覆われてしまった」……「とうてい信じられないよ」:シェイ&ダンカン、“2001: A Time Capsule”、マスターズ、シェイによるインタビュー。

    211 「さあ、とりかかろう」:オードウェイ、フレイリング、2001 File:Harry Lange、75頁。

    第6章 製作

    212 自分のエゴで良いアイディアをつぶしてはいけない:フリューイン、「スタンリー議長」。214 「いや、ほんとにすばらしかった」:アイヴァー・パウエル、著者によるインタビュー、2016年9月20日。

    215 「そら、あったぞ」:『2001年』脚本の草稿、1965年12月9日。217 安全面の記録は:同上、1965年12月17日。218 一月一日の撮影中に、キューブリックは一匹の:スクリプト日誌、1966年1月1日。218 別の日には、一匹のコウモリが……鳴り物入りで現場に導入された〝磁気誘導〝:日付のないホーク・フィルムズのプレスリリース、1966年1月中旬。

    218 「ぱっと見たところ、黒い」……「耳をつんざく強烈な」:引用は『2001年』脚本の草稿の11月のページから;日付は1965年10月13日。

    219 「クラビウスでなにかトラブルが」:『2001年』脚本の草稿、1965年12月9日。220 一月六日の朝:台詞はすべてスクリプト日誌から、1966年1月6日。222 デュリアを出迎えたあと:デュリアの到着場面はパウエルの説明に基づく、著者によるインタビュー。

    222 ローマとパリを遊び歩いて:日付のないホーク・フィルムズのプレスリリース、1966年1月中旬。

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    原 注

    224 そもそもの初めから:ムーンバスのシーンの台詞はすべてスクリプト日誌から、1966年1月13日。227 「リアルなのはいい、興味をそそられるのはもっといい」:フリューイン、「スタンリー議長」。230 シルヴェスターの台詞はおよそ:クラビウスの会議室のシーンの台詞はすべて1966年1月13日のスクリプト日誌から、および『2001年』脚本の草稿の11月のページから;日付は1965年10月13日。

    230 「これ以上はできない、限界だ」……「結局だめだった」……「彼はいじわるではないよ」:ジョンソン、著者によるインタビュー。

    231 キューブリックは「取り乱して」……「あいつはドラッグをやっているのか?」……「あなたの降板を」……「『なんてことを、ああなんてことを』」……「まさにスタンリーが必要としたことだった」:キャラス、リクターによるインタビュー、1999年9月7日。

    235 「きみに設計をやり直してほしい」……「よし、どうなったか見せてくれ」:ジョンソン、ラーソンによるインタビュー、2003年6月19日。

    236 「ウォーリー、きみのスタッフを集めてくれ」:ジョンソン、著者によるインタビュー。236 リールがすべて落下して:トランブル、著者によるインタビュー。239 「そうすることでカメラを」……カメラの配置を変えていた:シェイ&ダンカン、“2001: A

    Time Capsule”。241 「もしも監督になっていなかったら」:ミシェル・シマン、“Working with Stanley Kubrick-John

    Alcott”the Kubrick Site、www.visual-memory.co.uk/amk/doc/0082.html。241 「56でいこう」:ジョンソンが聞いたアンスワース、オルコット、キューブリックのセットでのやりとり、著者によるインタビュー。

    241 「ジェフリー、なにをそんなに」……「なあ、ロジャー」……「きみはそのことに気づいているか?」:キャラス、マカリアーによるインタビュー。

    242 「わたしは殺されて4 4 4 4

    いたかもしれなかったんだ!」:ミンスキー、ストークによるインタビュー、『HAL伝説』、原書24頁。

    243 「メインフロアに着きました」:スクリプト日誌、1966年1月19日。246 「時計のように回転させながら」:遠心機でのカメラ操作についての打ち合わせメモ、1966年1月15日。

    246 わたしたちはその輪といっしょ4 4 4 4

    に上昇した:シェイ&ダンカン、“2001: A Time Capsule”。249 「ケルヴィン! どうした?」:ケルヴィン・パイク、ラーソンによるインタビュー、2003年3月3日。

    249 ジョギングを何日か続けた:キャラスからコラムニストのルイス・ソボルへ、1966年2月23日。250 「恐ろしい仕事場だった」:トランブル、ラーソンによるインタビュー。251 嗜好品としてのドラッグが:フリューイン、著者によるインタビュー。 252 「とても不真面目で」……「けっして大勝ちすることはなかった」:クリスティアーヌ・キューブリック、著者によるインタビュー、2016年6月5日。

    252 あるとき、彼がジンラミーで……「とても簡単な話だった」……「けんかっ早くて」……「あそこには見たこともないほどきれいなスヌーカーテーブル」……「どこでそんなのを身につけたんだ?」……「彼は冷静きわまりなかった」:ゲイリー・ロックウッド、著者によるインタビュー、2016年9月11日。

    254 「責任があるかもしれない」……「実現可能性調査」:台詞はスクリプト日誌から、1966年1月26日。

    255 「少しばかり冗長で」:ゲイリー・ロックウッド、ラーソンによるインタビュー、2003年12月8日。

    255 「今日はいつものような熱意が」……「なあ、スタンリー、わたしは荒っぽい」……「今日はここまでだ」:ロックウッド、著者によるインタビュー。

    256 あのシーンが正しくないという確信:ロックウッド、ボザングによるインタビュー。256 「この偉大な映画を守りたい」……「ボスがきみに会いたがってる」……「正直に言うと、テキーラが好きだ」:ロックウッド、著者によるインタビュー。

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    257 「ああ、ショパンでいいよ」:ピート・ソーントン、“Gary Lockwood and Keir Dullea-2001:A Space Odyssey Interview”、フロントロー・レビュー、2014年12月1日号、www.frontrowreviews.co.uk/features/keir-dullea-and-gary-lockwood-2001-a-space-odyssey-interview/31914。

    257 「わたしはね、大統領閣下、月へ人を」:ロックウッド、ラーソンによるインタビュー。257 「コンピュータに圧力をあたえる」……「しっくりこない」:ロックウッド、著者によるインタビュー。

    257 キューブリックのことは世界最高の監督:ロックウッド、ボザングによるインタビュー。257 「きみはそのまま家に帰ってくれ」:ロックウッド、著者によるインタビュー。 258 きわめて人間的な被害妄想を:ロックウッド、ボザングによるインタビュー。258 二月の氷点下の夜だった:ロックウッド、著者によるインタビュー。 259 たとえ全員が狭苦しいセットの中で立っているときでも:ヘザー・ダウンハムはこの件について『2001年』のドキュメンタリーで少しだけ異なった説明をしている。2001:The Making of a Myth、ポール・ジョイス監督、2001年 (Warner Bros. Home Entertainment Group, DVD)。

    259 「『戦争と平和』を書こうとするような」:キューブリックはこの対比をよく使っていたが、一例として、D・W・グリフィス賞を受賞した際に披露されたビデオメッセージを参照。www .youtube.com/watch?v=tBYJJzpxH9Q。

    260 「わたしは畏怖の念をあらわにしていた」……ぼくのせいで申し訳ないことに:キア・デュリア、リクターによるインタビュー、2000年4月1日。

    261 「史上最高の映画になる」……「こんなの信じられるか?」:ロックウッド、リクターによるインタビュー。

    261 「スタンリーはほかの監督たちより」……「彼には考えをぶつける相手が」:ビゾニー、The Making of Stanley Kubrick's 2001、371頁。

    263 セイロン政府を説得している真っ最中に:ウィルスンの映画を完成させるための苦労に関するクラークからブラウへの説明、1966年3月19日;クラークからウィルスンへ、1966年3月27日。

    264 「軟着陸探プ ロ ー ブ査機のジオフォン」:クラークからキューブリックへ、1966年3月3日。

    264 「きみたちの唇を読めばいいのさ」:ロックウッド、ボザングによるインタビュー。264 「ああ、それはすごいアイディアだ!」……この映画への最大の貢献:ロックウッド、著者によるインタビュー。

    265 「ポッドベイのドアをあけろ、HAL」……「残念ですが、デイヴ」:映画『2001年宇宙の旅』、スタンリー・キューブリック監督 (Metro-Goldwyn-Mayer, 1968)。

    266 ポッドのアームでエアロックのドアを:キューブリックからクラークへ、1966年2月10日。267 「とてもいいと思う」:クラークからキューブリックへ、1966年2月13日。268 そのすべての動きが:ワイヤアクションの技術についてはピーター・ブルック、Peter Brook's

    Production of A Midsummer Night's Dream (Woodstock, IL:Dramatic, 1974)、79頁。269 アンスワースはパイクにカメラの遅回しを指示し:スクリプト日誌、1966年6月20日。269 「『どうして進んであんなことを』」:キア・デュリア、著者によるインタビュー、2016年9月4日。

    270 デュリアの話によれば、彼のコックニーなまり:同上。270 撮影は打ち止めとなった……「誕生日おめでとう、フランク」:スクリプト日誌、1966年3月7日。

    271 「残念ですが、フランク、あなたの負けだと思います」:同上、1966年3月27日。271 キューブリックはHALの最初の犠牲者:チェスのゲームの分析について参考にしたのは、ビル・ウォール、“2001:A Chess Space Odyssey”、Chess.com、2007年6月22日、www.chess.com/article /view/2001-a-chess-space-odyssey;それと邦訳版『HAL伝説』では、マレイ・S・キャンベル「「とても楽しいゲームでした」 ──HALはどのようにチェスをプレイするか」(第五章の章題)、出典はストーク編、『HAL伝説』、原書75頁。

    272 「とてつもなく才気あふれた貢献」:スタンリー・キューブリックからイングマール・ベルイマ

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    原 注

    ンへ、1960年2月9日。272 「今度サウンドミキサーが昼食から戻るのが」:アンドリュー・バーキン、著者によるインタビュー、2016年11月10日。

    273 「ぼくに説明ができないとすれば」……キューブリックが求めていたのは真実であり:ブライアン・ロフタス、リクターによるインタビュー、1999年11月16日。

    273 「これを見ろ、ブライアン」:ロフタス、著者によるインタビュー、2016年9月22日。274 「スタンリーは二年半ずっと」:ジョンソン、ラーソンによるインタビュー。274 キューブリックは十二歳のときから:クリスティアーヌ・キューブリック、著者によるインタビュー、2016年6月5日。

    274 彼は時速四十六キロメートルという速度制限を:キャラス、リクターによるインタビュー;クラーク、『失われた宇宙の旅2001』、原書47頁。

    275 勇ましさを見せようとするのは愚か:キャラス、リクターによるインタビュー。275 「フェアな戦いに加わるつもりはない」:バーンスタイン、著者によるインタビュー、2016年10月17日。

    275 「わたしはあの映画を完成させるために」……先週、また一万を……「過去十年間の稼ぎをすべて」:クラークからウィルスンへ、1966年3月12日。

    277 彼は単に映画が公開されるまで:フリューイン、著者によるインタビュー。 277 「彼が次々と築いた人間関係は」……「アーサーがあんなにいらいらしていたのは」……彼は本を仕上げることができなかった:キャラス、マカリアーによるインタビュー。

    279 頭がおかしくなりそうな不安を抑えつけ:クラークからメレディスへ、1966年3月16日。279 「たくさんの不必要な枯れ木」……「故障しているのはHALのほうかもしれない」……「診断を改めようとはせず」……「しかもずっと論理的だ」:クラークからスタンリー・キューブリックへ、1966年3月11日。

    280 「どうすればいいのかわからない」……「なぜ批判するのかって?」……「とてもむりだ」……「ハンバーガーを食べよう」……「〝ぼくはただのマヌケ野郎だ〝 と自嘲する瞬間が」:クリスティアーヌ・キューブリック、著者によるインタビュー、2016年9月22日。

    282 内部の気温は三十度を:温度の推定はビル・ウィルスン、ラーソンによるインタビュー、2001年12月19日。

    283 トースターの内部のよう:パイク、ラーソンによるインタビュー、2003年3月3日。283 「これは殺人の場面にしたいんだ」……「肉体っぽく見せたのよ」:クリスティアーヌ・キューブリック、著者によるインタビュー、2016年6月5日。

    284 「うわ、まずいな」:バーキン、著者によるインタビュー。284 「ああ、聴きたいよ、HAL」:『2001年宇宙の旅』、キューブリック監督。285 デュリアが最高の演技を……「デイヴ、聞いてください」……「黙るんだ、HAL」……「ねえ、デイヴ、ひとつ思いついた」……「ああ、そうだな、HAL」:スクリプト日誌、1966年6月29日。

    287 「メジャー映画4 4 4 4 4 4

    とみなされる作品のテーマ」:トニー・フリューイン編、Are We Alone? The Stanley Kubrick Extraterrestrial Intelligence Interviews (London:Elliott & Thompson, 2005)、11頁。

    288 「あれはスタンリー・キューブリックの数少ない最悪のアイディア」:引用元はアーサー・C・クラークによる序文、フリューイン編、Are We Alone?、7頁。

    288 二月の最初の返信で:セーガンからキャラスへ、1966年2月9日。288 「文脈にそぐわない引用とか」:セーガンからキャラスへ、1966年3月10日。288 編集権は渡せない:キャラスからセーガンへ、1966年3月15日。289 「異星人を化学実験室の瓶に入れ」:クリスティアーヌ・キューブリック、著者によるインタビュー、2016年1月15日。

    290 「だいたいこんな感じの場面です」:キャラスからクレイグ・W・ムーディ・ジュニアへ、1965年7月29日。

    290 「ならんでいるこぶ」……「この床が輝いて」:キャラスからマスターズへ、1965年8月6日。

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    291 「フレンチベッドルームはどうだ?」:マスターズ、シェイによるインタビュー。293 八日かけて撮影されたホテルの部屋のシーン:この件については1966年6月23日のスクリプト日誌のほか、デイヴィッド・ラーソンによるこれらのアクションのスチル写真の詳細な調査を参考にしている、ラーソンから著者へのeメール、2017年8月19日。

    294 「とてもよい演技!」:スクリプト日誌、1966年6月24日。295 「スタンリー、このグラスを」……「よし、いいだろう」:デュリア、著者によるインタビュー、

    2016年9月4日;ソーントン、“Gary Lockwood and Keir Dullea”。295 「とてもよい」:スクリプト日誌、1966年6月24日。296 「ささやかな貢献」:ソーントン、“Gary Lockwood and Keir Dullea”。296 「きみがキアを映画に出すことを」:スタンリー・キューブリックからデイヴィッド・ウォルパー、1966年12月15日。

    296 例として、この公案を考えてみよう:“Zen Koans”、AshidaKim.com、www.ashidakim.com/zenkoans/zenindex.html。

    第7章 パープルハートと高所のワイヤ

    297 充分に進歩したテクノロジーは:とても広く知られているのでひとつの引用元をしめすことに意味はないが、ここでの引用元は“Sir Arthur C. Clarke, Visionary, Died on March 18, Aged 90”、エコノミスト、2008年3月27日。

    298 「第二の謎が生まれる」……「武器の導入がはるかに」:キューブリックからクラークへ、1966年4月11日。

    299 「こちらへは来ないでほしい」:キューブリックからクラークへ、1966年4月19日。299 クラークはいずれにしても:クラーク、『失われた宇宙の旅2001』、原書46頁。299 彼のエージェントからのメッセージ:メレディスからクラークへ、日付はないが1966年4月17-18日頃。

    300 「鬼気せまるスペクタクル」……「二、三のシネラマ館での限定公開」:クラーク、『失われた宇宙の旅2001』、原書46頁。

    300 「切り立った北壁」:マイケル・ハー、Kubrick (New York:Grove Press, 2000)、61頁。300 数日後にはロジャー・キャラスや:クラーク、『失われた宇宙の旅2001』、原書46頁。301 「あのまぬけなジョージ二世」:バーキン、著者によるインタビュー。 302 〝スタンリーの子分たち〝 :パウエル、著者によるインタビュー。 303 たとえばある日、バーキンは……その内容をすべて読んだりもした……「興味があるんです」……バーキンは“幽霊番”……「動くな、警察だ」……「監督はなんて言ったんだ?」……「イングランドに砂漠がないなんて信じられない」……「砂漠がある場所を知ってますよ!」……「これはきみにとってチャンスかもしれないぞ」……「わかった、じゃあ、写真を撮ってきてくれ」……「魔法のように見せたかった」……「やあ、アンドリュー」……「さて、諸君」:バーキン、著者によるインタビュー。

    309 「〝まあ、手始めとしてはいいんじゃないか〝 と思った」……「うわ、きみたち、なんてこった」……キューブリックは急に興味をそそられて近づいた:マスターズ、シェイによるインタビュー;この逸話はビル・ウェストンによって確認されている、ラーソンによるインタビュー、2002年12月19日。

    311 「大丈夫だ──腰から上だけ」:シェイ&ダンカン、“2001: A Time Capsule”。311 「こういう小さなプラスチック製の代物」……「あれはなかなかのできばえで」……だが、問題は:同上;スチュアート・フリーボーン、ジョーダン・R・フォックスによるインタビュー、1976年頃。

    313 「赤毛の、とても陽気なアシスタント」……でも、最悪だったのは……「すごく、すごくいい感じに」……「スタンリー、ぼくには見当もつきません」……「ジョーディーに」……「はい、スタン

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    原 注

    リー」……それで、ぼくはこの衣装を身につけたまま:キース・ハムシャー、リクターによるインタビュー、1999年11月11日。

    315 ファインからメレディスに届いた電報:ファインからメレディスへ、1966年6月5日。316 「おめでとう、びっくりだ」:メレディスからクラークへ、1966年6月5日。316 今回の金額よりもだいぶ低かった:メレディスからクラークへ、日付はないが1966年4月17-18日頃。

    316 動揺し、裏切られた気持ちになった:参照例、メレディスからクラークへ、1966年6月13日;キューブリックからクラークへ、1966年7月12日。

    316 「単刀直入に言って」:メレディスからクラークへ、1966年6月13日。316 「すこしばかり頭に血がのぼった」:クラーク、『失われた宇宙の旅2001』、原書47頁。317 「泣こうが、わめこうが、ふてくされようが」:クラーク、“Son of Dr. Strangelove”。317 「どの出版社も本のできばえをとても喜んでいる」:クラークからキューブリックへ、1966年6月15日。

    317 「たいへん鋭い」……「本は映画の公開に先立って」……「こうしたテストの」……「この場面はわたしには前々からリアルさが」……「ここは出来の悪い章で」:クラーク、『失われた宇宙の旅2001』、原書47-48頁。

    319 「今月中には本を刊行」:クラークからトム・バックへ、1966年6月22日。319 「彼は一日に二十時間働き」:クラークからアルフレッド・ランシング、1966年6月22日。319 結局、七月四日に:クラーク、“Son of Dr. Strangelove”のための予定表。319 「すぐにでも不快な気分でこの地を離れ」:クラークからウィルスン・ハンターへ、1966年7月5日。

    319 明白な証拠がある:ウィルスンからクラークへ、1986年3月11日;クラークの“Son of Dr. Strangelove”も参照、訴訟の可能性について警告するスタンリー・キューブリックからキャラスへの手紙、1966年8月15日。

    319 「目の覚めるような見開き広告」:クラーク、『失われた宇宙の旅2001』、原書49頁。デルの出費についてはクラークからサム・ヨウドへの手紙にも記述あり、1967年6月14日。

    320 彼の取り分の「すべてまたは一部」:キューブリックからクラークへ、1966年7月12日。320 「相手がアーサーであれだれであれ」:キューブリックからキャラスへ、1966年8月15日。320 「涙をこらえ」:クラーク、『失われた宇宙の旅2001』、原書49頁。320 九月中旬には、クラークはセイロンへ:クラークからブラウへ、1966年9月14日。321 そしてウェールズにある放棄された……「やめてもらっては困る!」:バーキン、著者によるインタビュー。

    321 「いや、ほんとに申し訳ないんだが、スタンリー」:ジョンソン、著者によるインタビュー、2017年2月3日。

    322 「まだクラビウス基地の着陸パッド」……「五十ペンス硬貨みたいな」……手早く仕上げたのに:バーキン、著者によるインタビュー。

    322 「トニー・マスターズは『2001年』の」:トランブル、著者によるインタビュー。323 新しい機械で作業を:ロフタス、著者によるインタビュー。323 ウォーリー・ジェントルマンはそれ以前に:ジェントルマン、シェイによるインタビュー。323 だが、ロフタスはバーキンや……「きみの提案は?」:バーキン、著者によるインタビュー;同じバーキンの、TV Store Onlineに掲載されたジャスティン・ボザングによるインタビューも参照、2015年4月1日。

    324 彼は紙の上で事前に……機体はアルエットという……バーキンはあちこちのロケ地で低空からの:バーキン、著者によるインタビュー;撮影プランの文書はバーキンから著者に提供された、2016年11月3日。

    325 彼はキューブリックに二十ページにおよぶ